袋井〜磐田 H.23.10.09 

8時19分、袋井駅から、歩き始める。先日歩いてきた道を戻ろうと思っていたが、違う道から、お祭りの屋台が何台も続けてきているのが見えた。今日は「袋井まつり」の最終日だそうで、法被を着た人が目立つ。御殿屋台の上には人形がのっている。屋台が通り過ぎるのを待って、先日に続きの道まで急いだ。

磐田続き

掛川へ

磐田駅に着いた。東海道は駅の手前を右の方に入っていく。磐田の東海道は、姫街道入り口で、直角に曲がり、駅の近くでまた直角に曲がっている。いこい茶屋のガイドさんによると、東海道の南のほうは今之浦という地名が示すように入り江がせまっている地形だったため、それに沿うように道路が曲がったようです。姫街道のほうは地形的に厳しい地形で、道路を通すのはやめたようです。また、見附宿には、「町並み案内処」の看板が出ているお店が多く、私もその一軒に入り、マップや資料をいただきました。土日はいこい茶屋も開いていて接待をしてくれる、親切な町でした。

国分寺跡をでて、反対側に府八幡宮がある。社伝によると、創立は天平年間にさかのぼる。楼門は寛永2年(1635年)に建立されたもので、県の文化財に指定されている。

14時06分 遠江国分寺跡 に着いた。今から1200年前の奈良時代、聖武天皇の詔により、五穀豊穣・国家鎮護のため、国府のあった磐田に建立された。七重の塔の礎石がのこっているが、何も無い原っぱです。昭和26年に発掘調査され、東西180m、南北250mの敷地であった。

看板の所まで戻り、右の方に行くと、普通の家が並び、角に三ヶ野公会堂があり、明治の道の石碑と三箇野車井戸の石碑と従是鎌田薬師道の道標が立っていた。 (車井戸とは滑車の溝に掛け渡した綱の両端に釣瓶をつけ、綱を手繰って水をくみ上げるようにした井戸を言う。) このあたりも、三ヶ野天神社の祭典で飾りつけがしてあった。

 

坂を上って行くと、左手に明治の道と書かれた石が置いてある。左が明治の道で、右が大正の道とあり、明治の道を行く。かなり急な坂で、三ヶ野坂である。しばらく行くと、江戸の古道と書いてある。他の方のHPに、「江戸の道は暗くて怖そうだったので、明治の道を進んだ」と書いてあったが、今日はお天気も良く、明るかったので、江戸の古道を上ってみた。しばらく行くと、こちら側の江戸の古道の石があり、古道の説明の看板が立っていた。江戸、明治、大正の古道が書かれていた。また、道の反対側には細い上って来る道があり鎌倉の古道と書いてあった。  道を左のほうに行くと、古戦場 大日堂の看板があり小さな小屋と、かわいらしい仏像が置かれた小屋があった。広場になっていて、太田川から遠く袋井まで一望できる。。  (戦国時代のはじめころは、遠江地方は、駿河の今川氏の支配下にあった。甲斐の武田信玄は、木原に陣を置いた。徳川勢は浜松を出て、三ヶ野、見付宿、一言坂と戦った。この大日堂の高台には、本多平八郎物見の松と伝えられる大松が存在していた。)

明治の道

江戸の古道

カラスウリ

江戸の古道を歩く

左側に、旧澤野病院の木造の白い建物がある。居宅は幕末から明治期のものらしいが、病棟と洋館は昭和初期のもののようだ。土日に9時30分から開館していると書いてあったが、まだ9時13分で、ドアは開かなかった。 その先に 寺澤家長屋門と書かれた屋敷があった。明治元年に建てられたと書かれていた。

しばらく歩くと、右側に、袋井宿場公園があった。今日はここは、お祭りの本部になっていて、イスやら、机やらが並べられていて、中に入ることはできなかった。

袋井宿

楼門

徳川家康が鷹狩りの際に休憩・宿泊施設として築いた「中泉御殿から移築した山門(薬医門)

鐘楼門

樹齢500年の大楠(クスノキ)

江戸時代には、ここに西木戸があり、旅人の通行を検めていた。 すぐ右に入ると、東福門院・日限地蔵尊を奉安所がある、西光寺がある。  東福門院和子が上洛の時に立ち寄った際、寄付したといわれる地蔵尊が秘仏として厨子の中におさめられ13年に1度ご開帳されるそうです。また本尊の阿弥陀三尊像が60年に一度御開帳の秘仏だそうです。

13時01分に東海道を離れ右に曲がり、埋蔵文化センターや中央図書館などを過ぎて、13時11分旧赤松記念館に着いた。 造船技術の先駆者 赤松則良が明治25年頃に建築した屋敷。門や塀はレンガを巧みに積み上げたもので、明治の面影を残す建物で、県の文化財に指定されている。

東海道からは離れるが、旧赤松家には言ったほうがよいというおじさんガイドの言葉に従って歩いていくと交差点の向こう側に「これより姫街道 三州御油宿まで」という木の道標が立っていた。東海道が歩き終えたら歩いてみたい街道だが、いつになることやら。、

門の写真を撮っているといこい茶屋からおばさんが出てきて、「よっていって}と声を掛けてくれた。お茶の接待を受けて、見付宿の説明をしてくれた。親切にどうもありがとうございました。

旧見付宿脇本陣大三河屋門はじめは、旅籠屋だったが、文化2年(1805年)脇本陣になる。武家や商家の屋敷の門には、棟門がつかわれますが、脇本陣の玄関を飾るためか、小さいながら薬医門の形をしている。平成19年に移築復元した。

道の反対側には、南本陣があって、その先に夢舞台見附宿と書かれた道標が立っていた。そこを右に入ると、旧見附学校があった。見付学校は、明治5年に小学校として開校し、その後、小、中、女学校、病院として使用された。現存する日本最古の洋風木造校舎で3階2層建てで、最上階に酒井の太鼓を置き上級生が太鼓を打ち鳴らし見付の人々の生活の音として親しまれた。また、建物の後には磐田文庫がある。磐田文庫は、淡海国玉神社新刊を勤めた大久保忠尚が開いた私塾である。

愛宕山を下りて、右の方に行くと、見付天神の矢印があった。矢奈比売神社というより、見付天神のほうが有名で、祭神は、矢奈比売命と菅原道真である。祭礼の裸祭りは、矢奈比売神社の神様が、神輿に移され遠江国の総社の淡海国玉神社に渡御する際に行なわれる祭りで、国指定重要無形民族文化財に指定されている。境内は、先日の台風で、大きな木が倒れていたり、石碑がひっくり返ったりしていた。

見附宿

夢舞台東海道 木原の道標がある。木原大念仏発祥の地と書いてあった。その反対側には、木原大念仏の写真看板が立っていた。(笹田源吾が討ち取られたあと、村では疫病が流行り、源吾の霊のたたりではないかといわれるようになり、墓を立て、その前で行なった供養祭が木原念仏の始まりと伝えられている。毎年8月13日、14日の二日間、新盆の家をまわります。 木原畷100mの標識もあったが、暑くて行く気にならなかった。

本町宿場公園には、宿場の西端にあり、秋葉山常夜燈や高札場があった。わずか15分で袋井宿を駆け抜けてしまった。東海道で一番短い宿場というとおり、あっというまに過ぎてしまった。

袋井宿と天橋  袋井宿は1616年(元和二)に設置された。品川宿から27番目の宿駅。天橋(阿麻橋)は袋井宿の東の入り口にかかっていた土橋です。1843年(天保14)の調査では、西端の中川まで、5町15間、人口は843人、家数は、本陣3軒、、旅籠50軒を含めて195軒でした。

大通り交差点を過ぎたところに、本陣跡があった。見附宿は、天保14年の宿村大概帳によると、宿場の人口 3935人、家数 1029軒、旅籠 56軒あった。天竜川は舟渡しだったので、島田の大井川と違い、通行は楽だったが、川止めになると、宿場は混雑した。

右側の路地に入ると大見寺がある。中世には境内に今川氏によって築かれた城があった。墓地には、良純法親王供養塔(後陽成天皇の大8皇子で、万治2年(1659年)縁あって見附に滞在した。)と、飛行家 浮田幸吉の墓がある。(浮田は江戸中期に、ライダーのような翼で初めて空を飛んだとされる人物で、晩年を見附出暮らした。)

坂を下りきったところに、見附宿木戸跡の木標があった。見附宿は江戸から60里29町京都から64里27町のとことにある。下りた左側に愛宕山がある。石段を上って行くと、新しい社殿の阿多古j神社が祭られていた。 阿多古山一里塚が奥の林の中にあると書いてあったが、境内は荒れていて気味が悪かったので、パスした。ということは、この山の中を通って見附に入ったことになる。

しばらく細い道を歩くと、遠くのほうで、祭りのお囃子の音が聞こえてくる。坂を下ると、交番があり、平坦な道になる。また、登りになると、松並木が見える。左側歩道に、見付けの銘木 松並木の石碑が立ち、そのむこうに、旧東海道松並木の石碑があった。このあたりは、両側に松並木が随分残っている。

しばらく県道を歩き、道が登りになると、国道1号線が右側から迫り、太田川にかかる三ヶ野橋を渡る。道路が錯綜しているが、信号機のところで一番左の狭い道に入る。この道かどうか不安だったが、しばらくいくと夢舞台東海道 三ヶ野の道標があり、松並木の案内板が立っていた。

小学校の右側には、淡海国玉神社があった。総社とは、遠江の各神社の神様が祭られているということで、祭神は大国主命とほか15柱と書いてあった。

寺をでて街道に戻ると、向こう側に、鳥人浮田幸吉住居跡があった。

浮田幸吉の墓

良純親王供養塔

11時46分 案内板の少し先に、東梅塚があり、天神の木の看板が立っていた。

見附宿は、東木戸から西木戸まで約1kmで、今は整備されて車道、歩道と道路も広く、建物も街道に会う様な様式で建てられていた。

山の上からは、磐田の町が一望できた。

しばらく歩くと、道が左右に分かれるところがあり、真ん中に三本松 秋葉灯籠が建っている。大正4年に建てられ、毎年12月に秋葉神社祭りが行なわれる。

道は右にカーブし、国道1号線に合流した。歩道橋をわたり、反対側の高台に遠州鈴ヶ森の看板が見える。ここは刑場があったところで、大盗賊日本左衛門の首がここで晒された。急な階段を上ると、狭い敷地に石碑が立っていた。無縁之萬霊と書かれていた。   国道を歩いていくと、富士見町東交差点の手前で国道と別れ、右の道に入った。左側に三本松御旅所があった。ここは、神輿巡行の際に、神輿が休む場所で、見付天神裸祭りや、祇園祭りの神輿はこの御旅所まで、渡御し、お神酒の献上や祝詞の奏上が行なわれる。裸祭りの道中練りはここで折り返す。

旧東海道松並木

この先で、また県道に合流した。蟹田川にかかる西木橋を渡ると磐田市に入った。9時57分だった。

袋井の銘木 クスノキ

木原畷古戦場 元亀3年{1573年}武田信玄はここ木原西島に陣を張った。浜松城を守る徳川家康の偵察隊と衝突する。この戦いが木原畷の戦いという。高天神城から、徳川軍の様子を探りに来た武田の家臣 笹田源吾はここで村人達に討ち取られてしまう。木原念仏は笹田を供養するために始まった。 長命寺に笹田源吾の供養塔があるという標識を見て、行ってみたが、長命寺を見つけることはできなかった。町民は殆ど先ほどの神社に集まっていて、聞く人はいなかった。

50mほど歩くと、許禰神社(木原権現権現社)があった。神社では、お祭りの支度で賑わっていた。神主さんがサカキの用意をしていたので話をすると、「昔は、村々で、祭礼の日にちが違っていたが、それは、お嫁さんが実家にせめてお祭りの時に帰りやすいようにとそうなっていたが、最近ではそういうことはないので、いっせいにやるようになった。」と言っていた。

徳川家康公腰掛石

細い道を入っていくと、木原集落で、右側の民家の前に、木原一里塚の石柱があるが、字は殆ど消えかかって読めなかった。その先の左側に、大きな木の植わった一里塚が復元されていた。江戸から61番目の木原一里塚で、昔の位置は先ほどの家の前あたりだったらしい。また、右側の木の前に「木原畷(なわて)古戦場」400mと書いた矢印が立っていた。 

袋井市川井の道標

川井の信号交差点で、県道413号(旧国道1号)の合流する。県道を50mほど歩くと、松橋という小さな橋があり、ここに夢舞台東海道 木原松橋の道標が立っていた。ここから、右の方に入る道があり、袋井宿浮世絵の案内版が立っている。蔦屋版東海道五十三次で、初代安藤広重の作。

9時12分 東海道どまん中西小学校の看板がかかっていた。前回 どまん中東小学校があった。袋井では現在「どまんなか」を何にでも付けて、ど真ん中にあるということを強調している。

本町宿場公園に来ると、向こうから御殿屋台が、何台もやってくる。大勢で引いている所と、小人数で引いているところがあった。屋台の上には、「義経千本桜」、「信長・お濃」 「柳生十兵衛」などの歴史上の人物のお人形がのっている。

問屋場跡(人馬会所)

茶屋から東海道に入っていく。少し行くと路地の突き当たりに白髭神社がある。猿田彦を祀る神社で、祭りの幟が立っていた。

東海道どまん中茶屋は最近つくられたもので、おじいさんが店番をしていた。今日は祭りということで、用意してある法被を貸してくれ、写真を撮ってくれた。東海道夢舞台 袋井宿 天橋の道標があり、袋井丸凧発祥の地と書かれていた。