高尾~上野原
H.30.11.17~18
早朝家を出て、東海道線、新幹線で東京へ。中央線に乗り換え高尾駅にAM.9時5分に着いた。高尾駅前は「高尾山、陣馬山縦走ハイキング」などのツアー登山者や、バスで高尾山口まで行く人であふれていた。9時15分に歩き始める。
関野町小淵歩道橋先を斜め右の関野旧道に入る。この分岐には「甲州古道 坂の上」標柱がある。先のY字路で左の坂を下りる。竹藪が茂る旧道を下り、国道20号線に合流する。この分岐には「甲州古道」標柱がある。国道左側の歩道を進み左右にカーブしながら下る。名倉入口交差点を斜め左の坂を下りる。この分岐には「甲州古道 下小淵下」標柱がある。
吉野郵郵便局の向かいに庚申塔が建っている。郵便局の手前の急坂を上ると吉野神社がある。本陣を勤めた吉野家が創建した村の鎮守である。吉野家は承久の乱(1221)に敗れこの地に移り住んだ。イチョウの黄葉がきれいで、銀杏が落ちて、独特の匂いがした。
明治天皇碑を右折し、坂を上る。旧道に入ると中央自動車道越に「慈眼寺がある。明治5年の神仏分離まで、与瀬蔵王権現の別当寺であった。左隣は與瀬神社で祭神は大和武尊。昔は相模湖北岸にあったが、天和2年(1682)現在地に遷座した。大和吉野山の蔵王権現を勧請した古社で、与瀬宿の鎮守であった。上から見ると、相模湖が眼下に広がる。 相模湖は昭和22年、相模ダムの完成によってできた人造湖。それ以前の相模川は急峻な渓谷であった。
「甲州古道標柱 平野」を斜めに右に入る。坂を上り進むと右側に小社がある。段上に天明7年建立の「地蔵尊」と「小社」が各々の祠に安置されている。花入れや供え物が散乱していて、お世話が行き届いていない。
40分かかって小仏峠西坂を下り、底沢分岐に出る。合流点を右に回りこみ底沢バス停に向かって歩く。中央自動車道高架をくぐり突き当りを左折する。
道中は逆S字のヘアピンカーブになる。往時は直登であった。小仏峠最大の難所だったのかもしれない。カーブを回りきると右手に「景信山登山口」がある。景信山には北条氏照の重臣横地景信(かげのぶ)の出城があった。右手に駐車場が現れる。沢山の車が止まっていて、登山者が行き来していた。この辺りに「小仏の一里塚]があったが位置は不明です。江戸日本橋より14里目である。 左に進むと小仏峠登山口がある。「標高369m」の標識があった。
摺差(するさし)バス停の所に「峰尾豆腐店」がある。おからドーナッツとおからかりんとを買い求めた。その先に「常林寺」がある。南朝方の重鎮小山氏の末裔峰尾氏がこの地に土着して開基。境内には板碑がある。小仏川に沿って歩くと「浅川国際鱒釣場」があり、釣り人が釣りをしていた。小仏川は小仏の谷間に源を発し、木下沢川、案内川を吸収し、流末は浅川に落ち合う。
駒木野宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、問屋3軒、旅籠12軒で、宿内の人口は355人であった。小仏宿と合宿で、問屋の継立業務は月の内16日から晦日まで勤めた。
しばらく進むと、右の奥に「慈眼寺」がある。境内には右手を右耳に当てた「愚痴聞地蔵尊」がある。その先に「船守寺」がある。境内には「船守り弥三郎」碑がある。(当地出身の弥三郎は伊豆国伊東で漁師になり、日蓮聖人を「まな板岩の流罪」から救い出した。昭和33年、伊東市蓮慶寺から弥三郎の遺骨を分骨し、ここに祀った。)
やっとの思いで坂を上りつめると右側に「諏訪関跡」がある。武田家が設置した「甲斐二十四関」のひとつ。徳川の世になると「境川口留番所」と呼ばれた。明治4年に廃止された。
突き当りを右折すると、左側に「藤野町郷土館」がある。大房家は組頭を勤め、、旅籠ふじや跡である。その向かいには、吉野本陣跡がる。吉野十朗右衛門が勤め、名主を兼ねた。五層楼閣の威容を誇ったが、明治29年の大火で焼失した。焼け残った土蔵と「明治天皇聖蹟」碑がある。奥にある母屋は大正時代に建てられたもので、現在子孫は住んでいない。
草道から舗装路に出て右折する。観音寺先の突き当りを左折する。ここに「甲州古道 桜野」道標がある。右手の緑色のゴミ箱の間に入り、細い道を下る。この分岐には、「甲州古道 矢部」標柱がある。
郵便局を過ぎると、「坂本本陣跡」がある。「明治天皇与瀬御小休所趾]が建っている。敷地と築山を残している。とあるが、荒れ果てていて、どこが築山なのか分からない。往時は建坪111坪を誇ったという。
祠先を回りこんで旧道を下ると、右手の擁壁の上に「石仏石塔群」がある。馬頭観音、題目碑、享和3年(1803)建立の「大道長安信士墓」がある。切通しの旧道を下ると右手がガードレ―ルになる。ガードレールの切れ目から右手の石段を下る。この坂が「えんどう坂」でこの分岐に「甲州道中与瀬宿標柱」がある。坂を下り、甲州街道相模湖与瀬歩道橋の所で、国道20号線に突き当たる。ここを右折するが、今日の宿を探して左折した。宿に入り、相模湖の方に坂を下り、レストランで夕食をとった。
この分岐を右折すると、550mの所に「照手姫の水鏡七つ淵」がある。小栗判官の照手姫は美女谷の生まれである。美女谷川上流の七つ淵の水鏡で黒髪を梳く姿はまばゆいばかりの美しさであった。今は明治初期にできた「美女谷温泉」がある。左折して、中央高速の高架をくぐる。高速手前の大石の上に明治16年建立の馬頭観音文字塔が祀られている。並びに「甲州古道板橋標柱」がある。
「小原宿、相模湖方面、底沢バス停」の標識に従って峠を下りる。途中に開けたところがあり、中峠茶屋跡である。
「小仏城山」方面に行くと広場に「明治天皇小佛峠御小休所趾御野立所」碑、「三条実美歌碑」「地蔵尊」寛政7年(1795)建立の高野山道標等がある。 朽ち果てた青木茶屋跡がある。江戸時代には旅籠が5軒あり、飯盛もいて大いに賑わったという。
小仏峠東坂を上る。峠道は九十九折の急登で大勢の下りてくる登山者とすれ違った。45分かかって小仏峠頂上に着いた。標高560mで、行基が峠に寺を建て、1寸8分の小さな仏像を安置したことからこの名前になった。峠は武蔵国と相模国の境で、現在は東京都と神奈川県の県境になっている。
大下バス停を過ぎると右の道の奥に「稲荷神社」がある。小社が祀られているが、草が生い茂っていて手入れがおろそかになっている。その先に「三度屋跡」と「名主宅跡」があるというが、何も残っていない。「明治天皇御休憩所」碑も見つけられなかった。旅籠屋「鈴木藤右衛門」跡で、名主を兼ねた。
小仏峠宿は、難所小仏峠を控え賑わい、小仏川のヤマメが名物であった。本陣、脇本陣はなく、問屋1軒、旅籠11軒で、人口は252人であった。駒木野宿と合宿で、問屋業務は朔日から15日は八王子宿と小原宿へ継立、16日から朔日は駒木野宿へのみ継立た。
南浅川を両境橋で渡り西浅川町に入る。西浅川の信号を右に入るのだが、「イチョウ祭り」の人出に気をとられ、道なりに進んでしまった。しばらくして気が付き西浅川交差点まで戻り右に入る。左側に「高尾駒木野庭園」がある。(この建物は、昭和2年、駒木野病院に改組される前の「小林病院」がこの地に開院され、住居兼医院として利用されたものである。大正年間に築造された平屋の母屋と昭和初期に増築された二階屋からなっている。八王子に寄贈され、庭園を整備し、「駒木野庭園」として公開されている。)
諏訪橋で中央自動車を跨ぐと右手に「疱瘡神社」がある。万治4年(1661)越前国湯尾峠から疱瘡の神様を勧請し創建された。疱瘡は鬼人の仕業と恐れられ、3月と12月の祭礼は参詣者で賑わう。 神社の裏手には一里塚の片塚を残している。「塚場の一里塚」で塚木はモミノキであった。今はこんもりした土の山が残っているだけである。江戸日本橋より18里目。
橋を渡り、サテラ電気を右の小淵旧道に入る。右手に馬頭観音が安置されている。藤野中学校を右折する道もあったが直進し国道に合流する。小淵駐在所の先の左側におおきなエノキが聳えている。「関野の一里塚」で江戸日本橋より17里目である。関野村地内で片塚であった。
左手に中央自動車や相模湖を見ながら進むと、右手に石仏石塔群がある。庚申塔、廿三夜塔、地蔵尊が並ぶ。奥には、朱塗りの献灯があり、秋葉神社鳥居がある。さらに下り坂を進み、Y字路を右折すると、廿三夜塔、名号碑があり、段上の小社には馬頭観音が祀られている。
宿並右手の小原本陣は神奈川県内の東海道、甲州道中にあった26軒の本陣の内、唯一現存する本陣遺構である。瓦屋根の門構え、入母屋造りの建物、13室の部屋が往時のまゝ残されている。本陣を営んだ清水家の祖先は北条氏の家臣、清水隼人介で、北条氏滅亡後この地に土着し、代々本陣を勤め、問屋、名主を兼ねた、。
今回は小仏峠はじめ、坂道が多く足を使い大変な思いをしました。。この先はJRの駅からも離れるので歩く計画も大変になります。久しぶりの山歩きも楽しかったです。
街道筋の中華料理屋さんで遅い昼食をとる。隣の「浅間神社」にお参りをし、上野原駅に向かう。途中「牛倉神社」に立ち寄る。旧上野原村の鎮守。駅は遠く30分以上歩いた。今度来る時は新町2丁目までバスに乗った方が良いと思った。
油屋の表札を掲げた旧家の先の右側に「旧甲州街道碑」がある。碑には「あいさつをかわす思いやりの道、昔をしのぶ思いでの道」と刻まれている。
その先の右側には「諏訪神社」がある。この地を支配した古郡氏が諏訪神社を勧請した所から「古郡神社」とも呼ばれた。境内には芭蕉句碑がある。「稲妻に悟らぬ人の尊さよ」
坂を下り、境沢を境沢橋で渡る。境沢は相模と甲斐の国境である。今は神奈川と山梨の県境である。上り坂を進むと県道520号に突き当たり、ヘアピン状に右折すると、左に白い境川橋が見える。九十九折の急坂を上ると相模川の眺望が広がる。
その先の右側に増珠寺がある。参道口に天明元年(1781)の建立の「関野宿講中」と刻まれた庚申塔がある。文政12年(1829)追手風喜太郎が建立した「安昌久全信士」碑がある。(力士追手風喜太郎は寛政11年(1799)ここ関野で生まれ、叔父の追手風小太郎に弟子入りし、大関にまで出世し、引退後も相撲界の発展に寄与した。増珠寺に五具足、燭台などを寄贈した。)
関野宿は甲斐国との国境を控え重要視された。本陣1軒、問屋1軒、旅籠3軒で、人口は635人であった。宿並は明治22年の大火で焼失した。国道を左折すると右側に「関野本陣跡」解説がある。中村家が勤めた。
吉野宿は桂川の畔にあるところから「桂の里」と呼ばれた。本陣1軒脇本陣1軒、問屋1軒、人口は527人であった。宿並は明治29年の大火で焼失してしまった。
左手に相模湖を見ながら進み、中央自動車の相模湖インター入口を小舟橋で跨ぎ、先で国道20号に合流する。その手前に高札場があり、段上に六地蔵が並んでいる。吉野宿に着きました。
急な坂を下り、「甲州街道赤坂標柱」や「藤野町地区自治会掲示板」を斜め右の草道に入る。草道を下り、突き当りのネットフェンスを左折する。途中、中央本線のトンネルが見える。
左手の自動車板金塗装の会社を左に入る。この分岐には「甲州古道 子の入標識」がたっている。急坂を下り、中央自動車を天奈橋で渡る。
ラーメン屋の手前の砂利道を入っていくと、貝沢道標が倒れていて、道が通れないようになっている。手前の丸太の道を下に下り、貝沢橋を渡る道が古道であるが、草が生い茂り、気味が悪いので、迂回することにした。ラーメン屋の先を右にはいり、中央自動車道高架の下をくぐり、古道に合流するところに「甲州道中 横路」の標柱がある。
「甲州古道標柱」まで戻り、街道を進む。途中JR中央線の相模湖駅による。元は「与瀬駅」といった。近代的な新しい駅だった。
鮎が名物であったが、広重は値が高く不味いと評している。本陣1軒、問屋1軒、旅籠6軒で人口は566人であった。小原宿と合宿で、小原宿は小仏宿からの荷を与瀬宿を通り越して吉野宿へ送り、吉野宿からの荷は小原宿を通り越して小仏宿へおくる、片継の問屋業務を行った。
今日の宿、もみじ旅館は、年代物の建物であった。
本陣の向かいには旧屋号「機屋」を掲げた旅籠菊屋、「ひかえ宿小松勇右衛門」旅籠小松屋跡 本陣、脇本陣の控えであった。街道を進むと「南無阿弥陀佛名号碑」がある。文政2年(1819)の建立である。碑の角を左折し広場を横切り、突き当りを右折して、国道20号線を横断する、
JR中央線長久保架道橋の右側に「小原の一里塚跡」がある。旧道は馬頭観音のあたりから中央自動車高架を抜け、小原宿本陣脇に通じていた。中央自動車の敷設で消滅してしまった。江戸日本橋より15番目。底沢バス停のむかいに「道標」がある。「これより 二丁半 小原宿」と書かれている。その先の右側に郷土資料館「小原の郷」があり、休憩した。
浅川神社の隣には「宝珠寺」がある。参道口に弘化4年(1847)建立の馬頭観音がある。小仏旅籠三度屋青木家の菩提寺で、三度飛脚が奉納した常夜燈がある。参道脇にあるカゴノキは都天然記念物である。主幹は枯れてその周りを枝幹が取り巻いて一株になっている。樹高13mで、一部の根が道路に露出している。カゴノキはクスノキ科に属し、暖地に自生する常緑高木である。
その先の右手に「小仏バス停」がある。京王バス、高尾駅北口発の終点。山を下りて来た人たちがバスを待っていた。先ほど買った「おからドーナツ」を食べて昼食にした。初めて食べたが結構美味しかった。 歩き始めると左側に「浅川神社」がある。境内の湧水が浅川の水源になっている。「水の神」として崇敬された。
木下沢橋を渡ると新しい「道標]が建っている。「右小仏峠影信山」「右日蔭沢高尾山」UR中央線高架赤煉瓦のガードをくぐると小仏宿に入る。
その先の左側に享和3年(1803)建立の「是より高尾山道」道標が建っている。その横に「蛇滝水行道場入口」と書かれた道標が建っている。(高尾山を中興した俊源大徳という僧が、「水行」に適した滝を探していると、漁師が白蛇を殺そうとしていた。僧は金子を渡して命を助けた。白蛇が崖を上りつめると一条の滝となった。という蛇滝伝説がある。)
街道に戻ると、向こう側に旅籠「ふじや新兵衛」がある。軒下に「講札」が掲げられている。建物脇には高尾山中腹にある蛇滝への道標「上行講是より蛇滝まで八丁」がある。」
その先の右側には、「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑」がある。右の線路の方に進むと、「いのはな慰霊碑」がある。(昭和20年8月5日、中央線いのはなトンネル付近で列車が米軍機に銃撃され,疎開に向かう学童52名以上が死亡した。)
その先の左側に「念珠坂碑」や青面金剛像、名号碑、地蔵尊らがある。(昔、この辺りに鬼がいて人を襲った。ある時老婆を襲うと、持っていた念珠の紐が切れて玉が飛び散った。鬼は足をとられて坂下まで滑って、大穴に落ちた。以来鬼は現れなくなった。)その先の左側の祠の中に地蔵尊と宝永3年(1706)建立の青面金剛像(庚申塔)が安置されている。
駒木野医院の先の左手に「駒木野橋跡」碑がある。駒木野土地区画整理事業により撤去された。その向かいには「小仏関所跡」がある。(関所の開門は明け六つ(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)までとし、江戸からの旅人は太鼓橋の駒木野橋を渡り、木戸から関所内に入り、手形を「手形石」に並べ、手付石に手をついて待ち、許されると西の門から関所を出た。尾崎行雄筆による「先賢彰徳碑」がある。幕末尊王攘夷に身を投じた関守落合直亮を顕彰したもの。)
2日目