棒鼻の前に「平太郎」というお店があって、人が4〜5人並んでいた。鯛焼き、たこ焼きのお店で、「美味しいんですか?」と並んでいる人に聞くと、「鯛焼きが評判です。」というので、私も並んで鯛焼きを2個買いました。道の反対側の小さな空き地に、ベンチになる石が並ん出いたので、腰掛けて食べました。皮がパリッとして美味しかった。
新居町〜二川 H.23.11.26
交差点をこえた右側の家の前に 夏目甕麿(かめまろ)邸跡 加納諸平生誕地の石碑があった。諸平(もろひら)は、江戸後期の国学者で歌人である。 塀に案内板があったが、古くて字がかすれよく読めなかった。
坂を下っていくと、古い作りの民家が随分残っている。 道をさらに下がると、枡形に曲がっているところに来た。白須賀宿の東の入り口にあたり、曲尺手(かねんて)とよばれる所である。直角に曲がった道のことで、軍事的な役割をするほかに、大名行列同士が、道中でかち合わないようにする役割もあった。とあった。
松並木の途中に、藤原為家と阿仏尼の歌碑があった。「風わたる 浜名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣り船」藤原為家「わがためや 浪もたかしの 浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで」 阿仏尼 藤原為家は、藤原定家の二男で、続後選和歌集や続古今和歌集を編纂した人物である。阿仏尼は、為家の継室で、彼の没後出家し、鎌倉へ下向のおり、十六夜日記を書いた。
明治にはいり、東海道の宿駅制度が廃止された後、東海道線は、潮見坂をさけ、北のほうの鷲津を通ったので、このあたりは随分影響を受けたはずである。白須賀宿は、遠江国の最西端の宿場である。 宿は最初は潮見坂の下にあったが、宝永4年の地震と津波により、翌年潮見坂上に移転をした。宿場の中心は伝馬町だが、何軒家の家に江戸時代の屋号を書いた看板が掲げられていた。
右手に、二川八幡神社の鳥居があり、この神社は、永仁3年(1195)鶴岡八幡宮から勧進された。境内にある、秋葉常夜燈は、二川新橋町の街道枡形南にあったもので、文化8年(1869)に建立されたものである。二川宿の人々の寄進によるとと燈籠2対が今に伝わっている。とあった。
両側がキャベツ畑の国道を1時間ほど歩いて、二川ガード南交差点を右折し、東海道に入った。ガードを抜けると、東海道の標識があった。曲がる前につけて欲しいなと思う。
5分ほど歩くと、道の右側に、お堂があり、中に仏像が2体祀ってあった。他の方のHPには、(壊れた祠から身を現している3体の馬頭観音)とあるが、祠は古いが壊れてはいなくて、石仏も2体しかなかった。 傍の案内板に「一里山の一里塚」とあり、道路をはさんで1基づつあったが、南のものは壊されて、現在保存されているこの塚は、東西11m、南北14m、高さ3mで、旧東海道の面影を残す貴重な遺構である。と書いてあった。
その先の一里山交差点で、国道1号線にでる。潮見バイパスが出来るまえは、今歩いてきた国道42号線が国1だった。交差点の右に、松の木が数本植わっていた。「東海道宿場宿場制定400年記念 一里山七本松植樹 」の看板が立っていた。東海道はここから、三弥町交差点先の二川ガード南まで、歩かなければならない。
国道を歩いていくと、小さな川があり、ここにかかる橋は、二間ほどだが、静岡県と愛知県の県境で、江戸時代には、遠江と三河の国境であった。川は境川で、橋は境橋である。13時51分,愛知県に入る。橋を渡った畑の中に、突然お地蔵様が現れた。何の説明もなく、屋根もない所にぽつんと立っている。
また、少し行くと、三叉路で、塀の下に、高札場跡の石柱があった。ここに高札場と立場茶屋があったということだ。 道は上りになり、国道41号(旧国道1号)に合流する。その向こう側の正面に、村社笹子神社があった。境村の鎮守社だったのだろう。白須賀宿は、笹子神社で終わる。
その先の右側に、庚申堂があった。お堂の前に猿の置物が置かれていた。その後にも3匹の猿が置かれていた。お堂は古く、今にも屋根が落ちそうだった。
JAの向かいの家の前に 本陣跡の石碑があった。本陣は木村左衛門が務めた。本陣職は代々世襲し、本陣経営を続け、苗字帯刀を許されているものもあった。白須賀宿には、加宿である隣町である境宿もあわせて、本陣は1軒、脇本陣も1軒、旅籠は27軒だった。 道の反対側には、脇本陣の石柱があった。
曲尺手手前の右側に 鷲津停車場往還と刻まれた道標があった。
反対側に明治天皇が御巡幸した際に、ここで、休憩し、景色を愛でたと書いた記念碑がたっていて、これらを石碑群と呼ぶらしい。
おんやど白須賀の隣に、石碑が沢山並んだ広場があった。地図にあった潮見坂上の石碑群であろうか。白須賀小学校、中学校の前に潮見坂公園跡の石碑と 東海道夢舞台 白須賀宿 潮見坂公園跡の道標があった。眼下には、海が広がっていた。
三叉路に、左新道、右旧道の文字が刻まれた石柱が立ち、その上に「潮見坂」の看板があった。東海道夢舞台 白須賀宿 潮見坂下の道標もあった。旧道の坂を上っていくと10分程で、おんやど白須賀という資料館があった。中に入って、見学し、少し休憩した。
火鎮神社ー1.6km27分ー潮見坂下ー0.8km14分ー潮見坂公園跡1.0km17分ー問屋場跡ー0.7km12分ー境宿
12時36分 新町に入ると、右側に火鎮(ほずめ)神社があった。案内板には、記録が火災で焼失したので、由来は分からないが古い事には間違いない。と書いてあった。その横に白須賀宿マップがあった。
古い民家が結構残っていた。
しばらく歩くと、右側に、明治天皇御野点所址があった。案内板によると「明治元年9月20日、岩倉具視らを従え、東京へ行幸のため、京を出発した天皇は豊橋から新居に向かう途中に休息した所で、その後新居の飯田本陣に宿泊し10月13日に東京に到着した。
街道の左側に、松並木が続く。他の方のHPには、「この松並木は、松くい虫で全滅したため、昭和62年に植えなおした。」と書いてあったが、そんな説明の書いた案内を見つけることは出来なかった。
浜名旧街道を歩いていくと、東海道夢舞台 紅葉寺跡の道標があった。石段を上ってみたが、お寺の跡はなく、お地蔵さんが祀られていた。室町幕府6代将軍足利義政が、1432年富士遊覧の時立ち寄って、紅葉を観賞したので、紅葉寺と言われている。1190年、源頼朝上洛の際に、橋本に宿泊した頼朝の寵愛をうけた長者の娘が、後に出家して、妙相と名乗り、高野山より毘沙門天立像を勧請して建てた寺と言われている。
もっと左の方に行くと、「風炉の井」という古い井戸が残っているという話だが、大分入ったが見つからず、戻った。東海道は、橋本交差点を右におれ、しばらく国道を歩く。橋本西の交差点で、右の細い道に入る。その手前に、教恩寺があった。江戸時代後期に建造されたという立派な楼門が印象的だった。。
左に歩いていくと、お城の形をした、立派な消防署があり、その敷地内に、女屋跡の石碑があった。案内板によると「橋本宿は、鎌倉時代、東海道の宿として栄えた所で、遊女が多くいたところから、花香町といわれた。ここは、橋本宿の長者屋敷の一角で、1190年、源頼朝上洛の際に多数の遊女が群参したことから、この名前が付いたといわれている。長者の娘妙相と頼朝の恋物語が残っている。一説によると、頼朝の家臣が止陣した「御長屋」の跡とか、「御納屋」との説もあり定かではない。」とあった。
浜名湖は、昔は淡水湖だったが、室町時代の地震と津波で流されるまでは、陸続きだった。当時は、川があり、その川に架かる橋を渡って、舞阪から新居町まで歩けた。地震の後は、東海道は、舞阪から新居まで1里半を船で渡った。これを今切の渡しという。 昭和7年に浜名橋がかけられ、渡しは廃止になった。今は、この区間を電車に乗るか、浜名大橋を渡るかどちらかになる。私は、JRで、新居町に行くことにした。
JRの線路の踏切を越すと、二川宿の町並みが見えた。 右手に日蓮宗 妙泉寺があり、山門をくぐると、芭蕉の句碑があった。街道には古い家並みが残り、家々の入り口には、二川宿とかかれた暖簾が下がっている。又、玄関脇には、二川宿と書かれた常夜燈を模したものが置かれている。
JR 2600円
バス 320円
2920円
二川は、JRの駅から離れているため、このような町並が随分残っている。又。新しい家も、町並みを壊さないように気をつけて建てられているように感じる。
そのまま歩いていくと、三叉路に出る。東海道は、左の方に進む。右側の家の前に 東海道夢舞台 境宿 白須賀宿加宿 の道標があった。近くにあった谷川道の石柱は、昔の道標である。 東海道夢舞台の道標は、東海道400年祭を記念して静岡県が建てたもので、これが最後の道標になります。
火防地の石碑
白須賀宿の火防と書かれた看板が建っている。宿場が坂上に移り、津波の心配はなくなったが、冬になると、西風が強く、藁葺きの家が多かったので、火災が起きると大火事になったので、火防地を設け、常緑樹の槙を10本ほど植えた火防地は間口2間、奥行き4間半で、宿場の3地点、6箇所にあった。 少し入った所に 火坊地の石碑が建っていた。
公民館前のバス停あたりに、問屋場があったというが、何の跡もなかった。東海道夢舞台 白須賀宿 問屋場跡の道標が立っていた。
元町は宝永4年(1707)の地震と津波で被害を受けたため、白須賀宿は、潮見坂の上に移転したので、元町と言われている。左側に郷社内宮神明神社がある。あたりは、キャベツ畑が広がる。
12時20分 松並木が終わると、立場跡の石碑が立っていた。立場は、旅人や人足駕籠かきが休息する茶屋をいう。江戸時代に、東海道の各所に設けられていた。この立場は、新居宿と白須賀宿の間にあり、代々加藤家が勤めてきた。立場では、旅人を見ると、湯茶を勧めたので、「立場立場と、水飲め水飲めと、鮒や金魚じゃあるまいに」戯れ唄を詠んだという話が残っている。
細い道に入っていくと、民家の前に橋本宿の石碑が立っていた。車があまり通らない畑の広がった道を歩いていく。「浜名旧街道」の標識があった。
左にカーブした道を行くと、橋本交差点で国道にでる。その手前に、東海道夢舞台 新居町 橋本の道標があった。新井宿加宿と書いてあった。国道を渡ると、上下神社がある。
東海道は、その先で右にカーブし、また、左にカーブする。その手前に、棒鼻跡の石碑が建っている。案内板によると「ここは、新居宿の西境で、一度に多くの人が通らないように、土塁が突き出た、枡形をなしていた。棒鼻とは、駕篭の棒先の意味があるが、大名行列が宿場に入るとき、この場所で、先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになったとも言われている。
右側の若宮八幡宮の先に、西町公民館があり、そのむかいに、一里塚の石碑が立っていた。案内板には、「慶長9年 2代将軍家忠が、一里塚を築かせたといわれ、東海道には、104ヶ所あった。ここには、左に(東)榎、右に(西)松が植えてあった。」と書いてあった。
直ぐ傍に、疋田八郎兵衛本陣跡があった。3軒あった本陣のひとつで、疋田家は、庄屋や年寄役を勤め、本陣には、吉田藩の他、御三家など120の大名が利用したとあった。 その先には、寄馬跡の石碑がある。 宿場には、公用の荷物や公用の旅人のために、人馬を提供する義務があった。東海道の場合、人足100人、馬100匹を用意していた。不足する場合は、助郷制度により、近隣の村から集められたが、その人馬のたまり場が寄馬である。とあった。
街道に戻り、しばらく行くと、泉町交差点に出る。正面に飯田武兵衛本陣の跡があった。明治元年、明治天皇の天皇行幸の際の行在所となり、同年の環幸、翌年の再幸、明治11年の巡幸の際にも利用された。その行在所の建物は奥山方広寺に移築された。建物は当時のものではなく、石碑と案内板があるだけである。
街道の左側に、旅籠「紀伊国屋」があった。宿の値段を見ると、「江戸から京まで2週間で1両(4000文)だった。平均的には、1泊2食で4000円〜6000円だった。」「紀伊国屋は紀州藩の御用宿だったが、一般の人も1月に50人ほど泊まっていると旅人帳に記載されている。」 割と高かったんだなーと思った。
新居宿は、地震や津波の災害によって、宿の位置が2度変わっている。宿には、新居の関所と渡船場があり、数百隻の船を有していた。ガイドさんによると、「明治になって関所が廃止になった時、政府に掛け合って、建物を残し、学校や、役場として使っていた。」主要街道の関所建物としては唯一残っている。建物は1971年に解体修理された。
AM.9時40分 新居町に着いた。駅の近くに 山頭火の浜名街道 「水まんなかの道がまっすぐ」の句碑が建っている。
浜名橋には、新居町の浮世絵のレリーフが何枚か描かれていた。荒井となっているが、新居関所のボランティアガイドのおじさんが、「荒井と書かれた文書や絵があるが、新居のことです。」と言っていた。
左折すると、11時2分 東海道夢舞台 新居宿 飯田武兵衛本陣跡の道標があった。
紀伊国屋を出ようとすると、おばさんが「裏から出て、すこし行くと「小松楼」があるから、見学して行ってね。」というので、寄ってみた。 元は芸者置屋だったそうで、古い箪笥が残り、2階には、出窓があって、腰掛けて下を通る人を見られるようになっている。今は「町づくり交流館」になっていた。
明け六つから暮れ六つまで交替で役人がつめていた。足軽の母親や女房が「あらため女」として、女の旅人を厳しく調べた。江戸時代の渡船場跡は宝永5年に今切関所が現在地に移転してからのものである。大正以降の埋め立てにより、今はその面影をとどめていない。平成14年に渡船場の一部を復元した。とあった。