磐田〜浜松 H.23.10.30
7時58分、磐田の駅から歩き始めた。駅前ではジュビロ磐田のマスコット「ジュビロくん」が迎えてくれた。静岡県の県鳥「サンコウチョウ」がモチーフで、ジュビロ(歓喜)のように底抜けに明るく情熱的なマスコットだという。駅前に「善導寺の大樟」が大きく枝を広げている。樹齢700年。根回りは二段に盛り上がり、地面に接するところで、32,9mある。
12時56分 繁華街の一角にお社と夢告知地蔵尊が祀られている。江戸時代末期、コレラで亡くなった人々を祀るために建立されたが、明治の廃仏毀釈で土中に埋められ、たが、町民の夢枕に出て、助けを求め、町民達の手で掘り起こされ、新たなお堂に安置された、という逸話が残されている。
11時30分 道の左側に「法橋の松」こちらの矢印があった。まだ早いし行ってみようと曲がった。5分ほど歩き、もう引き返そうと思った時、左の方に変な形の松が見えた。説明には「天竜川町妙恩寺の開祖金原法橋遺愛の松で、その広大な庭前にあったものと伝わる。地上2mの根回りは5m、樹高は14mだが、枝が四方にくねって伸びている。樹齢約700年といわれる。」 元の道に戻り歩くと道端の石に「野次喜多も通ったみちだよこのあたり」と書いてあった。
12時47分馬込川にかかる馬込橋に着いた。江戸時代には、この橋を渡ると浜松宿だった。 橋を渡ったところにある広場には、「見返りの松と鳥居松の跡」の標識があった。
駅前信号機のある交差点手前で、右に入る細い道に入る。とあったので、細い道に入っていくと、T字路にぶつかってしまった。道を間違ったようだ。元に戻り、もうひとつ駅から離れた道をはいった。角に東海道の案内板があるということだが、探したけれどなかった。しばらく行くと、右奥に村社浅間神社が見えて、ここが東海道だと確信した。
少し歩くと、県道261号と合流した。直ぐ先が豊田町で(現在磐田市)一言橋を渡る。左の化学工場の敷地内に「くろんぼ様」という黒坊大権現が祀られていた。説明板によると、{現在地の西100mの田んぼの中にあった祠を移したもので、咳や熱病の神様とされている。インド人の旅僧が手に掛けられ金品を奪われてしまったので、手厚く葬ったものと言われている。)
JR 1770円
バス 320円
2090円
浜松駅から藤枝に戻った。
しばらく、右側を歩いていくと、六軒京という漬物のお店があり、その看板には実篤とあった。かっての六軒茶屋に由来するのだろうか。
この後は、道幅のある旧国道を歩くので、車も多く疲れてきた。11時58分、右の方に大きなビルが見えた。浜松アリーナで、東海道五十三次 浜松宿 冬枯れの図 と書いてあった。 ここで、雨が降り出した。午後から雨の予報が当たったわけです。雨合羽を着て、傘をさして歩いた。
天竜川駅への十字路がある辺りが昔の橋羽で、道の右側に、永禄年間の創建で、慶安元年に再建された六所神社があった。 境内には、お宮の松といわれる巨大な松がそびえ、橋羽のシンボルであったが、昭和54年の台風で倒れ、樹根が地中に埋まっている、とあったが、その場所も分からなかった。立派な、秋葉山常夜燈もあった。
右手に立場跡の看板がある。立場は宿場と宿場の間に設置された休息所で、旅人や、馬子、駕籠かきが一休みした。 茶屋があって、土地の名物を販売した。ここは、見付宿と浜松宿の間で、藤棚があり、旅人を楽しませたと伝わっている。とあった。傍に随分と曲がって伸びた松がある。
松並木がしばらく続き、右手に八柱神社があった。境内にはふた抱えもある黒松がそびえる。拝殿正面の額の揮毫者は山岡鉄舟で、拝殿内の額は有栖川宮タル人親王による。金原明善顕彰碑や金原久衛門寄進の燈篭がある。
右側の道の手前にある安新町交差点には北へ行く道がある。江戸時代、安間の萱場とよばれたところで、この道も本坂通り(姫街道)と呼ばれていた。吟味の厳しい新居関所をさけた人たちが利用した道である。見付宿の追分から池田に出て、池田から船渡りして、市野にいたる道で、この道も市野に合流していた。
5分ほど歩くと、大きな屋敷が右側にある。金原明善の生家だった。旧安間村の庄屋で、明治、大正期の実業家である。天竜川の治水に人生をかけた人で、全財産を売り払い、資金を作り、治水事業の費用にあてたといわれている。今は、中を見学できる。置いてある籠は、明善が91歳の時、最後に金原山林を視察した時に使用したもので、「この年では山に行くのは無理だ。」というのを、「自分で育てた山で死ぬのは本望」と籠に乗って見廻った。小学生の時から明善のことは教わったが、静岡県だからかと、思っていたが、夫も知っているといっていた。 生家の前に資料館があり、その敷地に安間学校跡の標識があった。
5分ほど歩くと、軽便鉄道跡の標識が立っていた。軽便鉄道とは一般的な鉄道より規格が低く、安価に建設された鉄道である。明治42年から浜松〜中野町の11駅間を走っていた。 藤枝の大手駅から袋井駅までを結んでいた駿遠線の跡が藤枝にもあります。
石垣清一郎生家 明治18年中野町に生まれ、与謝野晶子が主催する「明星」に参加した、浪漫派歌人で、県会議員や中野町村村長などを勤めた。 嵐山光三郎は中野町の石垣家に生まれ、清一郎から文学の薫陶を受けて育った。嵐山の作品には、清一郎や天竜川がしばしば登場する。とあった。
土手を下りると、右側に六所神社があり、その前に東海道の標識があった。この石は、道路元標といって、各市町村に一箇所だけあり、これは中ノ町道路元標といって、中ノ町の基点を示すもので、当時の規格に忠実に作られているとあった。京都と江戸の中間点ということで、付いた名前を言うことだが、袋井でもどまんなかと言っていたが、どうだろう。
道はT字路になり、木内建設に突き当たる。昔は、工場の所を直進し、天竜川の土手に上がって、北に進み、天竜橋の少し上流から、船渡しで川を越えた。 今は、右折して進むと、右側の源平新田公民館前に、天竜橋跡の碑が建っている。 明治7年に、源平新田から中野町村に船橋がかけられ、明治9年に木橋に架け替えられた。天龍橋は全長646間(1163m)、巾2間(3,6m)で、池田橋と同じく「はしぜに」を徴収していた。昭和8年現在の鉄橋が完成し、木橋は廃止され、取り除かれた。 ここから北へ1.5kmほど行った所に池田という所がある。鎌倉時代には、鎌倉街道の宿駅として栄えた。この地を有名にしたのは、謡曲の熊野(ゆや)である。
歩いていくと、右側の民家の前に、夢舞台東海道 豊田町長森立場 (長森かうやく)の標識があった。 宿場と宿場をつなぐ街道筋には、立場という人足、駕籠かき、伝馬などの休憩所が設けられていた。 ここから数十メートル東に行ったところに、立野村字長森の立場があった。長森かうやくは、江戸時代に山田与左衛門家で作り始めた家伝薬で、あかぎれなどの切り傷に抜群の効用があるとして人気が高かった。製法が極秘中の極秘で、現在は作られていません。と説明板があった。
磐田市では、東海道と歴史の道をここ森下を基点に国道1号線一言坂付近までの3kmを「東海道と歴史の道」と定めた。とあった。
森下の歩道橋の先は三叉路で、県道は右にカーブしていくが、旧東海道は直進する。
しばらく歩くと、左側に「磐田の湯」があり、まだ9時前なのに、車が並んでいた。右側に「ランチュウの会 遠州錦養会」の看板が立ち、ランチュウが運び込まれていた。まだ時間が早いので、奥のほうの洗面器には、まだ、ランチュウは入っていなかった。後日、新聞にこの記事が出ていた。
万能橋を渡ると、宮之一色に入る。短い区間に松並木が残っていた。 「東海道と歴史の道」ルートという標識があり、しばらく歩くと、右側に宮之一色一里塚があった。江戸から数えて63番目の一里塚で、昭和46年に復元された。当時は西の間の宿といわれた池田宿と天竜川の渡船場を、東に見付宿をひかえ、多くの旅人や荷物が行き交った。
松並木が終わり、しばらく行くと、左側に宮之一色の秋葉山常夜燈があった。文政11年(1828年)に建立された、木製のもので、、祠の中には、毎年可睡斉からのお札を祀っているとあった。透かし彫りの立派なものだった。
しばらく歩くと、右手に松林禅寺があり、「境内の薬師堂は、徳川家光が浜松城主に命じて建立させた」とある。 薬師堂を見た後、道の反対側に「かやんば高札場跡」の標識があった。
天竜橋は幅が7m40cmで歩道がない。他の方のHPを見ると、バスで渡ったとか、タクシーを呼んで渡ったとか書いてある。この橋に平行して国道1号線の橋があり、そちらには歩道があったので、国1の橋を渡った。橋は日曜日ということで、交通量はたいしたことなかったが、歩道を歩くので、ゆっくりとわたることができた。この橋の真ん中で、浜松市になった。渡り終えたところに、「東海道案内板」にようこそ中野町へとあった。
中泉公民館の前に「見付 中泉」の夢舞台東海道の標識が立っていた。江戸時代と大正時代の中泉の絵図があった。 旧東海道と書かれた石も置かれていた。
小さな橋を渡ると、「大乗院坂」の石碑があった。大乗院界隈と書いた説明板によると。(この坂の途中に大乗院があった。そこに祀られていた、地蔵菩薩像、阿弥陀如来像とも現存する。大乗院の北の台地一帯は、「御林」とよばれ、明治22年に開通した。中泉駅のホームはこの地で作られた赤レンガで築造された。磐田の赤レンガ発祥の地である。 この北側の道(細江線)は開通した中泉駅より豊田町池田駅まで、「中泉軌道」あとである。)中泉軌道は、軽便鉄道で、磐田駅(当時は中泉駅)から田中神社の近くを通り、北上し、現在の261号線に出て、左折するルートであった。
本坂通安間起点
東橋跡 かってここに流れていた川に土橋がかかっていた。中野町村で一番東の橋だった。東海道を旅する人は皆この橋を渡った。明治後期かた、天竜川の船運による木材の集積地として栄えた。
国1の橋から下りた為、付近をぐるぐるしてしまい、洗濯物を干していたおばあさんに明治天皇の碑を聞いて、また土手に上がりました。明治天皇御聖蹟の標柱と玉座跡があった。舟橋、木橋跡の立て看板によると、天皇が明治元年東行の際には舟を並べ、板を敷いた仮設の舟橋が2日間だけかけられた。その後9年に完全な木橋に架け替えられた。
この標識を右に曲がると、若宮八幡宮と西之島学校跡があった。明治6年28箇所の村の神社を統合して誕生した。毎年10月に郷社祭典が行なわれ、17台の山車が出ます。