H.30.6.9

新宿~京王つつじヶ丘

前回の続きで、中央線で新宿まででて、午前8時に新宿南口から歩き始める。西新宿1丁目交差点を右折し、1本目を左折し、国際通り歩き、突き当りを左折し、再び、国道20号線に合流する。西新宿2丁目交差点から20号線を歩く。

左側に「文化学院」「分化服装学院」の大きな校社が目につく。大きな地球儀や女神像が建っている。その道の前に「勿来橋」の石柱が建っている。(なこそ橋の由来は江戸時代に福島の三春藩主であった秋田安房守がこの地に下屋敷を置いたことによる)とあった。

街道から離れた所に「金龍寺」がある。建永元年(1206)栄西禅師の開祖。慶安2年(1649)三代将軍家光が鷹狩の際に当寺で休息した。境内には貞享元年(1684)建立の青面金剛像や復元高札場がある。

旧道から国道20号線に合流すると左側に屋根の付いた祠があり寛政12年(1800)建立の青面金剛像(庚申塔)がある。

上高井戸1丁目交差点から左の道に入る。その角に「井之頭弁財天道道標」があるということだったが見つけられなかった。その先の左手にに「長泉寺」がある。武蔵屋本陣を勤めた並木家の墓があるということだったが、この辺りには「並木」家が多いということで、分からなかった。境内の老松の下には徳本行者直筆の石塔、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩の三尊仏がある。

上北沢4丁目交差点を越すと上高井戸宿に入る。本陣1軒、問屋1軒、旅籠2軒であった。下高井戸宿と合宿で問屋業務は月16日から月末まで勤めた。上高井戸1丁目交差点あたりに「武蔵屋本陣跡」があった、標識はない。並木家が勤めた。問屋は細淵三左衛門が勤めた。

上高井戸宿

その先の右側に「覚蔵寺」がある。日蓮聖人直刻の「鬼子母神」がある。これは日蓮が鎌倉の龍ノ口で危うく処刑されかかった時、胡麻のぼた餅をくれた老女に礼としてあたえたもの。その先の右手に「宗源寺」がある。境内の不動堂はかって高台にあったため「高井堂」と呼ばれ「高井戸」の地名の由来となった。  その先の右手には「富吉源蔵本陣跡」左手には「問屋場跡」があったが今は標識も無い。本陣前には高札場があり、問屋は篠崎弥惣次が勤め、名主を兼ねた。

 

その先の側に「三郡橋跡」があるというが標識はない。往時ここには川があり、都島郡、多摩郡、荏原郡の三郡の境であった。大原交差点を過ぎ、しばらく行くと左側に小さな川が流れていて、小さな空き地がある。そこに看板があり「玉川上水の由来」と書かれている。(ここは代田橋跡で、玉川上水に架橋されていた。江戸の水不足を補うために4代将軍家綱の命により、玉川兄弟が多摩川から四谷大木戸まで上水を引き入れた。その下流がほとんど埋め立てられている。)

渋谷笹塚郵便局の手前を右に入ると「庚申塔」がある。堂の中に元禄13年(1700)建立の青面金剛像が安置されている。庚申信仰は60日毎に巡る庚申の夜に眠り込んだ人の体内から三戸と呼ばれる虫が天に上り、天帝にその人の罪過を告げ、罰が下りると信じられていた。人々は一晩中寝ずに夜明けを待った。

笹塚交差点を渡り、直進すると「清岸寺」がある。境内には宝永5年(1708)造立の「酒呑地蔵」がある。働き者の若者が、31歳になって初めて酒を御馳走になって、酔って川に落ち水死してしまった。青年が夢枕に立ち、この村から酒に苦しむ人を助けるために地蔵を造ってほしいと願った。

その先には「諦聴寺」がある。渋谷区最古の木造聖徳太子立像(孝養像)がある。そのならびに「正春寺」がある。慶長19年(1614)の創建。二代将軍秀忠の乳母「初台の局」の菩提寺。これが「初台」の地名の由来となった。

内藤新宿へ

布田五ヶ宿へ

その先の右側に「明治大学和泉校舎」があり、隣の「本願寺派築地別院和田堀廟所」一帯は江戸幕府の鉄砲弾薬を貯蔵する「塩硝倉」であった。明治維新の際に、塩硝倉は官軍に接収され、その弾薬は上野彰義隊や奥州諸国との戦いに使用された。後に「陸軍省火薬庫」になり、昭和20年の大空襲で一帯は焦土と化した。

左のビルの門の上に「キューピー」さんが乗っている。「Kewpie」の会社だった。仙川2丁目交差点を過ぎ右に入るところに「瀧坂旧道標石」がある。雨が降ると瀧のように流れる急坂の難所だった。ここには「馬宿川口屋」があった。角に「薬師如来座像」が祀られ、その傍らに首の欠けた地蔵菩薩像がある。

その先の右手に「仙川の一里塚]跡碑がある。両塚共仙川村地内で塚木は無かった。江戸日本橋より5里目

仙川を大川橋でわたる。仙川三叉路で上高井戸1丁目で別れた道と合流する。右手に「昌翁寺」がある。仙川領主飯高主水貞正が建立し、菩提寺とした。貞正は今川義元の家臣であったが、家康に仕え戦功により旗本となり、下仙川村の地が与えられた。境内には正保2年(1645)建立の宝篋印塔、宝永3年(1706)建立の五輪塔がある。

右手に「沖縄ガラス 琉球陶器」の店があり「人間国宝 金城次郎ギャラリー」と書かれている。中に入ると、金城さんの弟子や娘さんが造った陶器は手ごろな値段だが、次郎さんの作品はたいそうな値段だった。その先の左手に親柱「武州千歳村大橋場の跡」碑がある。烏山用水に架橋されていた。傍らに明和8年(1771)地頭名主を勤めた下山家が造立した「下山地蔵」がある。「身代わり地蔵」「出世地蔵」ともいわれた。

暫く街道を進むと右手に「製造販売 若林煎餅店」があり、昔ながらのお店でおばあさんが店番をしていた。2種類の煎餅を買った。おばあさんに写真を撮っていいか?と聞くと「80過ぎのおばあさんだから」と拒否された。家に帰って煎餅を食べたがもっと買ってくればよかった。

京王線下高井戸駅入り口交差点で下高井戸宿にはいる。本陣1軒、問屋1軒、旅籠3軒であった。上高井戸宿と合宿で問屋業務は月の内上15日を勤めた。甲州街道で一番目の宿だったが、内藤新宿が設置されると、次第に素通りされるようになった。

下高井戸宿

笹塚交差点の手前に「牛窪地蔵尊」がある。この辺りは刑場跡で「牛裂きの刑」が執行され、くぼ地であったところから「牛窪」と言われた。この地に疫病が流行し、罪人の祟りと言われ、正徳元年(1806)子供の身代わりとして地蔵が造立された。文化3年(1806)新町商人達が建立した「道供養碑」がある。往時は内藤新宿を出ると、一面茅原であった。

国道が広いので、信号で左右に渡らなければならない。右側にある「旗洗池跡碑」を探したが見当たらなかった。また、左側に戻り、幡ヶ谷歩道橋のたもとに「子育地蔵尊]が祀られているというが、「説明板」が建っているだけだった。

その先の左側に「天満宮」がある。代々木村、角筈村境の天満宮である。境内には樹齢300年の箒イチョウがある。箒を逆さにしたように見える。

街道に戻り、京王線つつじケ丘駅から電車に乗り新宿に出て、東京駅から新幹線で藤枝に戻った。今回もいろいろな人に道を聞いて何とか街道を歩きました。街道から離れた寺や旧跡に行く道が良く分からず行って見ては戻り、人に聞いたりしましたが、見つけることができないところもありました。

朱塗りの山門は三代将軍の頃の物である。境内にある閻魔十大王の石像は源頼朝の祈願に寄るもので、現在も十王街道(川越から鎌倉街道に出る拠点)の名称が残っている。

右手に「金子の大イチョウ」の解説がある。中を覗くと大きなイチョウがあるが草が茂っていて、良く見えない。そこで、この辺りを一周する。寛延元年(1748)伏見稲荷を勧請した際に一対のイチョウを社前に植栽した。この辺りは旧金子村で武蔵七党のひとり金子氏の出身地であった。金子瓜(まくわうり)の名産地であった。最近またまくわうりが売られている。スーパーで見かけて数回買った。

その先の右手にある「南りんれい広場」内に「せたがや百景標石」がある。「旧甲州街道の道筋」(昔の街道筋を偲ばせるものは残っていないが、この道筋が街道だったことを忘れるわけにはいきません。) 給田町交差点を過ぎると明治3年建立の「里程標」(新一里塚)がある。「内藤新宿より三里」と刻まれている。

僅かに残った古い民家

上北沢5丁目こうさてんの先をあてずっぽうに左に入ると「山谷稲荷」があった。慶長19年(1614)創建、境内に力石がある。

鎌倉街道入口交差点はかって鎌倉街道が走っていた。左手に「下高井戸の一里塚」解説がある。(この街道を利用した大名は信州高嶋藩、同高遠藩、同飯田藩の三藩だった。甲府には江戸幕府の勤番がおり幕府所役人の往来もあった。)江戸日本橋より4里目。上北沢駅入り口第二交差点を直進する。

桜上水駅北交差点の所に「桜上水商店街」のアーケードが見える。12時を回ったので右手にあった「モスバーガー」に入った。家の近くにあるモスの幟に「ライスバーガーエビ天ぷら」と書かれていて、気になっていたので頼んだ。美味しかった。

宿並を進むと右手に「竹清堂」がある。明治40年創業の竹細工店である。2階の屋根に竹細工の象が乗っている。店内に入り竹細工を見せてもらった。製品は結構な値段だったが、相棒は手ごろな値段の竹へらを私はお玉を買った。

その先に寺町がある。「真教寺」「託法寺」「善照寺」「浄見寺」「法照寺」「栖岸寺」「永昌寺」道を挟んで「龍泉寺」が並んでいる。龍泉寺の境内には北向き地蔵が祀られている。

隣にあった「築地本願寺和田堀廟所」は関東大震災後、築地本願寺別院として創建された。墓地には樋口一葉、海音寺潮五郎、古賀正男等の墓があるということだが、広大な墓地で探せなかった。

街道に戻り進むと、松原交差点からに本目の右側の路地の突き当りに「和泉地蔵尊」が祀られている。前垂れが大きく腰巻のようだった。街道に戻ると「肉まん あんまん」の看板があり、色々な大きさの肉まんや餃子や焼売もあった。寒ければここで買うところだが、今日は暑いので残念ながら素通りする。

その先をあてずっぽうに左折ししばらく歩くと「大原稲荷神社」がある。この地の鎮守。世田谷で唯一「酉の市」が立つ。参道口にある祠には「北向子育地蔵尊」が安置されている。

街道に戻り、10号通り商店街をすぎると、右側に「笹塚の一里塚」跡がある。(両塚共幡ヶ谷村地笹塚で、塚木は榎であった。塚は笹に覆われていたので「笹塚」と呼ばれ、地名の由来となった。江戸日本橋より三里目