日本橋~新宿

H.30.5.26

27日の府中競馬場のダービーのため、宿がとれず、日帰りで甲州街道歩きに出かけた。東京駅の日本橋口から日本橋まで歩く。橋の手前に「高札場跡」がある。日本橋の名前の由来などが書かれている。(慶長8年(1603)の架橋で、以降19回の架け替えが行われ、現在の橋は明治44年の竣工。橋名は「徳川慶喜」の筆によるもの。

四谷4丁目交差点の手前のお店に「四谷大木戸」の図が貼られている。(四谷4丁目交差点は、江戸時代「四谷大木戸」と呼んでいた。大木戸と言う関所があった。天正18年(1590)家康は江戸入府にあたり、武田、北条の残党から江戸を防衛するため、家臣の内藤清成に陣を構えさせた。後に陣を廃し大木戸を設けた。その年は大阪夏の陣で豊臣が滅びた翌年で、残党の侵入を防ぐためであった。寛政4年(1792)大木戸は取り払われた。)

橋を渡ると「国指定 江戸城外堀跡」の説明板がある。牛込から赤坂に続く江戸城外堀は、寛永13年(1636)に仙台藩伊達家をはじめとする東国52家の大名によって開削された。外堀普請は約30年続く大事業で、多くの寺院や町屋が移転した。 四谷見附交差点の手前の左手に歌碑がある。福羽美静が建立した「桜の記念植樹碑」で、四谷駅から堀端まで桜が植樹された。「たれもみな このこころにて ここかしこ にしきをそえて さかえさせばや

 

「国史跡 江戸城外堀跡 四谷見附」の説明板があり、交差点の向かいには石垣が残っている。江戸城防御の城門であった。四谷見附橋をわたる。大正2年竣工の都内最古の陸橋。下をJRが走っている。

街道に戻り麹町6丁目交差点先を右に入ると「心法寺」がある。境内には塩地蔵がある、お地蔵さんの体に自身の悪いところと同じ場所に塩を塗ると御利益があるという。私は左膝が痛かったので膝に塩を塗ったが、まだ御利益はない。境内の青面金剛像が陽刻された庚申塔は、宝暦2年(1752)の建立である。

天満宮の裏を抜け、突き当りを右折し、1本目を左折すると麹町スタジオの向かいの白い建物の壁に「麹町貝塚高野長英大観堂学塾跡」碑がはめ込まれている。天保元年(1830)高野長英が蘭学塾を開設した。

桜田門交差点の左に警視庁の建物がある。刑事ドラマでよく出てくる建物で、実際に見たのは初めてである。豊後杵築藩松平家屋敷跡である。右の奥に桜田門が見える。正式には「外桜田門」という。古くはこの辺りを桜田郷と呼んでいたので、この名前がある。大正12年の関東大震災で破損し、再建された。井伊直弼が暗殺された「桜田門の変」跡である。

橋を渡ると「日本国道元標」が復元されている。日本橋は今もに昔も街道の起点となっている。橋の上の高速を地下に埋めるという案が持ち上がっているらしいが、賛否両論があるらしい。青空が見えるようになるのは賛成である。

天龍寺のやぐら時計・鐘と共に牧野備後守貞長が寄進したもので、この時計をもとに鐘を撞いたという。高さ30㎝のやぐらの上に載せられている。

新宿4丁目交差点を直進すると「天龍寺」がある。江戸城の裏奇問鎮護の役割を帯びていた。門前には高札場があり、「時の鐘」は江戸三名鐘(上野寛永寺、市谷八幡)のひとつで「追い出しの鐘」ともいわれ「飯盛旅籠」の遊客に早めの時を告げた。

交差点直進すると青梅街道になる。青梅、大菩薩を経由して、酒折村で甲州道中に合流する。「裏甲州街道」ともいわれ、甲州道中より2里ほど短いため、庶民の旅に利用された。

新宿3丁目の交差点は「青梅街道の追分」で内藤新宿の西口でもあった。追分道標がたっている。この界隈に「追分の一里塚」があったが、存在,位置よ喪に不明である。日本橋より2里目である。交差点の手前に「追分団子」の店があり、色々な団子があり6本買い求めた。この辺りには茶屋が軒を連ねていたという。

閻魔堂には明治3年造立の「奪衣婆像」も安置されている。閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り、罪の軽重を図った。衣服を剥ぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として「しょうづかのばあさん」と呼ばれ信仰された。

新宿1丁目交差点の1本先を右に入ると「太宗寺」がある。境内には銅造地蔵菩薩が安置されている。正徳2年(1712)江戸六地蔵のひとつとして造立された。像高は267cmで、像内には小型の銅造6地蔵が収められている。

右手に秋葉神社があるはずだが、見つからない。今日は「花園神社の祭礼」ということで、木は神社がその社務所として使われていて、前には御神輿も安置され、法被を着た人の姿もあった。

街道を進むと左手の奥の「新宿御苑」が見える。内藤家下屋敷である。天正18年(1590)家康の江戸入府に際し、譜代の家臣、内藤清成に事前の根回しを託した。この項により、屋敷地を拝領した。後の内藤氏は信州高遠の藩主となった。

四谷4丁目交差点の手前の右側に「四谷大木戸跡」碑と常夜燈が建っている。その向かい合わせの角に「四谷内藤新宿」の図がはられた木の道標が建っている。ここに立っていた営業のお兄さんに「大木戸跡」の場所を教えてもらった。

四谷3丁目交差点先を左に入ると「長善寺」がある。徳川二代将軍、秀忠が鷹狩の際立ち寄り、寺の周りに笹が茂っていたことから「笹寺」と命名した。寺宝の「めのう観音」は秀忠の念持仏という。秀忠の死後夫人から賜ったものと伝わる。像高4.9㎝の美しい仏像である。

当初、江戸日本橋からの次の宿は高井戸であった。その距離は四里と長いため、浅草阿部川町の名主、喜兵衛(喜六)等の請願により元禄12年(1699)に宿が新設された。内藤氏下屋敷の一部を割いて宿が成立したので、内藤新宿と命名された。本陣1軒、旅籠24軒であった。

内藤新宿

はす向かいの本家の方には「歌舞伎座」「明治座」「菊五郎劇団」歌舞伎役者の名前の入った奉納石柱が何本も並んでいる。「四谷怪談」を上映する時は神社にお参りに来るという話を聞いたことがある。東海道四谷怪談の主人公田宮伊右衛門の妻「お岩」を祀っている。

須賀神社の近くに「お岩稲荷」があるはずだが、道が分からない。近くの婦人に聞いたら、「お岩神社はこの方角で近いが、何回も曲っていかないと行きつけない。」と教えてくれた。ぐるっと遠回りをしないと行きつけないところに「お岩稲荷田宮神社」がある。おばさんは本家と分家と教えてくれたが、分家の方がきれいにされ参拝客の多かった。

坂を下りと石段がある。石段を上ると「須賀神社」がある。四谷18ヶ町の鎮守。毎年6月に行われる」祭礼は「天王祭り」と呼ばれる。江戸五大祭りのひとつ。

急坂 東福院坂

四谷見附交差点を右折する。道中左側の若葉町、須賀町には多くの寺社が集中し、寺町を構成している。四谷2丁目の信号交差点を左に入ると「東福院」と「愛染院」がある。東福院には「豆腐地蔵」がある。愛染院には盲目の国学者・塙保己一や内藤新宿を開設し、本陣や問屋を勤めた高松記喜六の墓がある。墓所には入れず、前に塙保己一記念碑が建っていた。

左手にそびえるビルは上智大学で、尾張徳川家中屋敷跡である。ホテルニューオータニは彦根藩中屋敷、旧赤坂プリンスホテルは紀伊家中屋敷跡で、この一帯は三家の頭文字をとり紀尾井町と呼ばれた。上智は娘の出身校である。ちょうど12時で聖イグナチオ教会の鐘が響き渡った。

近くにあるはずの「平河天満宮」を探して歩きまわった。文明10年(1478)道灌が江戸城内に江戸の守護神として勧請。家康は本丸修築の際に現在地に遷座させた。なかなか立派な神社だった。

半蔵門交差点を左折して麹町にはいる。手前には「千鳥ヶ淵公園」がある。麹町1丁目交差点を左折すると「太田姫稲荷神社」がある。太田道灌の娘が天然痘を患い、京の一口(いもあらい)稲荷に祈願すると無事平癒した。これを城内に祀ったのが始まり。油揚のお供えを烏が袋を破り食べていた。私達が去るとまた来てつっついていた。

三宅坂を上ると右手に「半蔵門」が見える。門名は門外に伊賀忍者「服部半蔵」の伊賀屋敷があったことに由来する。江戸城に危機が迫った場合、服部半蔵の手引きで半蔵門から城外に脱出し、甲州道中に逃れ、甲府を経由して駿府に至る生命線とした。警察官の詰め所もあり、門の前には警備の人がいて、なかなか警備が厳しい。

濠沿いを進むと、国立劇場の向かいの右手に「特別史跡江戸城跡」碑がある。江戸城は長禄元年(1457)太田道灌が築城し、天正18年(1590)北条氏が滅ぶと徳川家康が入城し、大規模な修築が行われ、三代家光の時ほぼ完成した。天守閣は明暦3年(1657)振袖大火で焼失し、以後再建されなかった。 国立劇場付近には「隼町の一里塚」があったが、存在、位置ともに不明です。江戸日本橋より一里目です。

濠に沿って歩く。皇居の周りをランナー達が走っている。ゼッケンを付けた人たちもいるので、イベントが開催されているのかもしれない。思い思いの格好で走っている。堤下に柳と井戸がある。「江戸の名水・柳の井」である。石段があるが、現在は行けないようになっている。西行道のべに 清水流るる柳影 しばしとてこそ 立ちどまりつれ」に由来する。旅人の喉を潤したという。

桜田濠沿いを歩き国会前交差点の奥に「国会議事堂」が見える。「櫻の井」を探して周囲を一周してしまった。右側の公園の中にあった。ここは彦根藩井伊家上屋敷の表門外で、加藤清正邸跡でもあった。清正が掘り当てたもので、「江戸の名水」であった。道路工事のため10m程離れた現在地に移設復元された。井伊直弼はここから桜田門に向かった。

左側の旧法務省の建物の植え込みに「米沢藩上杉家江戸屋敷跡」碑がある。上杉家の江戸屋敷は、桜田屋敷と呼ばれ、幕末まで江戸藩邸として中心的な役割を果たした。この建物は明治政府が招へいしたドイツ人・ヘルマン・エンデとウイルヘルム・ベックマンによって設計され明治23年に旧司法省庁舎として完成した。関東大震災でもほとんど被害を受けなかった。ドイツ・ネオロマネスク様式の外観に特徴があり、歴史的価値が高く、重要文化財の指定を受けた。

[旧日比谷公園事務所」がある。わが国最初の洋式公園であった日比谷公園の管理事務所として明治43年に竣工した建物である。公園にはペリカンの噴水がある。公園を出て、凱旋濠沿いを歩く。

公園内には「日比谷見附跡」がある。江戸城外郭城のひとつで日比谷御門の一部。石垣の西側は濠になっていたが、公園造成時の面影を残し「心字池」にした。その先には伊達政宗終焉の地」がある。ここには仙台藩の外桜田上屋敷があった。政宗は寛永13年ここで70年の生涯を終えた。

日比谷濠に沿って歩くと左側に「第一生命」のビルがある。これは戦後GHQに接収されていたビルである。現在でもマッカーサー総司令官室が保存されている。日比谷交差点を右折する。左側に日比谷公園がある。

馬場先門跡」の解説版がある。(門の名前は寛永期に門内の馬場で朝鮮使節の曲馬を将軍が上覧し、朝鮮馬場と呼ばれていたことに由来する。門は寛永6年に造築され、枡形石垣は明治39年に撤去された。)

突き当たると「和田倉濠」があり、和田倉橋が架かっている。橋を渡ると和田倉門があり、二万石から三万石の譜代大名が警備を勤めた。左折して「馬場先濠」沿いに歩く。

駅構内を歩き、東京駅丸の内側に出る。大丸の通用口に「北町奉行所跡」碑があるというが、見つけることができなかった。駅は広すぎて、どちらに行ったらいいか分からず、まごまごした。親藩や譜代大名の藩邸があったという大名小路を歩き、伝送屋敷跡(現日本工業倶楽部会館)を見つける。赤穂藩主浅野内匠頭と吉良上野介の対立の場となったとことである。

街道に戻り、進むと右側の植え込みに「呉服橋跡」の解説版がある。(以前ここには外堀があり、江戸城の外郭門のひとつ「呉服橋門」があった。門に付属する橋である「呉服橋」が架けられていた。呉服町に出る門に架かる橋であり、また寛永ごろに「後藤橋」と呼んだのは、門外に呉服師の後藤家の屋敷があったためである。外堀は昭和29年頃から埋め立てられ、外堀沿いの橋は姿を消していった。)左折してJR東京駅日本橋口に入る。

日本橋川の方に行くと現在の「一石橋」が架かっていて、その先には「呉服橋」が架かっている。両方とも頭上の高速道に遮られて窮屈そうにしている。

呉服橋交差点を右に入ると「一石橋跡」がある。橋の北詰のに幕府金座御用後藤庄三郎屋敷と南詰に呉服所後藤縫殿助屋敷があった。五斗(後藤)と五斗を足すと一石になるところから橋の名前の由来となった。関東第震災にも耐えた花崗岩の親柱が建っている。橋のたもに「一石橋迷子しらせ石標]が建っている。この辺りは盛り場で迷子が多かった。迷子の特徴などを書いた紙を貼ったという。

右の橋のたもとに「日本橋魚河岸跡」がある。関東大震災後に築地に移転した。今は乙女広場と言われている。午前8時に歩き始める。日本橋交差点まででて右折する。八重洲1丁目交差点の先で右に入ると「西河岸地蔵」がある。「日限地蔵」として日本橋芸者衆や地元の信仰が篤かった。泉鏡花の「日本橋」を本郷座で初演した花柳正太郎が「芸者・お千世の図額」を奉納した。

交差点を斜めに入っていくと「水道碑(いしぶみ)記」「四谷大木戸跡碑「玉川上水番所跡」がある。玉川上水は多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中までは石樋、木樋を地中に埋設して通水した。余った水は内藤家下屋敷に供給された。

三宅坂の三宅坂交差点を渡ると公園がありその後ろに「渡辺崋山生誕地]解説がある。崋山は寛政5年(1793)ここにあった三河田原藩上屋敷で生まれた。1839年、幕府の鎖国政策を批判した蛮社の獄で蟄居となり、自害した。地名の三宅坂は三河田原藩主・三宅氏に由来する。

新宿4丁目交差点に戻り、左折する。JR新宿駅南口に出た。15時を回っていたので、今日はここまでにして、JRで東京に出て、新幹線、東海道線を乗り継ぎ藤枝に帰った。今日は東日本橋からずっと渡海のど真ん中を歩いてきたので、精神的に疲れた。早くのどかな街道を歩きたい。

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