富士〜東田子浦 H.24.02.21

8時50分頃富士駅に着いた。今日は良いお天気で、空が青く澄み渡っているので、富士山が期待できると、歩き出した。商店街に入ると、まん前に富士山が見えた。おおきな富士山だ。 先日の続きの、静岡中央銀行の角まで行き、東に向かって歩く。税務署の前を通り、396号線にでる。左側に横断歩道があるので、渡り、斜めの道に入る。しばらく行くと9時4分、旧東海道一里塚があった。その先に、左折する道があり、米ノ宮浅間神社の矢印があるので、行ってみた。

このあたりから西に「中吉原宿」が存在していた。左富士神社を過ぎ、新幹線、国1バイパスの下を通り、「吉原駅」の矢印に従い、右方向に入る。「河合橋」を渡り、JR吉原駅前を直進し、線路沿いを歩く。踏切を渡り、10分ほどで、「毘沙門天妙法寺」に着いた。ここは「毘沙門さん」と呼ばれ、だるま市が開かれることで有名で、前に来たことがあるが、人でごった返しているので、お寺を見たのは初めてです。

10時58分、夢舞台 東海道 吉原宿 左富士 の道標があった。今日初めての道標だ。広重作の「吉原 左富士」があり、(馬の鞍にコタツのやぐらのような木組みを取り付け、3人の旅人が乗っている。これを「三宝荒神」と言っていた。)老松が1本残って立ってる。

「左、鶴柴の碑、右、本市場一里塚」の案内板を見ていると、おばあさんがやってきて、話しかけてきた。「鶴柴は直ぐそこだが、一里塚は知らない。どこから来たの?」というので、「藤枝からです。」と言うと、「そこの家のお嫁さんは藤枝から来たんだよ。」と藤枝のどこからかという地名を思い出そうとするので、「ありがとう」と言って別れた。良く考えると、先ほど何も考えずに写真を撮った一里塚のことだった。 鶴柴の碑は東海道の間の宿本市場の鶴の茶屋に建てられたもので、当時雪の富士を眺めていると、中腹に一羽の鶴が舞っているように見えたので、京都の画家蘆洲が鶴を描き、江戸の学者亀田鵬斉が詩文を添え碑戸とした。先日、新聞で、富士に鳥の形が出た。という記事が出たが、そのことだろうか。

左側に、蓼原の単体道祖神ガある。地元の人は「袂の塞神(さえがみ)」と言います。川原宿と塔の木の境目になります。川原宿も塔の木も同じ旧蓼原村です。唐人橋の石柱の横に、明治40年の潤井川の氾濫を示す題目碑があった。

塔の松跡地の案内板があるが、何も無い。ここ塔の木と言う地名は、塔のように高い松の木が多数あったからで、ここに、このあたりで、一番高い木が生えていた。ここを流れる逆川が、旧蓼原村と本市場のあった旧加島村(旧富士市)の境目になる。

米ノ宮浅間神社は、霊峰富士の化身、木花開那姫命をお祀りしている。社伝によると、往古米粒をもって御神体とし、米穀発祥の地として、米ノ宮の名が付く。江戸時代には、広大な社領を誇る荘厳な神社だった。門前や境内では市が開かれ、「本市場」の地名もこれに由来する。

12時45分、東田子浦駅に着いた。まだ、早いが、今日はここまでにして、JRに乗って帰った。吉原宿は史跡としては、殆ど残っていなかった。今日はお天気が良かったので、富士山が見所だった。

立派な山門をもつ「立円寺」がある。境内には、望岳の碑がある。尾張藩侍医柴田景浩が、西柏原・立薗寺の境内に建立した。、江戸への途中、ここから眺める富士山のすばらしさを賞賛している。

しばらく、国道を歩くと、昭和放水路「広沼橋」の手前に増田平四郎像がある。(天保の大飢饉や度重なる水害から村人を救済するため、原宿の増田平四郎は、浮島沼の大干拓を計画し、現在の放水路の場所に大排水路を完成させたのは、明治3年で、人々は「スイホシ」と呼んだ。その年の8月の高潮により壊されてしまった。彼の願いは後世の人に受け継がれた。)このあたりに、江戸から33里沼田新田の一里塚があったが、今はないようだ。

道の左側に「春耕道みちしるべ第1号の石がある。石に何か書いてあるが読めない。(仁藤春耕は、日清・日露の戦争に健康上の理由でいけなかったことを悔いて、明治39年に、人の役に立つことをしたいと思い、元吉原から十里木を経て小山町の須走りまでの道に自費で、百数十個の道標を建てた。)

旧道は、「檜交差点」で国道380号線に合流し、国道を歩く。愛鷹神社がある。左手には、富士山と愛鷹連峰の山々が広がる。

高橋勇吉と天文堀  三新田(大野、桧、田中)の水田を幾多の水害から守った天文堀は、大野新田の高橋勇吉が14年の歳月を費やして、完成した排水用の掘割である。勇吉が天文の知識や土木技術に優れていたことから天文堀と呼んだ。三新田の耕地は開発が進み、今ではその跡を見ることは出来ない。

ラマ教の流れを汲む色彩豊かな建物が特徴で、日本の寺院とは雰囲気が異なる。又、このあたりは、「元吉原宿」であった。吉原宿が津波や高潮により、三度場所を変えたため、元吉原、中吉原等の名前が残っている。

ここを右折し、「名勝 左富士」の木柱が立っている。江戸から来た人は、このあたりで、左富士を見るが、建物が邪魔をして、富士は頭が゙少し見えるだけだった。

右側に、「創業参百年 御旅館鯛屋興三郎」があり、入り口には、「清水次郎長、山岡鉄舟定宿」の木札が三度傘と一緒にぶら下っていた。その先には「長さん小路」と書かれた電柱が立っている。説明によると「いかりや長介さんは、1931年に墨田区で生まれ、1944年小学校卒業と同時に、富士市に疎開し、工場の仲間とバンド活動を開始し、吉原のダンスホールなどで演奏。青春の16年間を富士市過ごした。2004年に死去したが、2006年富士市から、「市民感謝状」を贈られた。」

5分ほど歩くと「妙祥寺」と書かれた「髭題目」のある十字路を左折し、次の角を右折すると、吉原商店街に出る。吉原商店街を歩くが、昔を偲ぶようなものは、何も残っていない。

右に「道祖神」を見て、10分程で、富士市役所前通りに出る。ここを右折し、すぐ錦町交差点を左折する。次の錦町北交差点を右折し、志けん橋を渡ると、左に、吉原宿西木戸跡があり、ここから吉原宿になる。

吉原宿は、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠60軒である。

吉原宿

総合庁舎の一角に「旧東海道 間の宿 本市場」の記念碑が建っていた。私がよく見させていただいている方のHPには、書いていないので、最近出来たものらしい。「この地は、吉原宿と蒲原宿の間にあって、間の宿(あいのじゅく)として東の柏原と共に、多くの茶店が立ち並び、旅人達で賑わいました。」

岳南鉄道吉原本町駅を右に見て、踏切を渡ると、左側に東木戸跡ガある。吉原宿の案内板には、八坂神社の説明が書いてあった。

富安橋を渡る。次の辻左角にある標識を右折し、国道396号線に出る。ここを左折し国道を少し進み、高島交差点の五差路を「かっぱ寿司」を左に見て入る。 

街道に戻り、歩くと、広い道にさえぎられるが、左に迂回し、更に進む地図まで書いてあったが、車の来ないのを見て、そのまま渡った。中央分地帯に旧東海道跡地の道標が立っていた。

藤枝〜富士     950円
東田子浦〜藤枝 1110円
バス        320円
 計      2380円

蒲原宿へ

原宿へ

10分ほど行き、「平家越橋」を渡ると、左側に「平家越の碑」がある。治承4年(1180)源平の富士川の合戦の際に、富士沼(浮島ガ原)の水鳥の群れ立つ羽音に驚いた平氏は源氏の襲来かと思いそのまま逃げさったのが、このあたりである。