八幡市~寝屋川市
H1.30.3.3~4
早朝家をでて、東海道線、新幹線を乗り継ぎ、京都で近鉄京都線に乗り丹波橋駅で、京阪に乗り換え、八幡市駅に着いた。9時25分に歩き始める。駅前の観光案内所で八幡市の地図をもらう。八幡市では「まちかど雛まつり」が行われていて、市松人形や、お雛様が飾られていた。 「エジソンの像」が立っている。こんなところにエジソン像っておかしいが、エジソンが発明した白熱電灯のフィラメントに八幡男山の竹(マダケ)が使わらたからだ。石清水八幡宮にもエジソン記念碑がある。
「天満宮遥拝所」は蹉跎(さた)神社の遥拝所である。菅原道真が筑紫大宰府配流の旅の途中で、立ち寄った場所である。道真の息子達は全国各地に配流され、妻も娘も同行が許されなかった。娘の苅谷姫は父を追ってここ(蹉跎神社)まで来たが、道真はすでに去った後で、姫は蹉跎(あしずり)して悲しんだ。
蓮如は病んでいた虫歯がここで抜け落ち、「夏はきのふけふ秋きりの一葉おちて身にしみてしる なむあみだぶつ」と詠み、境内に自筆の歌碑がある。その先に「蓮如腰かけ石」がある。「親鸞聖人 蓮如上人御田地」の碑が建つ。村人たちに講和した場所とされる。
見附から淀川の土手方向に向かう。右折すると、「郵便屋の渡し跡」がある。明治時代、対岸に鉄道が開通し、淀川左岸の郵便物を渡し船で右岸の高槻に運んだ。「郵便屋さん走りんか もうかれこれ12時やで」と刻まれている。ここから、鍵屋の裏手が良く見えた。
常念寺の前は本陣を守る枡形になっている。寺の脇を直進すると、「淀川舟運、平方浜(問屋浜)跡の案内板がある。(通行手形を持つ特権川船のことを過書船と称し、享保初年には乗客を主とした三十石船671艘、貨物輸送の二十石船507艘が大阪と京・伏見の間を航行していた。元禄11年には、伏見船の営業が認められた。三十石船は船頭4人、乗客28人で、伏見から大阪は半日から,半夜、上りは、綱を引いて船を曳きあげる為1日を要した。)舟番所があり、かってはここが川岸で、一日に数百もの船が着いて賑わう浜だった。
、隣接する「百済王神社」は、百済国王を祀る。(牛頭天王を合祀633年、百済国は新羅・唐連合軍に敗れる。最後の王義慈の子、善光は亡命し朝廷から百済王(くだらのこにしき)の姓を与えられた。子孫の百済王敬福は、宮内卿,河内国国司となり、ここ中宮に住み、百済寺を建てた。交野ヶ原は百済の渡来人との関係が深い。
磯島交差点から左の旧道に入る。磯島茶屋町と言うのは、街道を往来する旅人相手の茶屋があったからである。禁野村は桓武天皇以来歴代の天皇の御狩場であった。日野橋を渡り進むと、左側の線路沿いに「開通記念碑」がある。その先に地蔵堂がある。天之川町集会所の先に一里塚があるはずだが見つからない。
その裏手には「片埜神社」がある。境内には赤鬼のお面がある。鬼は片埜神社の守り神とされ、絵馬や御朱印にも描かれている。本殿は慶長2年豊臣秀吉の命で片桐且元が再興した、国の重要文化財である。
ちょうど12時になったところだったので、樟葉モールのフードコートで「きつねうどん」を食べ、しばらく休んだ。余りに大きい施設で、、迷ってしまった。案内板まで戻り、左折して、京阪線路をくぐり、国道13号線に出る。左側に樟葉の駅が良く見える。右側は樟葉パブリックゴルフコースで数人の人がゴルフをしていた。鉄柱に乗って柱を組み立てている人がいる。送電線の鉄柱は、こういう風に人が組立建ているんだと感心して見てしまった。
旧道は放生川の樋門で途切れる。小金井踏切で京阪を渡り向こう側に行きたかった。橋本駅の見える踏切は小金井踏切ではなく、踏切を探すうちに、京阪に沿った道を歩いてしまった。線路の向こう側に「楠葉台場跡史跡公園」の広大な広場が見えてきた。
暫く古い街並みを歩き、左の細い道に入っていくと、(迷った)小金井地蔵(水嫌地蔵)が祀られている。地蔵を祀るようになってから淀川の水害が無いという。
「食らわんか舟」を人形を使って再現している。また、二階では、和紙の雛人形をてんじしてあった。
隣に御殿山生涯学習美術センターがあるため、この坂道は「御殿山アート坂」と言われている。神社には絵馬が数枚奉納されていた。
穂谷川の上に建っている牧野駅の手前の踏切を渡る。街道は駅の中を通って穂谷川の向こう岸を歩くが、何もないので、京都銀行の前を通り牧野公園に行く。公園には「阿弖流為母禮(あてるいもれ)首塚」がある。蝦夷のりーダー阿弖流為を坂上田村麻呂が処刑したのがこの地であるという。
向こうの方に鵜飼仁和寺大橋が見える。橋の下をくぐって向こう側に出る。しばらく歩き「仁和寺神社」に寄るため左折して土手を下りる。国道1号線を横切りしばらく行くと「バス停」がある。寝屋川市駅に行けるバスで、ちょうどバスが来て乗りこんだ。14:42のバスで、寝屋川駅には15:05に着いた。京阪電車に乗り、丹波橋駅で近鉄京都行に乗り換え、京都から新幹線、東海道線で家に着いた。
神社の奥に鳥居があるがこれは赤穂浪士の1人村松喜兵衛の子孫が寄進したものである。その奥には、若宮八幡、茨田蛇の池碑がある。神社の西側,赤井堤まで茨田蛇池が広がっていたが、昭和51年に埋め立てたことが記されている。
木屋揚水機場を過ぎると「赤井堤記念碑」がある。赤井堤は、枚方・寝屋川市境を流れていた赤井川の堤防。明治18年に起きた洪水は、大阪市内の大半が浸水する被害をもたらし、赤井堤も含めて多くの堤が決壊した。その時の惨状が漢文で刻まれている。
踏切を渡ったところは、「問屋場跡」で、「伝馬所と郷蔵」の説明板がある。(この付近には伝馬所と郷倉があった。伝馬所とは人馬の継立をするところで、郷倉とは納付前の年貢を一時的に保存する建物である。)そのそばに片山珍古堂という古道具屋がある。
「塩熊」の看板を掲げたお店がある。
羽田家 元医者
道標の所に出た。岡本町公園で街道に戻る。枚方宿の案内板があり、通りを直進して趣のある街並みに入る。
旧拝殿
この角を右折し、道路を横断すると、左に「岡本町公園」がある。「京街道と枚方宿」の案内板が立っている。ここで、今日泊まる宿に電話して、位置を聞いた。駅の向こう側ということで、枚方駅に向かい、教えられた道を行くとあった。今日も今風のホステルに泊まる。4時30分に宿に着いた。受付を済ませ、夕食を食べに外に出た。
枚方駅への道を過ぎると「枚方橋の親柱」がある。製油業を営んでいた角野宗左の屋敷があり、四つ角は「宗左の辻」と呼ばれた。交野方面への分岐点で道標が立ち、磐船街道が分岐している。この角に紀州藩の「七里飛脚」があった。
枚方渡し口
京阪 牧野駅
道標の手前を左折する。昭和33年まで、橋本は遊郭として賑わっていた。細い道が入り組み、古い街並みが残っている。
その前に「二宮忠八飛行機工作所跡」の看板だけが残っている。(忠八は慶応2年に愛知県八幡浜市に生まれ、少年時代には、自身考案の忠八凧がよく上がり、評判でした。)と書かれていた。川から少し離れた細い道を進むと、右側に「八幡宮常夜燈」がある。
その先の左手に大きな柿の木がある。樹齢700年以上の柿の木で、石碑が立っている。石碑には「柿の木 家の傍らに自生していたので 人々は姓を呼ばないで 柿木氏と呼んだ。 柿木家」柿と言う字は木へんに欠みたいな字で何と読むか分からないが、柿と同じという人がいる。風人社のガイドブックでは栃ノ木となっていた。そういえば、この木の傍の家の表札に「柿木」と書かれていて、珍しいなと思った。
右側に「船宿・鍵屋」がある。現在は「鍵屋資料館」として公開されている。江戸時代は、淀川往来の船を待つ「船待ち宿」を営んでいた。近世以後は料亭。料理旅館として平成9年まで営業していた。枚方宿に係る古文書や出土品、模型、民俗資料を展示している。
突き当りを左折し進み、踏切を渡り、三栗(めくり)交差点を直進し、三栗南国道13号線に出る。京阪に沿って進むと踏切を向こう側に「二号国道標識」が少し傾いて立っている。高麗橋からの距離が「六里」と彫られている。「御殿山駅」の向こう側から坂道に入り「御殿山神社」を目指す。観音寺境内にあった粟倉神社のお旅所が起源である。御殿山の名は、江戸時代初期に領主永井伊賀守がこの山に陣屋を設けたことから呼ばれるようになった。
公園の前には「清岸寺」があり。寺の前に「右京道」と刻まれた供養仏があるというが、どの仏さんか分からなかった。公園を回りこむと「片埜神社」の立派な鳥居があった。その後、細い道を進み馬場前橋を渡り阪今池公園を過ぎるまでは道はあっていたがその後間違ったらしく「片埜神社鳥居跡」や「常夜燈」の所に出ることはなかった。
街道は線路の向こう側に行くが、反対方向に向かう。右側に「走井餅」老舗がある。前回「鳩もなか」を買った。店先には「今日は、ひな祭り 桜もち草餅を食べる日です。」の張り紙があった。その先に「石清水八幡宮の一の鳥居」が見える。
淀川左岸幹線水路を渡ると「松ヶ鼻地蔵尊」が祀られている。堤防の下の道を歩く。
淀川新橋をくぐると「茨田樋遺跡公園が見える。淀川から取水した明治38年に造られた8つの桶門のひとつ。その遺構を公園に整備した。桶門とは用水の取入れや内水の排水、あるいは洪水時に詩支川や水路への逆流を防ぐための施設。河川敷では走ったり、歩いたりしている人の列ができている。台上でメガホンをもって激励している3人組がいた。「よしもと芸人たちとLet'Run!]と書かれている。
街道に戻り、土手道を歩く。左手に「茨田堤碑」がある。碑には「日本書紀に茨田堤の築造は、仁徳天皇11年とあり、河川堤として本邦最初のものである。」と記されている。流れが早くて堤がきれてしまう為、人柱に武蔵強頸と茨田(まんだ)ころもこが選ばれ、ころもこは機転を利かせ助かったという。その先に「段蔵のある家」が見える。二段 三段と高くなり、水害への備えである。
水生生物センターの裏に二十箇用水普通水利組合碑がある。文禄堤ができて、洪水は防げるようになったが、堤の南に流れていた淀川分流が絶たれ、周辺の村では農業用水が取水できなくなり、設けられた。この角で左折し堤防を降りる。国道1号を横断して「鞆呂木神社」に向かう。
橋の下に「水と歴史のふれあい広場(水面廻廊)」が見える。この手前で右折する道があったが、橋を渡ってしまった。ループ状になった道を行くと「枚方大橋南詰」に出た。道は間違ったがここを直進して、住宅街に入る。道なりに進み、「伊加賀西バス停」の道を横切り、伊加賀スポーツセンター、伊加賀小学校を過ぎ、出口ふれあい広場横の細い道に入る。右手に 光善寺(出口御坊)がある。
通りを挟んだ向こう側に明治18年の「洪水碑」がある。河川敷には人が押し寄せている。老若男女、ベビーカーを押した家族連れまでいて、何事かと思い警備の人に聞くと「寛平さんのマラソンがある。」という。枚方中の人が押し寄せてくるような勢いで、人並みに逆らって街道に戻る。ここから、江戸時代の旧道が明治18年の大洪水で消滅してしまっている。出口村の集落を通る道を歩く。
その先で「西見附」となり、枚方宿を出る。(江戸時代、多くの外国人が枚方宿を訪れた。ケンペル シーボルト、アーネスト・サトウなどで、枚方の様子を記録している。シーボルトは「枚方の環境は非常に美しく、淀川の流域は私に祖国(ドイツ)のマインの谷を思い出させる。」と想起している。)
江戸時代の町屋「主屋」と昭和の初めに建てられた「別棟」の建物がある。
街道に戻る。ここは当時の泥町村通りで、右側に問屋役人「木南喜右衛門家」の建物がある。屋号は「田葉粉屋」で、くらわんか船の茶舟鑑札を所持し、宿駅と村の運営に大きな影響力を行使していた。建物は明治時代のもので、長い間口に出格子、虫籠窓の伝統的な造りをしている。
角を右折すると、浄念寺があり、「浄土真宗と枚方寺内町」の説明板がある。(明応4年(1495)蓮如上人の弟子・岩見入道浄念の開基の寺を中心に寺内町を造っていた。枚方上之町を中心に台地上にあったが、本願寺の勢力低下と共に、衰退し、淀川沿いに枚方宿が形成される。本願寺は東西に分裂し、東本願寺は枚方に再興した寺院に願生坊の名をあたえ、西本願寺も浄念寺を本所兼帯所として特別な扱いを下。地域の人は、東御坊、西御坊と読んでいた。)
京阪の線路に沿って細い道を行くと小高いところに「台鏡寺」がある。石段を上っていく。境内の地蔵尊は「結縁地蔵」として古くより枚方宿の遊女たちの参詣で賑わった。夜歩き地蔵ともいわれ、夜中に修行に出かけ、足や衣の裾が汚れて破損しているのでこの名がある。
いつの間にか、京阪の踏切を渡ってしまったため、また踏切を渡りなおして、「大降寺」「願生寺」に行く。大降寺には、「伏見宮日置承王御宿跡」碑や「法華宗興降学林校跡」碑が立っている。
もう少し石段を上ると「意賀美(おかみ)神社」がある。明治3年の廃仏毀釈以前は奈良時代創建の万年寺があった。意賀美神社は淀川の鎮守として通航と水害拝除の祈願のため創設された。淀川の河川敷が良く見え、走っている人たちも見えた。
教会の先まで戻り、左折して細い道を進むと、御殿山の石段が現れる。御殿山は万年寺山といい、標高30mの高台で、ここに秀吉が家臣の枚方城主・本多政康の娘・乙御前のために茶屋御殿を建てた。その先に梅園があり、今日は「梅まつり」ということで準備が始まっていた。
高台にあるため、枚方の町が見渡せる。先ほどの教会の尖塔も良く見えた。
街道は、京阪電車で分断されているので、岡本町公園に戻り、京阪を越えて一乗寺へ向かう。岡村元井戸跡があるはずだが、わからなかった。坂を上りカトリック教会の前を通り、更に進むと樹齢500年の大きなムクノキが聳えている。(枚方田中邸の椋・ムクノキは葉がざらざらしていて、鋳物師のあるところにムクノキありと言われる。田中家は代々河内鋳物師として、鍋、釜、梵鐘を制作しており、この木は枚方金屋のシンボルであった。樹高22m、幹周り5.4m)
「歴史的景観建造物位置図」がある。その先の「デイハウスわくわく」の建物にも「まちなみ景観建造物」の金属の札が貼ってある。
その先の三矢公園前には「明治天皇聖蹟碑」があり、中には本陣跡がある。明治13~21まで北河内郡役所が置かれていた。枚方宿は本陣が1軒で、池尻善兵衛が勤めた。紀州藩は枚方宿を定宿とし、ベトナムから来た象の枚方に宿泊した。その先に道標がある。「すく国道二号路線京道 左枚方街道渡場」枚方街道は明治の国道2号線でここが起点であった。
昔懐かしい「凍氷」の店がある。向かいの専光寺の隣には「高札場跡碑」がある。その先の右手に「くらわんかギャラリー」がある。享保年間から続いている塩熊(塩屋)の建物。まだしまっていたが、その前にいたおばさんが「あなたたちも走るのか」と聞いてきた。淀川の河川敷に沢山のテントが張られ、今日はマラソン大会があるようです。
左側に「妙見宮の常夜燈」が建つ。高さ2.8m、嘉永7年(1854)建立。妙見宮とは、大阪府豊能郡能勢町にある日蓮宗の霊場で、妙見山の山頂付近にある。最初歩いた時は見つけられなかったが、常夜燈向かいの細い道を行くと「岡村の下井戸」がある。この辺りの井戸水は金気が多く万年山や別子山丘陵に取水の元井戸を掘り、上中下の井戸に水を引いた。
右側に明治時代創業の「北村みそ本家」「呼人堂」がある。呼人堂では、いろいろなどら焼きを売っていて、栗入り、餅入り、あんこの3種類を買い求めた。通りには「まちなみ景観建造物」と書かれた札を付けた家があちこちにみられる。
目印が無いので、また道に迷い、ここの人ではないという方に道を聞いた。多分と言って教えてくれたように細い道をたどっていくと荒れ果てた「百済王神社」が現れた。お守りする人がいないのだろうか。急な坂を下りていくが、よくこんな斜面にと思うくらいの所にたくさんの家が建っている。
百済寺は、8世紀後半、日本に亡命した百済王族の末裔の百済王氏が、一族の氏寺として建立した。現在は史跡公園となっている。
寄り道して、百済王神社に行こうと、昨日1里塚が道からなかった「天野川町集会所」まで戻る。こちらからだと右折して歩き始める。しばらく歩き、右折して、県道144号線に出る。左側に「御狩場神社」右側に「真光寺」「浄蓮寺」を過ぎ、枚方市民病院を過ぎて右折するが、行き過ぎたようで、目指す明倫小学校が出てこない。道を聞きながら進むと、警備員がいて、そこが国特別史跡「百済寺跡」だった。
今回の宿は、ビルの5階に二ある「ゴーエン・ラウンジ&ステイ」という今風ホステルで、1階は開店予定のパン屋さんだった。「乃が美はなれ」食パン発祥の店と書かれていた。全国展開している食パン専門店で1斤432円の食パンが一日20000本売れるという。6時45分に歩き始める。
2日目
見附跡を右折すると、左側に「問屋役人の家」がある。小野平右衛門(屋号=八幡屋)である。小野家は江戸中期より、村年寄りと問屋役人を勤めた。現在の建物は幕末のものである。長い間口と出格子、漆喰塗の連なる虫籠窓の伝統的な建物である。その先の「浄光寺」付近には一般の人が利用した「町飛脚」と「郷蔵」があったが、今はその痕跡はない。
東海道56番目の枚方宿は、「岡新町村・岡村・泥町村・三矢村」の4ヶ村で構成された特異な宿駅として成立した。岡新町の東見附から泥町の西見附まで淀川と平行に1477m(13町17間)あり、三矢村を中心に本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠67軒であった。京都と大阪の中間にあり、淀川の京都伏見と大阪八軒屋浜を結ぶ三十石船(船頭4人、乗客28人)の寄港地として繁栄した。
橋を渡り直ぐ左折すると、「歴史街道の石」がある。「←枚方宿東見附」と刻まれ、←通りに進むと「東見附跡」の説明板がある。江戸時代には橋は無く、紀州候が通行するときには仮橋が架けられた。カササギ橋は当時より100m下流に架けられた。枚方市内の京街道にかかる天野川、船橋川、穂谷川は川幅が狭く、水量も多くないので、渡しをする必要がなかった。天野川は川越人足がいて、必要な時に利用されていた。
細い道をでると突き当り、左手に天野川に架かる鵲橋が見える。四条畷市を源流とし、淀川に合流する天野川は、川の流れが美しく、古くから天上の銀河とみなされ、いつしかこの川に橋が架かった時、天の川のかささぎの群れが集まって橋となり、牽牛と織姫との橋渡しをするという七夕伝説にちなみ、カササギ橋と呼ばれるようになった。橋を渡ると「旧橋桁」「旧橋親柱」がある。
その交差点には「交野天神本殿」「継体天皇樟葉伝承館」の案内板があった。交野天神社は、延暦6年(787)桓武天皇が天神を祀ったのが起源。祭神は父の光仁天皇で、天児屋命(あめのこやねのみこと)も合祀されている。社殿は重要文化財。6世紀初めに、武烈天皇に後継者がおらず、天皇の遠い親戚の継体が,大伴金村、物部あらかいらに迎えられて即位した。「磐井の乱」で朝廷軍と九州連合軍は1年半も戦闘したが、それを乗り切ったのが継体天皇だった。その偉業に、父光仁天皇の功績を重ね、継体天皇即位の地に父を天神として祀ったのが交野天神社である。
京都守護職・松平容保の建言にもとづき、外国の脅威や尊王攘夷派の活動から京都を守護するため、慶応元年、淀川左岸に江戸幕府が造営した、台場跡がある。稜�堡式構造を採用し、京街道を台場に取り込み、関門を設置した。幕末の軍備を知る上で貴重である。 左に下がる道があり、そちらに行き、京阪をくぐる。楠葉取水場がある。この辺りから道が黄色になり、汚水のマンホールに菊の花があしらわれている。枚方大菊人形展が100年近く開かれていたが2005年にその歴史を閉じた。
街道に戻り、御幸橋を渡ってすぐの角を向こうから見ると右折する。山彦児童公園を過ぎると木津川沿いになり、京阪電車に平行して進む。向こうの方に高くそびえる木が見えてきた。樹齢千年近い楠の大木で保存樹であるが、傍にいたおじさんが突然話しかけて来た。「この木は木津川と宇治川の間にある「背割堤」に移植される。1億数千万円かかる。馬鹿な話だ。」「不当な移植絶対反対」の文字がガードレールで揺れている。もう工事は始まっていた。背割堤で根付くことを祈るばかりです。
二宮忠八は、ライト兄弟に先んじて飛行機の実用化を試していた。大阪の製薬会社に勤めながら、八幡に建てた製作所で試作を繰り返した。ライト兄弟が1901年に人類初飛行に成功すると、製作をやめた。神社に併設された資料館には、「玉虫型飛行機」や自筆の資料や写真、晩年の幡画や幡詞が展示されている。境内には、大阪湾から漁網に.かかり揚げられた零式戦闘機のプロペラが、神社入口にはF104戦闘機のエンジンが展示されている。
先を進むと左側に「飛行神社」がある。日本で最初に動力飛行機を飛ばした「二宮忠八翁」が自宅内に私財を投じて創建した神社である。現在の建物は平成元年に、飛行原理発見100年を記念して、建て替えられた。祭神は、古代の空の神・饒速日命(にぎはやひ)と忠八の家業ゆかりの薬祖神。
橋を渡り、細い道を進むと左側に「淀屋辰五郎旧居跡」がある。大阪の豪商で、淀屋の五代目。宝永2年(1705)驕奢な生活が町人の分限を越えたものとして罰せられ、八幡市に隠棲した。墓は神応寺にある。道を戻り、細い道を右折しすすむと「八幡行宮跡碑」と道標がある。
左側の大谷川沿いが公園になっていて、「能蓮法師」の歌碑がある。「石清水清き流れの絶えせねば 宿る月さえ 隈なかりけり」平安後期の歌僧で、石清水八幡宮の歌合わせで詠んだもので、千載和歌集に収められている。その先の「安居(あんこ)橋」(たいこ橋)を渡る。直進する道は「東高野街道」で高野山に通じている。江戸時代には平橋であったが、鳥羽伏見の戦いで焼失し、太鼓橋として再興された。
帰りは、神社の鳥居のある方から降り、天野川の禁野橋を渡り、枚方市役所の先で左折し、「百済王神社」に寄る。左折すると、「都山流尺八発祥の地」と書かれ、「流祖都山邸跡」の石碑が立っている。(京都に居を移した後、宮廷の庭には全国の門弟から奉納された燈籠、鳥居、が残された。これ等を移設し発祥の地として保存している。)
車の通りの多い13号線を進み、樋之上北信号を直進して、樋之上信号のすぐ先の公民館の前で左斜めにはいる道を進む。住宅の中を200mほど行くと、船橋川の土手にぶつかる。激流で橋が流され船橋になったのが川の名前の由来。旧道は直進するが現在は橋が無いので、右に迂回し楠葉橋を渡り、土手沿いを戻り旧道に復帰する。地蔵の祠の脇に、戊辰戦争の供養塔がある。道標には「橋本へ一里 北京五里 南大坂六里」と刻まれている。ここが京、大阪の中間点で一里塚があった。現在は見当たらない。
街道を進み、「長福寺」には道標を兼ねた供養塔がある。「京街道」標識を右折し、京阪の前で左折し、進むと,樟葉モールに出た。
稲荷神社を過ぎ、橋本交番を過ぎる。京阪橋本駅への交差点に「左り八まん宮 いせ 京伏見」の道標がある。鈎型に右折すると淀川の土手にぶつかる。 土手の手前に橋本の渡しの道標「柳谷わたし場」がある。対岸の山崎と橋本、京街道を結ぶ重要な渡しだった。橋本は京・大阪間の淀川交通の中継点で、多くの旅人、参詣者、物資が行き交った。
大谷川を渡り、西山本公園を過ぎると、常夜燈がある。妙見宮のもので、向かいには道標がある。「右八まん・・・・」読めない。