掛川〜袋井 H.23.10.02
道を左折すると、右側に東伝寺があり、その先の進学塾を右折し、100mほど歩くと、常夜燈に突き当たる。ここを右折し、50mほど歩くと茶工場に突き当たる。ここを右折し、L字形を右折すると正面に七曲の案内板がある。ここが終点で、木戸と番屋が置かれ、宿場に出入りを監視していた。現在は、夢舞台東海道 掛川宿東番所跡が建ってる。手前の右側には塩の道の道標があり、右菊川 左森町とある。塩の道は相良を起点とした秋葉街道でもある。 10月は、お祭りの季節で、町内の屋台準備が進められていた。 七曲を出たとことにこちら側の「七曲入り口」の標識があった。
8時44分、掛川駅に着いた。駅にはからくり時計があり、時間によって、奴さんが出てきて音楽に合わせて毛槍を振ります。前回、駅に着いて音楽に振り返ると奴さんが踊っていた。今日は、七曲を歩きなおさなければならないので、先を急いだ。
2時22分 夢舞台 市役所前の道標があり、袋井駅700m、東海道 信号右折70mとあった。今日はここで終わりで、袋井駅まで歩き、電車で藤枝に帰った。この区間は、松並木は比較的残っていて、また、保存しようとする運動もあり、歩きやすかった。また、お祭りも近いようで、あちこっちで、準備を始めているようでした。掛川城ははじめてきましたが、良く整備されて綺麗でした。最近集客が減っているようで、大変と言う話を聞いていましたが、二の丸御殿で何か企画するとか、是非、木造のお城を守って欲しい。
三叉路の右側に松並木の案内看板があり、初代歌川広重作「行書東海道五十三次 袋井」の絵が描かれていました。その傍に、「従是油山道」の道標があった。また、向かいには、「三尺坊大権現」の石の道標が建っていた。
しばらく歩くと、間の宿の案内板があった。このあたりは旧原川町で、案内板によると(間の宿は、宿と宿の間の街道に沿った小集落を言います。旅人の休憩を提供することはできますが、宿泊業を営むことは許可されていません。 掛川まで1里18町(約6km) 袋井まで33町(約3.6km)の位置にある。原川薬師と呼ばれていた金西寺 阿弥陀仏 その薬師に供える薬師餅を売る茶店や酒屋が軒を連ね、旅人で賑わった。)
入ったところの家で、オリーブの枝を払っていた。「大きな木ですね。」と声を掛けると、お祭りの屋台が通るので、枝を払っているとのことだった。「三叉路のところで、よく迷っている人がいるので、教えてあげるのですよ。」と言っていた。その三叉路に、秋葉常夜燈が建っていた。袋井には、石の燈篭形と木造の屋形の常夜燈が、十四基残っている。新屋のは、木造屋形で、彫刻もある立派な常夜燈だった。 教えられたとおり、右の道を行くと、市役所の前に出た。
松並木はなくなり、しばらく行くと、2時10分 東海道夢舞台 東新屋の道標があり、新屋交差点を渡り、左折すると、夢舞台 西新屋の道標がある。白畑ふとん店の前の細い道に「ど真ん中茶屋」の矢印があった。これがないと曲がれないところだった。
信号交差点を渡り、しばらく行くと、めん処サガミがあり、その先に、七ツ森神社がある。桓武天皇の頃、日坂に出没する怪鳥を退治するために、7人の武士が派遣されたが、返り討ちにあい、この地に埋葬された。昔は七つの塚があったが、今はひとつも存在しない。「久野城見ゆ 11km」の道標があり、(戦国時代の城跡が、本堂裏から見えます。)と書いてあったが、分からなかった。
妙日寺の隣は、小学校になっている。その敷地に久津部一里塚の復元されたものがあった。江戸から60里にあたり、明治10年までは老松が立っていた。現在は両側とも残っていないが、この小学校の付近がその跡とされ、昭和47年に一里塚碑が建てられた。平成12年に改修された。この小学校の正門には「どまんなか東小学校」の看板が立っていた。
ここから、原川松並木がひろがっている。近年松食い虫にやられ岡津から原川にわずかに残っているだけだそうで若い松が目に付いた。ここも松並木保存会が、管理保存しているようです。12時18分 夢舞台東海道 原川松並木に着いた。
前回間違った七曲の入り口まで戻り、歩き始める。掛川は、宿場町であると同時に、城下町だった。「葛川と新町の境に掘割がありここにある橋を渡ると門があり、この門から西が宿場になります。ここから東海道は南に折れ、道が鍵の手にいくつも折れ曲がる新町七曲に入ります。容易に敵を進入させない為の構造だと考えられる。七曲の終点には木戸と番所があった。」と書いてあった。
国の重要文化財に指定されている、二の丸御殿は文久元年(1861)に再建されたが、天主は平成6年に再建したものである。二の丸御殿は、藤沢周平原作の映画「小川のほとり」のロケがあり、庭で、御前試合が行なわれた。庭の石はロケの時はどけたそうです。
曲がりくねった松並木を歩いていくと、左手奥に妙日寺があった。1332年に開山の日蓮宗の古刹で、日蓮の父の法名を寺名にしている。境内は貫名氏の邸宅跡といわれる。街道に戻って、日蓮の父母の供養塔を見なかったと、寺に引き返した。道から随分入ったところに寺は建っている。本堂の裏手に回ると、供養塔があった。貫名氏三代の供養塔もある。
左に下りる道があり、下っていくと、名栗花茣蓙公園があった。秋葉常夜燈は、櫓の形をした珍しいもので、中をのぞいたが、何も無かった。袋井宿 出茶屋ノ図がかかっていた。名栗の立場と呼ばれ、江戸時代には、旅人が休息する場所(立場)として知られ、花茣蓙が有名でした。
玄関屋根の起破風(むくり)と蕪懸魚(かぶらげぎょ)
街道には次々に標識が現れる。 村松 宇刈道標 油山寺道標 秋葉山常夜燈 など。油山寺(袋井市村松)は北のほうにあるお寺で、重要文化財 の山門や三重塔がある。村松・宇刈道標には、「袋井市近代教育発祥の地 用行義塾跡」の矢印看板が付いていた。、
このあたりは右に国号1号が走っていて、工場が多い。大和ハウスを過ぎたあたりに、大きな鳥居が現れた。赤鳥居は、北にある、富士浅間神社の鳥居だった。案内によると、江戸時代には、国道や建物もなく、浅間神社の本殿が木々の間から見渡せた。昔は、本殿から鳥居まで参道があったが、今では、鳥居が取り残されたように建っている。 ここから、本殿まで800mの表示板があった。
名栗のバス亭の先から、松並木が始まる。先ほどの松並木と違って、土塁の上に立ち、立派な松が多い。この街道沿いには、色々な人が、東海道袋井宿の様子を描いたものがかかっていた。
行書東海道 初代歌川広重
東海道 袋井 歌川芳員
東海道松並木 三代歌川広重
道が右にカーブすると、国道1号線に合流した。地下道をくぐって、道路の反対側にでて、右折し、原野谷川にかかる同心橋を渡ると袋井市になった。夢舞台東海道 袋井名栗の道標があった。12時36分だった。
金西寺 本尊 薬師王瑠璃光如来
案内板によると、ここには、善光寺如来が祀られ、坂上田村麻呂の守り本尊と伝えられる阿弥陀如来が納められている。階段を上がり、本堂で声を掛けたが、誰も出てこなかった。阿弥陀様はどこにおわすのだろう。
国道1号線の高架をくぐると、澤田I.C北の信号交差点があり、ここを左折する。少し行くと、右に入る道があり、県道253号線の標識がある。松ノ木があるところで、道は右にカーブし、垂木川にかかる善光寺橋を渡る。渡った右側に、善光寺如来の石柱があり、石段を上ると仲道寺があった。民家の脇の石に「従是北岡津区 東 掛川村1里 西 袋井村1里」とあった。
松並木が見えてきた。道は右にカーブして、上っていく。並木が終わると、三叉路の左に橋が架かり、逆川が流れている。右側の細沢公会堂の先で、道は左にカーブする。その先の右側に、高い煙突が見えてきた。近づくと銘酒曽代鶴とあり、醸造柴田酒店とあったと他の方のHPには書いてあったが、すっかり廃屋になっていて、酒店の文字はなかった。
白山神社、宗心寺を過ぎ、しばらく行くと、左に一乗山蓮祐寺があり、その前に、夢舞台東海道の道標があり、大池一里塚跡とあった。11時31分だった。 蓮祐寺には、頭をなでたくなるようなかわいらしい石の仏様が立っていた。
大池交差点に戻り、左折して川沿いに歩く。まもなく、鳥居交差点に出て、道の向こうにガードが見えた。天龍浜名湖鉄道のガードで、木の間にに西掛川駅が見えた。先日クラス会で浜名湖に行った際に、掛川から尾奈まで乗ったが、この駅も通過しているはずです。太陽の加減で、ガードをくぐってから撮った写真です。
橋を渡ると東海道は左折するが、右手に、鳥居と小さな社殿が見える。奥には、正一位秋葉神社の神額が保管されていた。地震後に再建された木造の鳥居に取り付けられていたものか?眺めていると、隣の家からおじさんが出てきて、これは去年の今頃建て直したものだ。と教えてくれた。年に何回か本山から神主さんが来てお参りをしていくそうです。家に入れてくれて、昔の写真や、新聞に載ったこの神社の古い姿を見せてくれた。昔の鳥居は赤く塗られていたが、今のは木のままです。石碑には、秋葉山まで九里(約35km)とあった。
大池橋を渡ると、正面に青銅製の鳥居と両側に常夜燈が建てられ秋葉山に通じる街道の入り口であることを示していた。嘉永7年の大地震で倒壊した。その後鳥居は木造で再建された。
大分歩き、10時50分倉真(くらみ)川にかかる大池橋を渡ると 東海道夢舞台 大池橋の道標があった。
十九首塚の道標を入ると、十九首塚にでた。ここは東光寺の裏手にあり、先ほどの寺の裏に回ればここにでられたようだ。平将門の乱を平定した藤原宗郷は、将門ら19人の首級をもって、東海道を上るが、朝廷の派遣した勅使が、この地で首実検をして、賊徒の首を都に近づけてはならないと命じられ、この地に埋葬し、19基の塚を造った。はじめはばらばらにほおむられていて、時代と共に減っていき、大きな一基だけが残った。2001年、将門の周りを臣下の武将が囲むように供養塔が再建された。 掛川の名前の由来は首を川で洗って掛けたということに由来するという説もあるそうです。
掛川信金を過ぎ、少し行くと道が二つに分かれる。清水銀行の場所を聞いたとき教えてくれたおばさんが言っていた二又に分かれる道がここだろう。右の方に矢印の道標があった。右に曲がっていくと、成田山遥拝所と書かれた石碑と常夜燈があった。山門をくぐると、医王山東光寺というお寺があった。10時20分
右側に、円満寺の山門ががあり、掛川城の蕗の門といわれてる。内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門で、大手門、仁藤門などと二の丸につながる道筋にあって、小さいが重要な門であった。明治五年円満寺が買いうけ、柱の下を二尺五寸(76cm)切り、山門にした。
9時19分から10時5分まで、掛川城で遊んで、東海道に戻った。街道沿いの清水銀行は、民家のような造りで、袖看板も江戸風である。城内にあった「山内一豊と千代夫人の浮き彫刻」が壁に絵がかれていた。商店街は、どこもそうだが、シャッター商店街になってしまっている。
掛川城は、室町時代中期、文明年間(1469〜1487)に守護大名 今川義忠 が、朝比奈泰煕に命じて、築城した。天正18年、家康の関東移封に伴い、秀吉は、家康への備えとして山内一豊を城主にした。
起破風とは真ん中が瓦側に湾曲している破風で、蕪懸魚は破風の下に取り付けられる彫刻を施した板を言う。
出た所で、左折すると日に出るが、おじさんが、この道は新しい道で、ここをまっすぐに行った細い道が旧道で、直ぐお城が見えるよ。と教えてくれた。仁藤と書かれた秋葉神社の常夜燈を通り過ぎ、言われたとおり歩くと大手門が見えてきた。
JR 1130円
バス 320円
1450円
神社の前の秋葉街道