東田子浦〜沼津 H.24.03.11 

9時35分 東田子浦駅に着いた。40分に歩き始めた。すぐ隣に「六王子神社」がある。案内板には(三股の伝説)が書いてあった。(昔、沼川、和田川、潤川が合流する所を三股と呼んでいた。この淵には竜が住んでいて、お祭りで、少女を生贄にするしきたりがあった。400年ほど前に、関東の巫女7人が、京に向かう途中、一番若い「おあじ」がくじを引き当ててしまった。仲間の6人が、国許に帰る途中、柏原あたりで、浮島沼に身を投げた。村人が6人のなきがらを一箇所に弔ったのが、この神社である。おあじは鈴川の阿字神社に祀られている。

藤枝〜東田子浦 1110円
沼津〜藤枝   1280円
バス        160円
計        2550円

三島宿

吉原宿

沼津機関区略歴

今日は、ここで終わり沼津駅に向かった。駅前には「富士山の雪解け水」とかかれた水飲場があり、沼津の水は美味しい柿田川の湧水であると書かれていた。

駅のほうに向かって進み、静岡銀行と静岡中央銀行の間を右折すると、川廓通りになる。川廓町は、志多町と上土町の間の東海道往還沿いにあって、東側は狩野川接し、背後は沼津城の外郭に接した狭い町であった。川廓は「川曲輪」とも記し、狩野川に面した城郭に由来して名づけられたと考えられる。

1579年 武田勝頼により、築城された三枚橋城は、1613年、大久保忠佐を最後の城主として廃城になりました。この石垣はアゴラ沼津の地下から発見された本丸入り口付近の石垣の一部を復元したものである。

上土町  戦国時代、武田勝頼により三枚橋城が築かれた時、城の堀を掘った揚げ土を積み上げた地域であったことから由来する。沼津宿の一つであった上土町は、商家が多く、狩野川べりには、個人名のついた河岸が並び、水運を利用する問屋町としても発展した。

通横町  ここは、江戸時代、沼津宿の問屋場が置かれ、人馬継ぎたてで賑わった所。問屋場の裏には、白壁瓦ぶきの大きな土蔵が建っていた。南北に走る上土町の通りと本町の通りとを東西に通しているという意味からつけられた。

浅間神社の前を、永代橋橋どおりを進み、静岡銀行を左折する。アーケード名店街手前の交差点を右折する。次の御成橋手前を右折すると三枚橋外堀跡がある。と言うことだったが、ないので反対側をまた戻った。地図にる東急ホテルは名前が変わって、リバーサイドホテルになっていた。その前に三枚橋外堀跡の石碑があった。三枚橋城は武田勝頼が築城したもので、江戸期の沼津城の前身である。沼津城は三枚橋城が廃城になった後、160年後に築城された。

沼津宿は、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠55軒。

沼津宿

子供の頃「おせんげんさん」と親しんだ浅間神社で、しばらく休みコンビニで買ったお結びを食べた。子供の頃は広いところだと思っていたが、随分とこじんまりとしていた。

右折すると、直ぐに、常運寺がある。庭の梅が綺麗だった。歌人若山牧水の墓がある。寺の開祖 増誉上人は戦で松林が荒れ果て、潮害に苦しむ人々のために、手植えで松を植え千本松原ができたと言う。

浅間神社の角を右に曲がって寄り道をする。この道は千本街道といって、ずっと行くと千本松原に行く。千本浜公園から甲州街道を歩くと今日朝歩き始めた東田子浦まで、松林が続く。戦国時代に、このあたりは、北条氏と武田氏の争いが激しく1580年の千本浜の戦いは激戦で、明治33年倒れた松の大木の下から沢山の頭骸骨が出てきた。地元の人は、骨を集め碑を建て、「お首さん」として手厚く葬った。

私は、高校まで沼津で過ごしたので、懐かしく街道を歩いた。東間門、西間門、松下、市道と懐かしい町名が続く。この細い道は、昔、蛇松線という沼津駅から港まで貨車が走っていた跡だ。子供の頃にはまだ線路が残っていた。この傍に、むっちゃんちの旅館がビジネスホテルになって残っていた。その隣には、同級生の米屋さんが残っていた。

妙伝寺がある。妙伝寺は私の実家のお寺で、実家はすでに沼津にはないが、お墓は残っていて、親戚が面倒を見てくれているそうで、長いことお参りしていなかったので、様子を見に行った。お寺の裏に墓地はある。きれいになっていた。 妙伝寺の山門脇には、髭題目石がある。昔は気が付かなかった。

間門の説明板 昔、この地南の浜で、閻魔大王像の首が網にかかり、首の後に「天竺魔伽陀国」と彫られていた。村人は堂を建て、胴体手足を作り、安置して御祀りした。ことからこの名前が付いた。また、アイヌ語で、マカは開く、トは湖水を意味するので、土地の役割に由来するのではないかと言う説もある。)

県道163号線をひたすら歩く。約1時間ほど歩いて、西間門交差点に着いた。歩道にある石碑を見ていると、ウオーキングのおじさんに話し掛けられた。石碑には「藝術家舟仙ノ墓」と書かれている。おじさんはいつもここを歩いているが、気が付かなかった。と言っていた。ネットで調べると、(舟仙は、江戸時代文政の彫刻師で、一刀彫の彫刻師であった。沼津藩水野氏に召され馬の彫刻を頼まれ、問屋場で30日あまり雲助相手に酒を飲み、馬を観察した。と言われている。)ここに墓があるわけ無いので、墓はこちらという方向が書いてあったのではないかと思う。

街道から右手に入ると、松蔭寺がある。一休、沢庵和尚と並び称された白隠禅師の寺である。寺には、国重文「白隠禅師自画像」、墓、備前池田候から拝領のすり鉢を乗せた擂鉢松が有名。擂鉢松がどこにあるのかとさがしたが、見つからない。店の前を掃いていた、仏具やの御主人に聞くと、「昨年くらいに、枯れて切ってしまった。そこにあるシートに覆われた切り株がそうだよ。」と教えてもらった。「擂鉢は寺宝と言うことで、宝物館にあり、毎年4月何日かに一日だけ見られる。」と教えてもらった。「山門の瓦も古いもので、108枚あり、煩悩の数と同じ。」だそうだ。 擂鉢が乗った松を見てみたかったと思う。

5分ほど歩くと、西木戸(見付け)跡がある。原宿は現在の、西町、東町、大塚本田の三町で形成され、西と東の境に木戸を設けて、宿場の入り口とした。西木戸から東木戸まで660間(2,2km)あった。原宿は、本陣1軒、脇本陣0、旅籠25軒の東海道中最小の宿場であった。

12時15分 里塚跡の石碑があった。傍に古い石碑が立っていたが、前に、火の用心と書いてあった。

三枚橋城外堀復元

御成橋は、天皇が御用邸に来られる時に通った橋ということでこの名前がある。

ちょうど からくり時計が鳴った。

安藤広重の沼津

街道を歩いていくと、Y字に道が分かれる。左に行くと松並木が続く道で、多分甲州街道だと思い、右に行くことにする。この松並木は千本浜まで続く。

12時39分 夢舞台 東海道 沼津藩領境の道標がある。 その横に 従是東沼津領と書かれた石柱が立っている。案内板によると、(傍杭は、江戸時代、天領た私領の入り組んだ所では、領域の所在をはっきりさせるため、街道の傍らに立てた。明治末期に下半分を折られ、失われた。)

生誕地の前に、雲見浅間神社の石碑が建っている。なんと、ビニールハウスの温室の中に神社がしまわれている。雪国でもないのに、どうしてだろう。

原駅前の交差点から、300mほど行くと白隠禅師誕生地の石碑が建っている。地図によるとこの奥に、白隠産湯の井戸があるはずだが、工事中で重機が入っていて、行くことができなかった。(駿河の国には、過ぎたるものが二つある、富士のお山と、原の白隠とうたわれ、臨済禅中興の祖と仰がれた白隠禅師は、33歳で松蔭寺の住職になり、84歳で亡くなるまで、全国各地で禅宗の教えを広めた。)

11時2分 夢舞台 東海道 原宿の道標があった。後には、浅間神社があり、高札場跡の石版があった。

10時38分 東海道原宿 一里塚跡がある。江戸を基点として、一里ごとに塚を築いたもので、旅人に行程を知らせたり、人馬賃算定の基準となった。今は宅地化されて、面影はないと記されている。

原宿

桜地蔵尊こちらの道標があるので、行ってみた。東海道線の線路を渡り、線路に沿ってしばらく歩くと、あった。 扉をあけて中に入ると、人が集まる部屋があり、お地蔵さんが祀られていた。手を合わせて、後にする。

また、浅間神社がある。ここは一本杉と言う地名で、この地の鎮守の神様になっている。

この道が東海道かどうか、心配だったが、この標識があって、安心した。これから、この標識が所々にあった。しばらく行くと、大通寺があり、延命地蔵が祀られている。

街道に戻り、しばらく歩くと、浅間愛鷹神社がある。街道歩きを始めた頃は、目に付くお寺、神社すべて入って、お参りをしたが、最近は、すべてにお参りをすることはなくなった。