大宅中学校~八幡市

H.30.2.17~18

早朝家を出て、東海道線で掛川駅へ、新幹線に乗り換えて京都駅に着いた。八条口バス停で、「山科急行 醍醐寺行」に乗る。30分ほど乗り、「大宅中学校前」で下りる。9:35に歩き始める。校内に「大宅廃寺跡碑」があるというので、少し戻り学校に入っていく。校門を入ると、正面に碑があった。白鳳時代の寺院跡で、藤原鎌足が建立した山階寺との説もあり、古代史上注目されている遺跡である。寺域の下層からは、古墳時代の竪穴住居跡や建物跡が発見されている。南向かいの丘陵の竹林から、当時の瓦を焼いた窯跡が見つかっている。

納所交差点に戻り、淀駅に向かう。駅手前の「淀本町商店街」を歩き城にむかう。與杼神社は応和年間(1961~4)桂川右岸の水垂町に淀、納所、水垂、大木津の産土神として祀られ、水上運輸の守護神として崇敬されていたが桂川河川敷拡幅工事で、明治33年に移転・移築された。拝殿は慶長12年の建造で、重要文化財

宇治川の堤防に上り、草むらの道を歩くと、宇治川に注ぐ新高瀬川に遮られる。少し遡って人道橋を渡る。高瀬川は、慶長16年(1611)角倉了以が資材運搬用の水路として開削した川で、森鴎外の「高瀬舟」の舞台ともなった。第二京阪道の京都南大橋をくぐり、宇治川大橋の北詰を何とか渡り(交通量が多く、横断歩道がない)堤防上を進む。右側の工場地帯を京阪本線が走る。千両松踏切を渡り、左折して京阪に沿って進む。松並木は昭和10年頃まで残っていたようです。

街道に戻り進むと右側に西岸寺がある。境内には油掛地蔵尊を安置している。山崎の商人が油を入れた桶を門前で転んでこぼした。残った油を地蔵に掛けて帰ると大長者になった事から、多くの人がまねて油を掛けて願掛けするようになった。中を覗くと、真っ黒に光ったお地蔵様が安置されている。境内には芭蕉句碑がある。「我衣は ふしみの桃の しずづくせよ」

小学校では、野球部の練習をしている。門は閉まっていたが、コーチの人に断って中に入れてもらった。小学校には、数本の道標と、明治100年の関西行幸時の記念に建てられた「明治天皇聖蹟碑」がある。「白菊の井」と言う名水が湧いている。そちらは、鍵がかかっていて、水を汲む人は登録をして札を付けないとそこに入れないようになっていた。

街道に戻り、「本因坊 碁会所」を入ると「墨染発電所」がある。今はほとんど水がなかった。

江戸日本橋から54番目の宿で、秀吉の伏見城の城下町として発展した。その後家康が商業港湾都市として整備し、淀川三十石船はじめ、水陸交通の要衝として繁栄した。中心は京橋付近で本陣4軒、脇本陣2軒、旅篭39軒であった。

道元禅師が創建したといわれる寺で、本堂には「伏見の大仏」といわれる丈六の毘盧遮那仏が安置され、道元禅師の石造なども安置されている。木像の大仏としては日本最大級の高さ約5.3mの大仏である。開いていなかったので、窓のすきまから参拝した。

坂を上りつめ左折するとJR「藤森駅」。角を右折すると、「西福寺」がある。境内には道標がある。「右 大仏、知恩院方面 」「左 伊賀、伊勢、大和街道」。京都教育大学を過ぎると、右側に藤森神社の石の鳥居が見える。桓武天皇が京都の四方の護りのために祀った大将軍社のうち、南を守護している。石の鳥居の説明板には(この鳥居には額が無い。後水尾天皇の筆による額が掲げられていたが、西国大名の参勤交代の道筋で、神社前を通る時、駕籠を下りて拝礼しなければいけなかった。幕末の動乱時代、悠長なことは時代にそぐわないと、近藤勇が外したといわれている。)また、門前の石柱には、「菖蒲の節句発祥の地」と刻まれていた。

木津川に架かる御幸橋を渡り、八幡市に入る。街道は八幡駅分岐で右折する。石清水八幡宮に寄っていく。駅前には竹でできたモニュメントがある。男山までのケーブルカーに乗って山頂駅まで行く。

信長塀

東総門

国宝・石清水八幡宮は神功皇后、応神天皇、比咩大神(ひめおおかみ)を御祭清としている。創建以来、都の裏奇問を守護する王城鎮護の神、伊勢の神宮に次ぐ国家第二の宗廟として皇室の御崇敬特に厚く、清和源氏をはじめ全国の武士が尊崇を寄せて来た。 御本殿の二棟は、最古にて最大の八幡造りであり、幣殿、楼門、舞殿、廻廊で構成されている。天正8年の織田信長の社殿修復、同17年の豊臣秀吉の廻廊再建、寛永11年、徳川家光により社殿が造営されている。本殿を含む十棟と棟札三枚が国宝に、摂社五社、総門山門八棟が重要文化財に指定されている。

淀川西岸には天王山が見える。山頂には山崎城跡、中腹には牛頭(ごず)天王が祭神の酒解神社などが見える。背割堤には約1.4km 250本の桜並木がある。

街道に戻り、直進し、美豆公民館を左折する。圓通寺を過ぎると、下り坂になる。水田地帯の先にこんもりした森が見える。菅原道真が大宰府に向かう途中に寄ったとされる涼森神社である。道真が鈴を献上し鈴の森神社になったと伝わる。美豆城跡がある。 右は京阪の工場、左の松ヶ崎記念病院を過ぎ、京阪本線のガードをくぐり、左の農道を進む。京滋バイパスを石清水大橋袂でくぐり、堤防を直進する。13号線の宇治川に架かる御幸橋を渡る。背割堤は桜の名所で、4月には八幡桜祭りで賑わう。さくらであい館には高さ25mの展望塔があり、エレベーターで上に行ける。

淀町道路元標のある交差点から下りになり、下りきったあたりが八幡市の飛び地になっている。NTTの先を右折し、又左折すると旧美豆村に入る。左折し宇治川方面に向かうと、左側に穀物を貯蔵する「浜納屋」がある。向かいは安政2年(1855)創業の木田醤油店で、味噌、醤油の小売もしている。今日はお休みで、閉まっていた。浜納屋の東側には川へ荷卸しするための石段も残り、かって木津川が流れていたことを実感できる。

淀城は、現在公園になり、石垣が残っている。淀には時代と場所の違う3つの城があった。戦国時代、妙教寺のあたりに淀古城があった。次に秀吉が茶々に与えた淀城、徳川秀忠の命により築城された近世淀城。現在の遺構は秀忠時代のものである。江戸時代の淀城は、周囲に2重3重に濠を廻らし、名高い水車が取り付けられていた。

明治天皇御駐蹕之碑

旧道は宇治川から離れるが、昔の宇治川の堤防のようである。前方に京都競馬場と競馬場への横断橋が見える。今日は開催日のようで、警備員が出ていた。右側に「戊辰役激戦地跡碑」「戊辰役東軍戦死者埋骨地碑」がある。

山本酒造「鳥せい」鳥せいは酒蔵の1棟を改装した鳥料理の店。山本本家は延宝5年(1677)に伏見七井のひとつ「菊水井」の湧く現在地で創業した。銘酒「神聖」や「松の緑」で知られる老舗である。「菊水井」の水をもらいに来る方の注意事項が沢山貼られていた。

建長寺はご本尊が弁財天で、赤い土塀と中国風の山門があでやかで「島の弁天さん」と親しまれている。付近を通る船の守護神とされてきた。朝早いので門は閉まっていた。宇治川派流域のこの浜を弁天浜という。向こう岸には、月桂冠の建物が並んでいる。門前には三宅安兵衛の遺志碑がある。「辨財天 長健寺」「京阪電車 市電 乗り場 一丁」と刻まれている。

その先の右側に「醍醐天皇御母小野陵」がある。藤原胤子の陵墓で、石段の参道の向こうに鳥居があり、綺麗に整備されていた。 その先で「京都南10」のトンネルで向こう側に行くのだが、「京都南9」まで来てしまった。トンネルを抜けると、道は高速道路から離れる。「テニスクラブ」の横を通り坂を下ると左側に「大岩神社鳥居」がある。ここから800m先に神社はある。岩屋神社と同じで、大岩と小岩を祀っている。

山科署の建物が見えたら右折する。大きな「けいさつ」の看板を見落とし、大津宇治線を直進してしまった。間違いに気づき戻った。道なりに進み「奈良街道標識」を過ぎ、小さな川に架かる橋の手前で右折する。かっては分岐点に道標があったらしいがないので、行き過ぎて戻った。左側に注連縄のかかった大きなモミノキがある。外環小野交差点を直進する。左側に「オジカソース」の工場がある。京都で初めてのソース会社である。しばらく行った先のスーパーで「オジカソース」を買い求めた。その先で山科川勧修寺橋で渡る。

伏見御坊に突き当たった。鳥羽伏見の戦いではこの辺りは激戦地であった。かって伏見御坊と呼ばれた東本願寺の別院があった。幕府の会津藩がここに本陣を置き、その戦災で損傷を受けた御堂は明治18年に建て替えられ、平成2年まで存在した。しばらくの間は山門だけが残っていたが、2014年、御堂が建てられた。門前に「会津藩駐屯地跡(伏見見御堂)」碑がある。

三十石船に漕ぎ寄せるくらわんか船
(淀川を上下する船の乗客に飲食物を売る小船のこと。)

街道に戻り、右手に「伏見長州藩藩邸跡碑」がある。この後は,今日の宿を探して、通りを歩いた。なやまち通りにある「雅風ホステル」を探す。17:00に着いた。ホステルと言うので、昔学生時代に利用した「ユースホステル」を想像したが、今風のホステルだった。4人部屋、2人部屋は2段ベッドで、カプセルホテルのような1人用のベッドもあり、バス、トイレは共同で、リビングでは、コーヒー、お茶は無料で飲め、TVもあった。

街道に戻り進むと宇治川派流に架かる「京橋」に出る。橋の手前に「伏見口の戦い激戦地跡碑」がある。橋下の流れは宇治川に注ぎ、淀川に通じている。淀川の水運は古くから交通の大動脈であった。慶長年間に、角倉了以が京都市内と伏見の間に高瀬川を開削すると、この辺りは、旅人や貨物の輸送をする船着き場として大いに栄えた。三十石船高瀬舟,柴船などがひしめき合い、数十軒の船宿が建ち並んでいた。

その先の角には「駿河屋」がある。伏見の名物は羊羹で、羊羹発祥の地でもある。店の前には「電気鉄道事業発祥地碑」が立つ。明治28年、伏見油掛から七条までの6.7kmを走った。

その先の左側に「玄忠寺」がある。「伏見義民小林勘次碑」がある。元和年間、淀川船の通行料が値上げされ、薪炭商の小林は困窮した伏見町民を見かねて幕府に直訴したが、不審死をした。直訴は成功し、通行料は元の値段に下げられた。
伏見宿

参道には「蒙古塚」があり、(昔は七つの塚があり、七つ塚と言われていた。蒙古の戦利の蒙古の大将の首を納めた。)本殿は室町時代、足利義教公が造営したといわれ国重要文化財に指定されている。

五番橋をわたると右奥の手前に念仏寺、奥に「妙教寺」がある。境内の「淀古城碑」には、「淀古城址」「戊辰役砲弾貫通跡」の文字が刻まれている。「戊辰之役東軍戦死者之碑」がある。

 千本通りとは船岡山西麓の葬送地への道に千本の卒塔婆を建てて供養したのが由来。京都市北区鷹峯から伏見区納所まで延びている。

その向かいには「金礼宮」がある。伏見の産土神で、謡曲「金札」で知られる。(1200年前、山城国に遷都された桓武天皇は、伏見の里に神社建立のため、勅使を遣わした。この時点から「金札」が降り下り、「伊勢大神宮の流れを絶やさぬため、天津大王神を祀るように」との御神託が金文字で書かれていた。謡曲「金札」は、この故事を語り、悪魔を降伏させ、もう弓矢の必要がなくなったと詠っている。境内には立派な「クロガネモチ」の木がある。

橋脚跡

神鳩 鳩ははちまんさんのお使い

本殿

南総門

天満宮を過ぎ、淀水路の孫橋を渡る。左折して川沿いを進むと、高福寺、長円寺、東運寺がある。長円寺には、「鳥羽伏見の戦い 幕府軍野戦病院の地碑」や榎本武揚書の「戊辰役東軍戦死者の碑」がある。観音堂に祀られた足立観音は、和気清麻呂の傷を治したことから足腰治癒、健康祈願の御利益があるという。

京阪淀駅の高架下に1928年に三宅安兵衛が建てた道標がある。東一口(いもあらい)の安養寺に参詣者を導くための道標である。淀三川に囲まれ、出口が西側の一か所で、「一口」という漢字があてられた。入り口に祀られた稲荷が疱瘡を洗う(なおす)ので、「ひとくちのいもあらい」これが「ひとくち=いもあらい」となった。いもは疱瘡のことで、太田道灌が娘の疱瘡治療祈願のためにこの稲荷を勧請した。現在は、太田姫稲荷神社になっている。

隣接して、城主稲葉氏の祖・稲葉正成を祀る稲葉神社がある。春日の局が寄進した。 境内には「唐人雁木跡碑」「淀小橋旧址碑」「淀城故址碑」が並んでいる。今まで見てきた碑は新しかったので、造り替えて、古い碑をここに置いたのか。

街道は納所交差点手前を左折するが、交差点の変則6差路を千本通りに行く。ここは昔の京街道である。京阪電鉄のウオーキングの人たちが大挙して押し寄せ、付いて行ってしまった。係の方のに聞くと「長岡京」へのウオーキングの人たちだった。交差点まで戻り、「唐人雁木旧跡碑」のある道に入る。朝鮮通信使上陸のために仮設の桟橋が設けられた。本来の意味の雁木(雁の形をした段がある船着き場)通信使はここから輿などに乗り換え、陸路京都に向かった。その先の「納所村道路元標」は扇を作っている家の前にあった。

淀宿は、日本橋から55番目の宿で、伏見宿からわずか5.4kmの所にある淀城の城下町で、秀吉が築城した淀城(古淀城)は伏見城造営に当たり取り壊された。淀宿は城内の3町と淀小橋で繋がった城外の3町とで形成されていた。本陣、脇本陣はなく、水陸の要衝として、問屋場、天馬所が設けられ、500隻もの淀舟の母港でもあった。

淀宿

競馬場の前辺りで、「納所煙突」が見える。のうそと読み、淀港に集まって来た貨物を収納する場所である。京阪電鉄から離れて歩いて行くと右側の小高いところに「淀小橋旧址碑」が立っている。淀小橋は淀城内と城外をつなぐ橋であった。淀は与等、与度、澱とも記され、水がよどんでいる水郷のような地形だった。

栖閘門資料館は昔の操作室をリニューアルした建物である。まだ8:00なので閉まっていた。

三栖閘門がある。戦時中の昭和4年に造られた宇治川と濠川の水位を調節した施設である。江戸時代、水運で栄えた伏見港は、明治になっても外輪船が走ったが、鉄道が開通すると舟運は衰退した。そのあとが伏見港公園で、観光用の十石船の発着所になっている。土木学会推奨土木遺産に登録されている。

橋を左折して川沿いを歩く。釣りをしている人が何人かいる。かって堤防沿いには榎が植えられていた。「伏見みなと広場」には十石船が置かれている。

駅の手前の道を右折する。道なりに進むと左奥に「金井戸神社(三栖神社御旅所)」がある。天武天皇を祀る。 宇治川に注ぐ濠川に架かる肥後橋を渡る。この辺りまでが伏見宿ではないか。三栖町に入る。加藤清正(肥後守)の屋敷に通じていた道である。

街道に戻り、京阪中書島駅に向かう。脇坂中務太輔(官名が中書)安治の屋敷があったことによる地名。伏見は水路が入り組み、多くの島があった。中書島も昔は島で、蓬莱橋で南浜と、今富橋で金井戸島と繋がっていた。ここは京都の遊郭として有名だった。駅前には三宅安兵衛遺志の道標がある。

2日目

その先の「伏見みなと公園」を入ると、川べりになり「龍馬とおりょ 愛の旅路」像が立っている。(寺田屋で襲われた龍馬は暫く、伏見薩摩藩にかくまわれていたが、右手の傷を治すため、寺田屋浜から三十石船に乗り、九州の霧島に旅立った。)

駿河屋の角を左折し100mほど行き、左に入ると船宿「寺田屋」がある。文久2年(1862)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」がある。薩摩藩士有馬新七以下9名が死亡した。坂本龍馬の定宿で、おりょうさんとの恋の宿でもある。龍馬も伏見奉行所のとり方に襲われたが、おりょうの機転で難を逃れた。鳥羽伏見の戦いで焼失し、その後再建された。見学時間を過ぎていたので、外観だけで当時をしのんだ。

カッパカントリー」がある。酒蔵・黄桜の会社である。各地のカッパを集めたギャラリーを見て、うりと茄子の奈良漬けを買った。お酒の好きな人はたまらない場所であろう。

伏見区役所の前を通り進むと、UFOのような物体が現れる。大手筋駐車場の看板である。さらに浅山眼科の交差点で右折し,油掛通りを進む。油掛け通りは日本最初の電気鉄道が明治28年に博覧会への客輸送のため運転された通りである。ちょっと寄り道して「龍馬通り」をぶらぶらする。

境内に沸く「金運清水」は平成13年に新しく掘られた井戸で、大黒天に供せられる霊験あらたかな水である。手を洗い口を漱いだ。伏見義民の墓がある。伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴した文殊九助ら7人の義民墓もある。

通称「薩摩寺」といわれた。江戸初期、薩摩藩邸が近くに置かれ、藩主・島津家の守り本尊である大黒天が祀られていたことから、藩の祈祷所とされた。境内には、西郷が建てたといわれる薩摩藩士有馬新七ら寺田屋殉難9志士の墓がある。平田靱負(ゆきえ)の墓もある。薩摩藩が幕府に命じられた木曽川三川の分流工事の遅れの責任をとった人物。

センターの前のT字路を左折し、御駕篭郵便局の通りを進むと左側に「松林院」がある。寺田屋女将お登勢の墓がある。三基あり、寺田屋関係者の墓らしい。 その前に「大黒寺」がある。今日は「京の冬の旅」イベントで非公開文化財特別公開ということで、受付をして本殿に入った。60年に一回の御開帳の秘仏・大黒天の御前立や写真を見せてもらった。学生のボランティアが案内してくれる。幕末に、西郷隆盛と大久保利通が会談をした部屋や志士たちゆかりの書や和歌を特別展示していた。

玄忠寺の先で右折して下板橋通りを進む。伏見青少年センター前に道標がある。弘化4年(1847)の建立で、「東 左りふねのり場」「南 右大津みち」と刻まれている。板橋小学校と青少年センターは尾張藩屋敷があった場所である。

角を右折して丹波橋通りを歩く。右側に本成寺、左側に勝念寺がある。本成寺には小野篁作と伝えられる木造地蔵菩薩像が安置されている。勝念寺の山門先には「天明義民柴屋伊兵衛墓所碑」が立っている。伊兵衛は伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴する計画に加わったため獄死した。境内には、釜敷地蔵尊がある。地獄で釜茹での責めに苦しんでいる人の身代わりとなって、自ら釜の中に入り、身代わりとなる地蔵様である。「かましきさん」と呼ばれ親しまれている。

その先で、24号線を渡り、直進する。最初の交差点を右折し、突き当りを左折し、両替町通りを進む。京町通りと両替町通りは家康が銀座を置き、銀貨を造らせたところで、東京の銀座より伏見の方が古い。近鉄京都線のガードをくぐると、角に「ゲベッケン]パン屋さんがある。卵焼きやたこ焼きの入ったパンなどがあり、卵焼サンドを買った。

先を進むと右側に「撞木町入口」と刻まれた門柱の先に、大石内蔵助が遊興した廓跡がある。入っていくと「大石良雄遊興地 よろつや」碑がある。その先に「撞木町廓之碑」がある。町名は、道路の形状が鐘を撞く撞木に似ていることによる。

先の交差点を左折する。左に「欣浄寺(ごんじょうじ)」がある。ここは深草少将邸宅跡で、小野小町に求愛して「百夜通い」の願掛けで99日まで通い、最後の夜に大雪のために凍死した。池のほとりに小野小町と深草少将の供養塔が立つ。「墨染井」という井戸がある。「通う深草百夜の情 小町恋した涙の水が今日も湧きます欣浄寺

琵琶湖疎水に架かる「墨染橋」を渡ると、左側に「墨染寺(ぼくぜん)」がある。琵琶湖疎水は京都の蹴上発電所から南下して伏見に入り、宇治川に注いでいる。 墨染の地名は、墨染寺の墨染桜に由来する。平安時代、藤原基経の死を悼み、歌人・上野嶺雄(かんつけのみねお)が歌を献じると、桜が喪に服して墨染色になったという伝説がある。「深草の野辺に桜し心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け」「三代目の桜」と書かれた看板があったが,どの桜か分からなかった。

坂道を下り、藤ノ森小学校を過ぎT字路を左折する。ちょうど「うどん屋さん」があり、かき揚げうどんで温まった。150mほど歩き、十字路を右折し、墨染通りを進むと、京阪本線墨染駅があり、踏切を横断する。

京街道は35号線と別れ、JR奈良線の手前にある「筆が坂」を上る。目印の寿司屋さんは廃業していて、看板も無かった。分かりにくいところである。坂は急で約200mほど行くとT字路になり、右折し、さらに左折する。左側にある天理教会前で斜め右に入りJR奈良線の跨線橋を横断する。左折して線路沿いを歩く。

その先に入ると、「仁明(にんみょう)天皇陵墓」がある。木に覆われて、どんな陵墓か分からない。

ピアノ技術専門学校の先で、府道から旧道が分岐する。細い道を入ると「華道教室」の看板を掲げた古い家がある。谷口橋を渡るとまた府道に合流し、「天皇陵石柱」「深草毘沙門天石柱」が立っている。街道を離れ、右折すると「浄蓮華院」がある。「深草毘沙門天」とも呼ばれる。

風花の舞う中、坂道を上っていくと「名神高速道路」に突き当たる。道路に沿ってあるく。京都府道35号線を歩き、「京都南12」のトンネルで向こう側に出る。坂の上に「愛宕山」道標と小さな祠がある。

その向かいに「宮道神社」がある。この辺りを本拠地とする宮道氏の始祖である日本武尊とその子の稚武王(わかたけるのおおきみ)を祀り、二所明神とも称する。「三条右大臣」の「名にしおわば 逢坂山のさねかずら 人に知られで くるよしもがな」の碑が刻まれている。

T字路左折し直進すると「光秀の胴塚」があるが、次の角を街道は右折する。左に八幡神社の赤い鳥居がある。社殿はずっと奥の方にある。八幡宮(吉利具八幡宮)は勧修寺の鎮守として応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を祀り、仁寿3(353)創建と伝わる。

突き当りが「勧修寺」で寺の名前は「かじゅうじ」で地名は「かんしゅうじ」と読む。愛宕常夜燈、道標「右 醍醐、大津方面」がある。「左京道 すべり石越 大仏」道標は文化元年(1804)建立。すべり石越とは、山科に隠棲していた大石内蔵助が祇園、伏見へ通ったという古道。カーブが多く冬は凍結して滑り易かった。 勧修寺は、昌泰3(900)醍醐天皇が天皇の母、藤原胤子追善のために創建したもので、宇治郡の大領であった宮道弥益の邸宅跡と伝えられる。秀吉が境内に伏見道を通したために分断された。

京街道続きへ

髭茶屋追分へ

14時から本殿の中を参拝することができるというので、1000円払い申し込んだ。案内の人の説明を聞きながらTVで見た信長寄進の金の雨どいなどを見学する。30分ということだったが、45分程かかり、広い境内を散策できず、来た道を戻り、ケーブルカーで下り、京阪八幡市駅から京阪電車に乗り、丹波橋駅で近鉄京都線に乗り換え、京都駅に着いた、新幹線で、掛川に、東海道線に乗り換え無事に藤枝駅に着いた。

御幸橋(ごこうばし)の親柱

伏見京橋

京都三条大橋

淀駅をくぐり、枡形の淀宿を進む。左側に「伊勢向神社」がある。競馬場の警備員が出ているT字路を右折し、コの字に歩き、きくた酒店を右折する。すぐ左側に「競走馬輸送竹内運送株式会社」の看板が目につく。

淀駅前には水車のモニュメントがある。徳川秀忠は、元和5年(1619)伏見城の廃城に伴い、寛永2年(1625)松平定綱に命じて築城した。江戸時代の淀城は、周囲に二重三重の濠を廻らし、「淀の川瀬の水車 誰を待つやらくるくると」とうたわれた水車は、直径8mもあり、城の西南と北の二か所に取り付けられていた。

伏見土佐藩邸跡碑

宇治川派流に浮かぶ三十石船と弁天橋

7:00にホステルを出て、龍馬通りを歩く。早朝でshutterの下りた伏見の町を散策する。昨日は風花の舞う寒い一日だったが、今日は天気がよさそうです。

伏見の酒蔵街・桃山丘陵から湧き出る地下水に恵まれ、かって「伏水」とも呼ばれ、お酒造りに適していたことから、400年程前に本格的な醸造がはじまった。黒い板塀と白壁が美しい。「月桂冠大蔵記念館」はまだ開いていなかった。

ホステルの1階はレストランになっていて、しゃれた名前のサラダとチーズリゾットをいただいた。部屋に帰って、昼間買い求めた「卵サンド」も食べた。

三栖閘門

江戸時代の豪商・大坂淀屋の高灯籠