京王線つつじヶ丘~分倍河原
H.30.6.17
帰りで街道ウオークに出かけた。始発の新幹線に乗り、京王線に乗り換え、つつじヶ丘駅に着いた。午前8時30分に歩き始める。金龍寺会館前で左折すると、先の右側の道に鎮守「厳島神社参道」の石標が建っている。更に進むと右側に「地蔵菩薩立像(妙円地蔵)」が建っている。(金子村に嫁いできた女性が盲目となり出家。寿量妙円尼と号した。文化2年(1805)浄財をもとに地蔵菩薩像を造立し、文化14年念仏を唱えながら往生した。滝沢馬琴の紹介で江戸近在にまで有名になった。墓は深大寺にある。長い間頭部を欠損していたが昭和62年に地元の有志により修復された。)よく見ると頭部が新しいのがわかる。
街道筋に無人の野菜販売があり大根、大きなズッキーニ、さやいんげんが売っている。相棒と話をしながらいんげんを買い、100円を入れていると、家の窓が開いて「買っていって下さい。」の声がした。その先の酒屋の角を左に曲がる。先ほど別れた旧甲州道中沿いに「常久の一里塚跡」がある。探していると酒屋さんが教えてくれた。(両塚共常久村往還より30間程の所にあった「甲州古道の一里塚で、塚木は松と杉であった。)日本橋より7里目。「しながわ道の一里塚」と刻まれている。旧甲州道中は東海道の品川に通じていた。
「飛田給薬師堂」がある。境内に「行人塚」がある。仙台藩御殿医であった松前意仙は諸国遍歴の末に貞享3年(1686)石造瑠璃光薬師如来立像を彫り上げ、墓穴を掘り、自ら入定し成仏した。薬師堂にはこの像が安置されている。ここで江戸初期の甲州道中と別れ右の道を行く。
飛田給の地名は、古代、武蔵野を往来する旅人の飢えや病を救う施設「非田給」がこの地にあったことに由来している。その先の左側の坂を「鹿島坂」という。碑には(大国魂神社例大祭の国造代法幣式を司る鹿島田家に由来する。奉幣使が神馬に乗って坪の宮におもむき、神輿渡御の完了を告げたあと、鹿島坂を下り甲州街道を東上し、御旅所へ参行して、奉幣を行った。)
境内には宮乃咩(みやのめ)神社がある。たくさんの穴の開いた柄杓が奉納されている。(この神社は本社大国魂神社と同じ景行天王の時代にの創建で芸能の神、安産の神として崇敬されている。頼朝の妻政子が安産の祈願をしたと伝えられる。願いが叶うとお礼に底の抜けた柄杓を納める風習が今でもある。 また、境内には「武蔵野国府跡碑」がある。
普門院まで戻る。薬師如来は「目の神様」として親しまれ、9月の縁には参詣客で賑わう。奉納してある絵馬には「め」の字が書かれていて、裏にめいめいの願い事が書かれている。中には「耳を治してほしい」と言う願い事もあったが、聞いてくれるだろうか?お堂を覗くと中には閻魔大王と十王も祀られていた。
その先を左の奥に「八幡神社」がある。武蔵国府八幡宮、聖武天皇(724~49)の時代、一国一社の八幡宮として創建されたもの。鬱蒼とした森の奥に社殿があり、足の悪いおじいさんが途中で自転車を下りて、杖をついてお参りをしていた。
府中宿は生糸を扱う商家が軒を連ね、鎌倉街道を控え大いに賑わった。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠29軒、問屋3軒だった。
不動尊前交差点の右手に「交安観世音菩薩像」が祠の中に安置されている。その向かい側には「染屋不動尊」がある。本尊の金剛阿弥陀如来立像は国重文。新田義貞が鎌倉を攻めた際の陣中の守護仏であった。「上染屋」碑がある。調布(てずくりぬの)を染めた所で、幕末には53戸の集落であった。元々は染屋という一つの集落であったが、時期は不明だが上と下に分かれた。
西武多摩川線踏切の手前に風化の激しい仏塔が建っている。踏切を覗くと左手に白糸台駅が見え、、電車が止まっていた。
西調布駅入り口交差点を過ぎると左手に「西光寺」がある。徳川家光より御朱印地を賜った御朱印寺。門脇には新撰組局長近藤勇の坐像がある。近藤は天保5年(1834)多摩郡上石原村で生まれた。慶応3年、近藤勇は徳川慶喜から許された大名格として大久保剛と改名し、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向かって出陣した。西光寺の仁王門は18世紀初頭と推定できる市内に残る唯一の仁王門である。正面両脇間に仁王像を安置し、頭上に釣鐘を釣るので、鐘楼でもある。
街道に戻り左側に「金山彦神社」がある。境内に無理やりアパートを建てた様な神社で、小さな社は鍛冶師の守護神。その先に「源正寺」がある。太田道灌の弟、資忠の子孫、太田対馬守盛久が開祖。参道口の日本廻国供養塔は天明3年(1783)の建立。社殿、仁王門とも建て替えのため壊され更地になっていた。
ねずみ男
ねこ娘 一反木綿
塗り壁
ゲゲゲの鬼太郎
右側に「近藤勇と新撰組ゆかりの地」「天然理心流原田(谷戸)道場跡」の解説版がある。(天然理心流三代目・近藤周助の弟子、原田忠司は近藤勇の兄弟弟子である国領名主、谷戸市兵衛に見込まれ、谷戸家の分家を継ぎ、ここに道場を開いた。)その先の路地裏に「谷戸稲荷神社」がある。歩いている方に聞いて路地のそのまた奥にある神社を見つけた。名主谷戸家に祀られていたもの。境内の祠に正徳5年(1715)建立の青面金剛像や地蔵尊が安置されている。
京王線国領駅に行く道沿いに「稲荷神社」がある。昇福稲荷大明神が祀られている。毎年2月には初午祭が行われている。その先の道がカーブするところに「庚申塔」があり、祠の中に寛政10年(1798)建立の青面金剛像が安置されている。日本では各地に石造りの庚申塔が多数あり、「見ざる聞かざる言わざる」の三猿と共に青面金剛像(しょうめん)が表されている。
八幡宿交差点を左折する。普門院の所を左折して進むと「府中競馬場」がある。京王競馬場線・府中競馬場正門前駅と高架橋でメインスタンド3階と直結している。正門前の高架橋脇には金の馬「アハルテケ」と記念写真。競馬場には入ったことないが、一回入って馬が走っているところを見学してみたい。
高安治寺の横から寺を出て、京王線・分倍河原駅に向かう。駅前には「新田義貞の騎馬像」があった。分倍河原駅はJR南武線の駅でもあり、改札が2か所あった。新宿に出て、東京駅から新幹線、東海道線を乗り継ぎ藤枝に帰った。次の日大阪で地震があり、交通がマヒした。先月までは大坂方面を歩いていたので、驚いた。
その先の右手には風化の激しい「地蔵尊」が祀られている。交通量の多い国道20号線を進むと左手の路地を入った所に「金剛夜叉明王」が祀られている。金剛夜叉明王とは、人間界と仏界を隔てる天界に位置する明王の中でも特に中心的役割を担う五大明王の1人で、北方の守護神。三面六臂の姿で、正面の顔には目が五つある。戦勝祈願の仏として武人たちに信仰された。
先に進むと「番場宿碑」がある。(この宿は、名主茂右衛門によって開墾されたため茂右衛門宿と言われた。その後番場宿となった。家数103戸の集落であった。)
嘉永5年(1852)建立の常夜燈。「秋葉大権現」「諏訪大明神」「稲荷大明神」と刻まれている。その先に観音寺がある。参道口には享保3年(1718)建立の庚申塔、宝永7年(1710)建立の地蔵尊、文政4年(1821)建立の馬頭観音などがある。
常演寺の向かいの路地を進み、国道20号を歩道橋で渡ると「八幡神社」がある。旧下石原の鎮守。江戸初期の獅子頭三体は社宝。社前には、大地を守る「堅牢地神」がある。堅牢地神とは、仏教における天部の神の一柱で、大地を司る。密教ではこの神を供養して、地鎮の法を修する。
京王線調布駅前の賑やかな通りを過ぎると、右側に茅葺のポストがある。どうしてこのような屋根を被せられたのか分からない。3つ目の24H駐車場に「近藤勇と新撰組ゆかりの人」「伊東 玄朴」の解説版がある。(伊東玄朴は蘭方医で、後にシーボルトの弟子となった。勇が病で上石原に帰ったことがある。玄朴が上布田宿に来た時に、診察投薬して、本復し事なきを得た。玄朴は多摩郡小野道村の名主で、勇と義兄弟の契りを交わした小島鹿之助の家にも往診した記録が残っている。)
街道に戻りその先の右側に「常性寺」がある。成田不動尊は「調布のお不動さん」と呼ばれ篤く信仰されている。境内の馬頭観音は文政7年(1824)の建立で、小橋の「馬捨て場」にあったもの。「敷石碑」は明治11年に布田五ヶ宿の女郎屋が敷石を寄進した記念碑。
街道に戻ると、右側の「若松町常久町公会堂」に「常久村」碑がある。(村名は名主の名前に由来する。幕末には37戸の集落であった。)その先の右側に「常久八幡宮」がある。旧常久村の鎮守、祭神は品陀別命(はんだわけのみこと) 境内には見事なイチョウの木があった。
中央自動車道高架をくぐると「黒塀の旧家」がある。塀の向こうに又門があり家を見ることができない大きさである。街道の右側の奥に「味の素スタジアム」の一部が見える。街道筋には「FC東京」の旗が並んでいた。
圓福寺前の路地を右に入り、歩いて行くと国道沿いに「國領神社」がある。御神木の「千年藤」は樹齢4~5百年で「ちょうふ八景」のひとつである。道筋にはヤマモモが沢山の赤い実を付けていた。
右手に「天神商店街」が続き、その奥に「布多天神社」がある。延長5年(927)の創建。この地の長者が布多天神のお告げにより木綿織りを習得し、この布を朝廷に献上した。
馬頭観音
敷石碑
野川を馬橋で渡る。国領宿の江戸口(東口)である。その先の旧甲州街道入口交差点を左に入る。
街道に戻り進むと、通りの右側の新宿公園前に「新宿標石」が立っている。先の大国魂神社前交差点の府中サウスビル脇に「柏屋本陣跡」がある。「明治天皇行在所跡」解説がある。(この地はかって府中の大店、田中三四郎商店のあったところで、明治天皇の行在所になっていた。府中には6回の行幸がある。昭和58年行在所を解体し「府中の森」に表門や母屋などを復元した。)
その先の左側に「高安寺」がある。藤原秀郷の館跡に足利尊氏が鎮護国家の安国寺として再建した。境内には「秀郷神社」があり、その坂下には「弁慶硯の井」がある。鎌倉入りを許されなかった源義経のため、弁慶が赦免祈願と般若経をしたためた。
府中市役所に行く道の交差点の向こう側には高札場が現存している。甲州街道と鎌倉街道が交差するところから「札の辻」と呼ばれた。右側の角の酒屋中久本店は万延元年(1860)創業で、隣地が問屋場であった。
神社を出ると、左側に「神戸碑」がある。(神戸(こうど)は現在の宮西町1丁目の一部(甲州街道沿い)に集落の中心があった。番場宿に属しており、神戸はもともとかんべと読み、神社に租税を納める民家のことであった。)
武蔵国総社で武蔵国の鎮守。将軍家より武蔵国最大の朱印地を賜った。毎年5月3日~6日にかけて「くらやみ祭り」が行われる。山門まえでは茅の輪造りが行われていた。
万葉歌碑がある。「武蔵野の芦は諸向きかもかくも 君がまにまに 吾がよりにしを」自然と共に生きた女心を詠った。 左側には「大国魂(おおくにたま)神社がある。鳥居前の2本の御神木は立派である。
「ケヤキ並木馬場寄進碑」がある。(馬場大門のケヤキ並木両側の歩道部分はかって馬場であった。慶長年間に徳川家康が六所宮に寄進したもの。)ケヤキ並木は康平5年(1062)源頼義、義家親子が奥州安倍一族を平定し、戦勝のお礼に苗木千本を大国魂神社に寄進した。
飛騨市府中駅東交差点を過ぎると、府中自動車学校の向こう側に品川道が合流する。その先で東府中2号踏切を渡り、左の道を進むと、右側に「八幡宿碑」がある。八幡宿は国府八幡宮の周囲の部落であったが、甲州街道が開設されると街道筋に移転した。左の閉鎖された工場の敷地内に「大嶽電機のクスノキ」があり、樹高28m、樹齢150年と記されていた。
隣には「神明社」がある。参道口には「下染屋地名由来」碑がある。秋葉山常夜燈は嘉永6年(1853)の建立。
「下染屋村」は調布(てつくりぬの)を染めた所で、幕末には37戸の集落であった。碑の傍には「布を晒して 白糸染屋」のかるたが刻まれている。街道に戻り進むと「小島の一里塚跡」がある。両塚共加宿小島村地内にあったが塚木がなかったが、解説には樹齢200年の榎があり、危険防止のため昭和40年に伐られた。と記されている。江戸日本橋より6里目。その先の左側に「常演寺」がある。門前に地蔵祠と嘉永3年(1850)建立の常夜燈がある。
狛犬は寛政8年(1796)市の繁栄と商売繁盛を祈願して建立された。調布市最古のものである。いきには気が付かなかったが天神商店街には「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪が飾られている。後で調べると、水木しげる氏が住んでいるのだそうです。ゲゲゲのおみくじを引いたら「中吉でねずみ男」だった。
先を進むと左側に「蓮慶寺」がある。赤門を残している。徳川家光より御朱印地を賜り、以後歴代将軍の菩提を弔う御朱印寺として「赤門」と住職の「乗駕」が許された。正門の三つ葉葵が金色に光っていた。天文19年(1550)造像の木造日蓮聖人坐像がある。
本堂は屋根の修理中であった。境内は気持ちよく掃除され、古い石仏や石塔には竹筒にお花が活けられ、気持ちの良いところだった。
街道に戻り、左側に「圓福寺」がある、当初鎌倉の切通に創建され、武田信玄が中興した。境内に天明5年(1785)造立の地蔵尊がある。
布田五ヶ宿は、江戸日本橋から5里と近く、間の宿の色彩が強かった。本陣、脇本陣はなく、旅籠9軒と小宿であった。五ヶ宿は合宿で、問屋業務は月の内、1日から6日までは上石原宿、7日より12日までは下石原宿、13日から18日までは上布田宿、19日から24日までは下布田宿、25日から晦日までは国領宿が勤めた。幕末、幕府の長州征伐に際して拠出金5千両が払えず、商魂たくましく、遊女屋30軒、遊女100人の許可を得てその運上金の年賦納とした。