高塚駅入り口の交差点を過ぎ、さらに歩くと、道が左にカーブし、二手に分かれる。東海道は右の細い道にはいる。国道と平行して走っているが、車が少ない分、東海道を歩いている気分になる。松並木が少し残り、古い家並みも少し残っている。 コンビニを見つけて入り、冷たいお茶を買った。傍のバス停にベンチがあったので座って休んだ。バス停は「立場」だった。江戸時代には、ここに立場茶屋があったのだろう。
H.23.11.01 浜松〜弁天島
馬郡跨線橋南交差点を渡ると、県道49号になった。右側のこんもりした森の中に、応永弐年(1395年)に奈良春日大社から勧請した春日神社があった。社殿前には、狛犬の変わりに、鹿が鎮座していた。
東本徳寺を過ぎると、西本徳寺があった。西は、他の方のHPに、建築中とあったが、立派な本堂が出来ていた。 海中出現 釈迦牟尼仏安置の石碑を見て、本堂に入れてもらったが、誰もいなくて、どこにあるのか分からなかった。日本左衛門が盗み出し、浜松方面に逃げたが、気づくと相変わらず、寺の門前だったという話があるそうです。
赤い大きな鳥居が立っていた。熊野神社参道を歩いていく。紀州熊野本宮の神主さんが、諸国行脚の途中、この地に足を止めて祭祀あいたのがはじまりと言われている。 境内には、ご神木の雲龍椎の巨樹があった。昇天松の標識もあったが木がないので、巫女さんに聞くと、枯れてしまって、これが切り株ですと言われた。 街道に戻ると反対側に「源十道路」の標識があり、細い道が伸びていた。。
浜松駅を7時40分に歩き始めた。駅前には「モザイクカルチャー発祥の地」と書かれた看板と、人形が飾ってあった。
左側に、舞阪一里塚があり、その手前に、正面に秋葉大権現、西面に津島牛頭大王、南面に両皇大神宮と刻まれた石灯籠が立っている。江戸時代にはよく火災に見舞われ、文化6年(1809年)宿の大半を焼く大火があり、火防せの秋葉信仰からこの常夜燈が設置されたが、海の安全を祈って、伊勢神宮や厄病退散の津島神社を加えて入るのは珍しい。 右側には、ベンチと、舞阪宿 宿内軒別書絵図面と書かれた石版があった。
新町交差点で、斜めに交差する国道1号線をわたる。旧東海道を200mほど行くと、両側に石垣が現れた。見付石垣で舞阪宿の東のはずれにあり、江戸時代には、六尺棒を持った番人がここに立ち、宿場に出入りするのを見張っていた。舞阪宿は、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠が28軒だった。
舞阪宿は江戸日本橋から67里、品川宿から30番目の宿である。東海道の陸路は舞阪宿で一度切れて、新井宿まで海上一里半船で渡ることになる。浜名湖は昔、遠淡海と呼ばれる淡水湖だった。明応7年(1498年)の地震により切れて入り海になった。その切れ口を今切という。
波乗り小僧の少し前に、舞阪橋跡の説明板があった。 ここには、江戸時代舞阪宿唯一の橋がかかっていた。北に西長池という大きな池があり、南側から松並木を横切って、昭和10年頃まで、綺麗な川が流れていた。天保14年の東海道宿村大概帳によると 「土橋 長7尺 横3間 橋杭4本立て弐組 土橋のため保持に難あり宿投で板橋に掛換えをした。」
旧東海道松並木を12時51分から13時04分まで歩く。徳川家康の命令で、1604年に黒松が植えられた。正徳弐年(1712年)には、馬郡村の境から舞阪宿の東のはずれの見付石垣まで、八町四十間(920m)1420本植えられた。それから400年以上たった今日、700mの間に330本が並んでいる。 右側には、十二支の彫り物、左側には、東海道の宿場のレリーフが置かれている。並木の終わりには、波乗り小僧の置物があり、説明によると「昔、遠州灘では、地引網漁が行なわれていた。魚が取れない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかった。漁師は気味悪がり、小僧を殺そうとしました。小僧は「私は海のそこに住む波小僧です。助けてくれたら、海が荒れたりするときは、太鼓を叩いてお知らせします。」と言うので、海に戻してあげた。それ以来天気が変わる時には波の音がするようになった。」
稲荷神社 永享12年(1588年)伏見稲荷より勧請下と言われてる。 赤い鳥居の向こうに石の鳥居がある。
この通りに入ると、常夜燈がいくつもあり、それが皆少しづつ違っている。11時41分のは、御堂だと思うが、扉が開いて、中には明かりがともっていた。ここで、反対方向からみえた夫婦が、「まだこれから5つつありますよ。開いているのを見たのは初めて。」と言っていた。
右側の住宅の中に、篠原一里塚跡があった。字が読みにくく、なんて書いてあるのか所々しか分からなかったが、最後に、「当時の旅人は1日に10里約40km歩いた」と書いてあった。
右手の民家の生垣の所に麦飯長者跡の標識があった。小野田五郎兵衛という長者が、旅人に麦飯をふるまったので、麦飯長者といわれたそうです。
7〜8分歩くと、堀江領境界石の道標が立っている。ここが浜松藩の松平家と堀江藩の大沢家の領地の境だったのだ。道標だけで、石は見つからなかった。(大沢氏は、堀江領5600石を領し、陣屋を構えた高家旗本であった。明治維新のどたばたに便乗し、石高を1600石と虚偽申告し、大名に昇格し、堀江藩が誕生した。その後廃藩置県で消滅するので、3年間だけの藩であった。大沢基寿は、堀江県知事になり、華族になったが、虚偽が発覚し、知事を解任され、士族に落とされた。)
民家の一角に秋葉山常夜燈が立っていた。右側に可美小学校があり、ここから、増楽町になった。その先の右側に熊野神社があり、境内の常夜燈の傍に高札場跡の標木があった。
大永4年(1524年)信濃の国の上諏訪神社より勧請したという諏訪神社があった。
右側の道の奥に、五社神社 諏訪神社があった。五社神社は、遠江国主 久野越中守が曳馬城内に奉斉し、家康は、家忠が城内で生まれたので、産土神として崇敬した。天正8年、当地に転座され、社殿を建てた。 諏訪神社は、家康が社殿を造営し、家光が現在地に転座した。両方とも国宝に指定されていたが、昭和20年の空襲で焼失し、両神社は合祀され、現在の建物は、昭和57年に再建したものである。
この前歩いた所まで行き、左折した。板屋町の交差点の向こうには遠州鉄道西鹿島線の高架が見える。高架の下に万年橋があるが、川はフタをされて公園になっていた。高架をくぐると、田町、ゆりのき通りの商店街だが、大きなビルが並んでいた。 のぼり坂になり、上りきったところが連尺交差点で、国道152号と257号が接している。東海道は左折する。 右折すると、浜松城に出られるが、私は、昔3年ほど浜松に住んでいて、浜松城は子供の遊び場のように何回も行ったことがあり、その頃は動物園も近くにあり、よく遊んだので、今回はパスした。
常夜燈の裏の空き地に行くと、史跡 引佐山大悲院観音堂の石碑が立っていた。案内板によると「この地に長く安置されていた観世音菩薩は、引佐細江の観世音といい、高さ一尺二寸五分(38cm)の立像で、定朝法橋上人真作であると伝えられる。昭和42年以来、如意寺に安置してある」 その奥の公園の中に、馬郡学校跡の標識が立っていた。
JR 2060円
バス 320円
2380円
北雁木から北に向かうと、弁天橋がある。橋を渡って、国道と合流すると弁天神社があった。大きなホテルが立ち並ぶ通りを歩いて、弁天島駅から、電車に乗り藤枝に帰った。
道の反対側に、木製の常夜燈があり、渡船場跡北雁木とあった。今切りの渡しがあったところで、江戸時代には、ここから新居宿までは船渡しとなる。舞阪側の渡船場を雁木(がんげ)といいい、往還より海面まで東西15間、南北20間の石畳になっていて、階段状の船着場になっていた。
脇本陣をでてしばらく浜名湖のほうに歩くと、夢舞台東海道 舞坂宿の道標と、西町常夜燈があった。
当時の女道中手形
街道に戻り、歩いていくと、右手の民家の駐車場に、本陣跡の石柱があった。舞阪宿には、宮崎伝左衛門と源馬徳右衛門の二軒の本陣があったが、源馬本陣の跡のようです。反対側には、脇本陣の茗荷屋堀江清兵衛宅である。ガイドのおばさんが中を案内してくれた。現在残るのは天保9年(1838年)に建てられた書院部分だけで、後は復元したものです。
左側の小路を入り、少し歩くと、岐佐神社があった。扉が開いていて、中に明かりが点っていた。おばあさんがちょこんと座って拝んでいた。。「毎月1日と15日に扉が開くので、お参りに来る。」と言っていた。(因幡の白兎の続き)という赤石があった。
宝珠院の前の両皇太神宮常夜燈
単調な道を歩いていくと、松並木が現れた。標識に、舞阪10kmとあった。今日は、舞阪までの予定なので、あと10km歩くことになる。寒いと思ってテルモスに暖かいお茶を入れてきたが、良いお天気のなり、暑いくらいで、コンビニを探した。このあたりは、若松町で、少し行くと、可美市民サービスセンターがあり、可美小学校跡があり、傍の木には、天皇皇后行幸記念樹の石碑が立っていた。
道の右側の細い道を入ると、木々に囲まれた八幡神社があった。
二の御堂は、奥州藤原秀衡公とその愛妾により平治元年(1124年)に建てられた。(京に出向いていた秀衡が、大病であることを聞き、ここまで出向いて、死去の知らせを聞いた。その菩提を弔うために北の御堂を建てた。一方、京の秀衡公は、回復し帰国の途中、その話を聞き、南の御堂を建てた。現在、北の御堂には、阿弥陀如来、地蔵菩薩、毘沙門天が祀られている。南には薬師如来、不動明王、大日如来が祀られている。)
道が右にカーブし、二又になるが、東海道は257号線で、右の方に行きます。 交差点の右には、馬頭観音、高札場跡、二の御堂がある。(馬頭観音とは、宝冠に馬頭をいただき、憤怒の相をした、八面六臂の観世音菩薩で、交通運搬、農耕にきわめて重要であった馬の供養と結合して、江戸時代に信仰を集めた。)
左側の民家の駐車場に、一里塚跡の標識があった。昔は、八丁畷とよばれた土手の上に松並木が続き、一里塚の榎は、街道を行く旅人の道標になっていた、と書いてあった。このあたりは昔は可美村といわれたところで、今は浜松と合併したようだ。
道に迷っていたので、鎧橋に着いたのは、9時27分だった。ここまでは、国道を歩くので、単調でこの道でいいのかと思うが、所々に東海道の標識が立っている。 この橋は、平安時代末期、戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めた時、鴨江寺側の軍兵が、この辺一帯の水田に水を張り、鎧を着てこの橋を守り、戦った。のでこの名前が付いた。
道は、その後右にカーブするが、国道257号線を歩く。伝馬町旅籠町交差点を過ぎると、旅籠町になる。浜松宿には、94軒の旅籠があった。その先の成子交差点の手前に 夢舞台東海道 浜松宿の道標があった。8時43分だった。 道を挟んだ向こう側には、浜納豆のお店があったが、まだ開いていなかった。(浜納豆は糸を引かない納豆で、塩辛納豆とも言われている。) 菅原町のあたりで、浜松宿は終わる。
伝馬町交差点の左に見えるのは、ザザシティ西館で、私がいる頃は西武だった。地下道を通って、道路の左側に出る。 ザザシティの前に梅屋本陣跡がある。説明板には、「梅屋家の本陣で、建坪は180坪である。国学者賀茂真淵(本名庄助)は、梅屋家の婿養子だった。」と書いてあった。
その先に、三菱東京証券のビルがあり、そこが、川口本陣跡で、説明板には、「浜松の本陣の中で、一番新しく出来た川口家の本陣で、建坪は163坪だった。」と書いてあった。
連尺からこの先の伝馬町までが宿場の中心で、本陣が6軒もあった。道の反対側の(左側)彩画堂あたりが佐藤本陣のあったところで、案内板には「建坪は225坪」とあった。
8時5分 道の左側に夢舞台 浜松宿 の道標があった。右側の谷島屋書店前に高札場跡の石碑があった。
街道に戻ると、右側に浜松信用金庫伝馬支店がある。ここは杉浦本陣跡で、説明板には、「浜松本陣6箇所の中で、一番古い杉浦家の本陣で、敷地が272坪だった。」と書いてあった。
境内に「光海霊神の碑(うなてりのみたま)」があった。 賀茂真淵大人がその師である五社神社神主森揮昌大人の功績を記したもの。昭和4年に作られるが、昭和20年の戦火により上部が損壊してしまった。 そういえばここに来る途中に森揮昌邸跡があった。
絵馬殿小路跡の標識