寝屋川~守口

H.30.4.22

昨夜は伏見に泊まった。京阪中書島駅から電車に乗り、寝屋川市駅で下りる。前回乗ったバスに乗ろうと、バス停に行くが、目指すバスはあと1時間くらい待たないとないことが分かった。そのバスの運転手さんが「仁和寺行のバスがあることを教えてくれた。そのバスに乗り、「仁和寺」で下りた。前回乗ったバス停ではないので、いろいろな人に聞いたが「仁和寺神社」の場所が分からない。最後に聞いた方の言う通り行くと守口市に入ってしまった。

守口宿

街道に戻り、右折すると「問屋場」「本陣」がある。本陣跡は今は駐車場になっていて、説明板がある。(守口宿の道路の幅は2間半(約4.6m)定められていたが、ここは16mもある。この場所が大阪、枚方への人馬継立てや、荷物の受け渡しをするところだったからです。)と書かれていた。

「菅相寺」に出る。佐太天神宮神宮寺として平安中期に建てられた。本尊は行基、または菅原道真の作とともいわれている。境内には本堂、庫裏、地蔵堂、石製露盤永井伊賀守の碑などがある。本堂は市内の仏堂建築では最古のもの。

左側に「文禄堤」の説明板がある。(文禄堤とは、秀吉が文禄5年(1696)に、毛利輝元、小早川隆景、吉川広家などの毛利一族に造らせた淀川の堤である。秀忠の東海道57次延伸は、この文禄堤を利用した。全長27kmの文禄堤はほとんど消滅し、守口宿の堤ノ町の高台に面影を残している。

その先の左側には「盛泉寺」がある。慶長11年(1606)教如上人が開いた東本願寺の末寺。明治天皇聖蹟碑がある。大久保利通の大坂遷都の建議で、慶応4年3月、守口宿に明治天皇が行幸された時、ここに内侍所(賢所)を設けた。(内侍所は三種の神器の神鏡を安置するところ)一瞬だが、大阪に遷都されたことになる。 隣は問屋役・吉田為太郎の屋敷跡ということだが、何のシルシも残っていない。

その先に「佐太天神宮」がある。菅原道真が大宰府に流される途中に荘園であった当地に滞在した。自作の自画像や木像を残された。道真公の死後50年の天暦年間に道真公を慕って祠を建てたのが始まり。現在の社殿は、永井尚政、尚庸父子や淀屋辰五郎手厚い保護や支援を受けて建てられた。道真公はここで赦免の沙汰を待ったところから「佐太」と言う地名になった。境内には「明治天皇駐輦遺跡」の碑や戎社もある。

道を渡ると「難宗寺」がある。盛泉寺が東御坊で、難宗寺は西御坊と呼ばれている。境内には25mを越す「大イチョウ」が聳えている。推定樹齢約450年で、大阪府の天然記念物に指定されている。老齢のため、葉が小型化していると書かれていた。本堂の前には写真が数枚飾られている。秋の紅葉の季節に写真で、子供たちが境内いっぱいに敷き詰められた黄色のイチョウの葉の絨毯の上で遊んでいる写真だった。

大坂 高麗橋へ

枚方宿へ

街道に戻り進むと右側に「かさと丁ちん」と書かれた店がある。今日は閉まっていたが、まだ営業しているのだろうか。屋根に鐘馗さんが乗っている。「川東傘提灯店」で現在でも営業していて、提灯の家紋を入れるこの道50年の御主人が頑張っているそうです。

本町橋の下には水は流れておらず、道路である。明治の河川改修で、堤の意味がなくなり、両側をつなぐため堤防が切られ橋が架けられた。この橋を下り、「守口市駅」に向かう。まだ12時30分だが、今日はここまでにする。京阪、近鉄、新幹線、東海道線と乗り継ぎ、家に帰った。

漆喰壁の古い街並みが続く。虫籠窓卯建のある家もある。まだ営業している「みよし写真館」は昭和22年創業の重厚な建物である。その先に復元された「高札場」がある。

八島交差点で斜め左に入るが、交差点の向こう側に「江戸川乱歩居住跡」があるというので、向こう側に渡る。桃町緑道の入り口に「→江戸川乱歩居住跡」の道標があるが、見つけられなかった。道行く人に聞いても知っている人はいなかった。江戸川乱歩は当地に5年ほどいたが、引越魔でその間に5回ほど引っ越しているそうです。住居跡の説明板が塀に埋め込まれているそうです。守口市の江戸川乱歩の足跡を調べている方のホームページを見ました。

向かいには、大塩平八郎が農民たちに出張講義をした白井家跡がある。マクドナルドの駐車場に「大塩平八郎ゆかりの書院跡」の説明板があるのみである。白井家は宿の村役人を勤めた名家で、良田や米蔵を持ち、屋敷も豪勢だった。と書かれている。白井孝右衛門は、大坂奉行与力で陽明学者の大塩平八郎と師弟関係にあった。天保7年の大飢饉で大坂でも餓死者が続出した。奉行所は救済策をとらず、かえって大量の米を江戸に回送したため、米を買い占めた豪商は暴利を博した。天保8年大塩平八郎は門人や近辺の富農らと挙兵した。これが大塩平八郎の乱である。大塩は自殺、白井孝右衛門は処刑された。

その先の角に自然石の道標がある。今は十字路になっているが、かっては曲尺手(かねんて)で、東方向への道は明治の終わりにできた。向かい側の角には4つの石造物が立つ。道標は「すぐ守口街道」「すぐ京街道」ほかに「御行在所「御仮泊所」と刻まれている。前者は明治天皇が慶応4年に大坂行幸で宿泊し、後者は明治43年に皇太子時代の大正天皇が宿泊された記念に建てられた。

境内には、守口市指定の保存樹林があり、中には樹齢400年の木もある。木に囲まれて、「内侍所の跡」碑が立っている。

国道1号線を越えると、四辻に]「瓶橋の親柱」があり、ひらがなと漢字表記の2本が残っている。橋の名前は「口を守ること瓶のごとし」=「発言は慎重にするべし」ということに由来する。嘉永元年(1848)村人が私財を出し合って石橋にした。今は川はない。

守口宿は、元和2年(1619)に宿場として指定された。大阪に近いために、馬継ぎは無く人足だけで、枚方宿が大阪までを担っていた。宿泊する大名も少なく、本陣も小休み本陣としての利用が多かった。守口の名物は守口漬で発祥の地であるが、今は作っておらず、名古屋の名物になってしまった。本陣1軒、旅籠27軒、

京街道・八雲の道の道標がある。この辺りの京街道は府道155線を縫うように交差する。なんとか地図通りに歩きたいが、それてしまう。「やしまうどん」で右に入り、しばらく行ってまた155号にもどる。白はと食品を右に見て155号に出る。そのまま道を渡り、しばらく行くと「一里塚跡」の石碑がある。(旅人の守口への目印)と書かれていた。守口宿の「上の見附」に当たる。

センターの前の道を進み、右に入る道が分からず、また迷った。なんとか「八雲北公園」を見つけ、人に道を聞きながら「正迎寺」を見つけた。西本願寺の末寺で、創建は観桜元年(1350)。京街道の道標がある。「←旧守口方面 →旧大庭方面」と刻まれている。正迎寺の南に「智眼地蔵尊」が祀られている。

土手の下には、八坂瓊(やさかに)神社がある。七番村の産土神で、牛頭天王社。かっては鬱蒼と樹木の茂る神域だった。鳥居は天明元年(1781)のもの。

鵜飼大橋をくぐると、庭窪浄水場に沿った道から側道を左に折れる。その先に「庭窪レストセンター」があり、トイレを借りて休んだ。この辺りに「七番の渡し」があった。摂津市一津屋と守口市大庭を結び、「一津の渡し」ともいわれた。一番から11番までの番号が付された村名が全国的にも珍しい。開拓の順序を示しているといわれている。

河川敷では、大勢の人がスポーツを楽しんでいる。今日もマラソン大会が開かれているらしい。大場浄水場、庭窪浄水場、守口浄水場がある。前方に鵜飼大橋守口ジャンクションが見えてきた。並走する大阪モノレールは大阪空港と門真市を結んでいる。

佐太天神宮に戻り、正面の参道を歩き、国道1号線を渡ると、淀川の土手に出る階段がある。その手前に「佐太渡船場」道標がある。「出水十二尺以上暴風渡船中止」と彫られている。ここは「天神浜」と呼ばれた渡し場で、摂津市鵜飼と守口市佐太間に渡船が運航していたが、鵜飼仁和寺大橋の架橋で昭和48年に廃止された。

来迎寺の隣には「佐太陣屋跡」がある。今は福祉センターになっていて、石垣と説明板が残るのみで、探せず、通りかかった方に聞いてここだとわかった。美濃国加納藩(岐阜市)の永井氏の陣屋であった。陣屋は貞享年間(1684~88)に枚方の御殿山から移された。年貢米や加納藩の特産物の傘や提灯もいったんここに集積し、大坂の商人に売りさばいた。

南側には来迎寺があり、その前に「石清水八幡宮本地天筆如来」碑がある。境内には本堂の裏に十三重の塔がある。鎌倉時代の石塔で、大阪市の文化財に指定されている。「八幡曼荼羅図」は国の重要文化財に指定されている。