H.30.5.20

守口市~高麗橋

大阪の宿がとれず、日帰りの予定で出かけた。京都から近鉄で丹波橋に行き、京阪電車に乗り換え、守口市駅に着いた。前回の街道の守居橋まで行く。明治の河川改修で堤(堤防)の意味がなくなり、両側をつなぐために堤防が切られ、橋が架けられたこのあたりは淀川がすぐそばまでせまり、船頭ヶ浜や船たまりがあり、年貢米などが積みだされていた。

街道を進むと「天神橋]が見える。その手前の交差点左の郵便局の前に「前島密」の銅像が立っている。日本近代郵便の父である。ここは紀州藩の屋敷跡である。天神橋の名前は大阪天満宮が管理したのが由来。大阪は「浪速の八百八橋」と呼ばれた。江戸の橋が約半分は「公儀橋」と呼ばれ、幕府が架けた橋だった。大阪の公儀橋はわずか12で、残りは全て町人が生活や商売のために架けた「町橋」であった。難波三大橋は、天満橋、天神橋、難波橋で、一番古いのは行基が架けたという難波橋であった。

右側に「義天寺」がある。義天寺は元「丁子屋」という茶屋の跡である。明治23年、仏立宗の開祖日扇上人が大阪に下る途中、体調が悪化し、丁子屋でなくなった。そのあとを日聞上人が買い取り、道場を建てて義天寺とした。大きな題目碑が立っている。この先の野江の刑場に建てられたものである。丁子屋は枚方の鍵屋と同じく淀川の船着き場として賑わっていた。「宿雁」という落雁などを売る茶店だった。 その先に「京街道 陸路官道第一の驛 守口」のタイルが貼られ、この辺りが守口宿の西見附であった。

小楠公義戦の碑」がたっている。(楠正成の子、正行がこの渡辺の地で大勝した時に、川に落ちた敵兵を救い、衣服と薬を与えたと伝えられている。このゆかしい行為は士道の華として日本人の心を動かした。後に日本が赤十字に加盟する際にこの故事を引き合いに出し「赤十字精神の鑑である。」と宣伝し、加盟が認められた。

その角に「京かいどう」道標があり「大阪城京橋口から4.4km」と刻まれている。だいぶ歩いた感じだが、まだこんなにあると思った。その2分後に右側に「京かいどう」道標が建っている。

教えられたとおりに歩いて行くと「大阪駅」に着いた。今日はぜひたこ焼きを食べたいと思っていたが、食べられずにいたが、たこ焼きとたこ飯のセットをいただいた。大阪はお好み焼きをおかずにご飯を食べるそうだが、これもまさにそうである。でも美味しくいただきました。泊まって翌日は大阪見物ができると思っていたが、日帰りなので大阪城にも寄れなかった。57次が無事に歩けてバンザイです

道路沿いに「露天神社」がある。通称「お初天神」で親しまれている。大阪夏の陣で焼失したが、元和8年(1622)再建された。近松門左衛門の「曽根崎心中」の舞台で、縁結びの神様。菅原道真が大宰府へ向かう途中に「露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思いいずれば」と詠んで「露天神」の名になった。

「大阪高等地方裁判所」と弁護士事務所のビルが立ち並ぶ細い道を歩いて行くと、右側に入る道に慶応元年(1864)創業、西天満の「長池昆布店]がある。ここも日曜日で閉まっていた。 裁判所を出た所には警察官が数人警備している。立ちどまって地図を見ていると大阪駅までの道を丁寧に教えてくれた。早く行ってほしかったのかもしれない。

右折して「難波橋」を渡る。現在の橋は市電開通時の大正4年に架けられた。別名「ライオン橋」で、大きく口を開けたライオンの像が鎮座している。川の中程に「中ノ島」公園があり、バラ園が満開で大勢の人で賑わっていた。

あとは大阪駅を目指して歩く事にする。北浜を過ぎると、左の角に「大阪証券所」があり、前に「五代友厚」の銅像が立っている。天保6年、薩摩国に生まれる。明治維新後は大阪で官職につき、大阪造幣寮(造幣局)の設立に尽力した。堂島米会所を復興し、大阪証券取引所の前身である「大阪株式取引所」の設立にも尽力した。「東の渋沢、西の五代」と称された。大阪俵者会所跡が近くにある。

東横堀川手前で左折すると公儀橋であった「高麗橋」がある。秀吉が大阪城の外堀として天正13年(1585)最初に造った堀に架かる。擬宝珠は大阪夏の陣で徳川方が持ち去り、昭和40年に吉田茂の遺族から大阪市に寄贈されたという。現在は大阪城天守閣が所蔵している。高麗橋の南詰めには江戸時代の「里程元標跡」がある。ここが東海道、中国街道、紀州街道などの諸国への道のり、車馬賃の起点となった。ここで東海道57次の旅は無事終わった。バンザイ!!!

東横堀川には「今橋」が架かっている。江戸時代には町橋として町人が管理していた。今は上流の葭屋橋と東詰めでV字に架かっているが、元は別々に架かっていた。西詰に「今橋の顕彰碑」が建っている。土手から下に降りると昔の「今橋」の親柱がたっていた。

郵便局の反対側にあるビルはフランス料理店の「ルポンドシェルビル」で、大正末期に建てられた「旧大林組本社ビル」である。

右折し大川に出て見る。天満橋と天神橋に挟まれた大川両岸は八軒屋と言われた。八軒屋と呼ばれる以前は「渡辺の津」と言われた。平安時代から瀬戸内と淀川を結ぶ水上交通の拠点として栄えた。右手に「天満橋」が見え、屋形船が走っている。「川の駅」には「水陸両用バス」がとまっていて観光客が乗りこんでいた。

その先の「チーズケーキ屋さん」の前に先ほどの人たちが集まっている。「この付近天満八軒屋船宿 京屋忠兵衛跡」の小さな説明板が貼ってあり「幕末期新撰組の近藤勇、土方歳三、沖田総司らの定宿であった。」と書かれていた。彼らがいなければ見逃していた。その先に「熊野街道」説明板がある。大川沿いの「渡辺の津」は熊野参詣の出発点である。白河上皇の熊野御幸が頻繁に行われたのが、「蟻の熊野詣」と喩えられるほどの熊野信仰のきっかけとなった。熊野街道の碑から南に街道が伸びている。

すぐ先の左側に「永田屋昆布店」がある。暖簾の下に「八軒屋船着き場跡碑」がある。この地は平安時代には渡辺ノ津と呼ばれ、紀州熊野詣の上陸地であった。豊臣時代に、天満橋、天神橋が架けられ、江戸時代には八軒屋と呼ばれ、京と大阪の淀川を上り下りの三十石船の船着き場でもあった。八軒屋とは、ここに八軒の船宿や飛脚屋があったことによる。ガイドが一緒の集団が来て、「ここまで、海だった。」と説明していた。

京街道は、上町筋を斜めに天満橋ビルと大阪歯科大の間の道を入る。突き当たって右折し、土佐堀通りに出る。高架の下の天満橋信号交差点を横断して、右手の京阪電車天満橋駅の看板を見て進む。

橋の反対側の日経新聞ビルの脇の細い道に入る。左側に石垣の遺構が残っている。説明板によると(日経新聞社の建設工事の先に石垣遺構の一部を移築したもの。旧大和川左岸の護岸用石垣として築かれたものと推定される。) その先には、「豊臣時代大阪城三の丸北端の石垣(移築復元)」がある。

京橋口は大阪城の北西の出入り口。北方の寝屋川に京都へ通じる京橋が架けられていることから「京橋口」「京口」と呼ばれた。戦前まで江戸時代以来の京橋門が残り、枡形には大手門同様に多門櫓もあったが、昭和20年の空襲で全焼した。濠の向こうには「乾櫓」がある。時間があれば、中に入ってみたかったが、先を急いだ。

大阪城の北側には「大阪砲兵廠跡」がある。大正中期に建てられた旧化学分析場の跡である。その先に「大阪城京橋口」がある。筋鉄門跡明治天皇躅碑が立つ。筋鉄門は徳川幕府による大阪城再建工事の際に築かれた三の丸への西の入り口で、現在は左右の石組みだけが残る。

淀川に注ぐ寝屋川に架かる京橋を渡る。京橋からの寝屋川の上流には大阪ビジネスパークの高層ビル群が見える。

土佐堀通りを行くと、寝屋川東詰信号交差点に出る。直進して横断すると、歩道橋に下に「京橋川魚市場跡碑」がある。石山本願寺時代に、漁民が京橋北詰の魚を持ち寄って販売したのが市の起源となっている。その後、徳川幕府に大阪で独占的に川魚を扱うことが公認された市場となった。

商店街を抜け、1号線と合流する交差点を横断し、右折して大阪環状線のガードしたを潜り、直ぐ左折して、京阪本線京橋駅の京阪モール沿いに西に進む。東野田公園を過ぎ、信号のある交差点を左折し、京阪本線のガードを潜り、土佐堀通りとの合流点の片町交差点を右折する。 土佐堀通りを西に歩くと、大阪城天守閣が見えた。

野江4信号交差点を横断し、右折する。平耳鼻科を左折するということだったが良くわからず、左折する。さらに進むと「リブストリート商店街のアーケードに入る。少し行くと「京街道案内碑」があり、さらに長い商店街を歩く。

京かいどう」碑には「大阪城口から2.1km」と刻まれている。その先の角に「手作り 豆腐屋」がある。美味しそうな豆腐、がんもどき、厚揚げなどが並んでいる。

高架の線路をくぐり、旭区から都島区に入る。野江4丁目交差点の先、コンビニの横から旧道に入る。榎並地蔵尊付近から商店街が始まる。

街道に戻り、一里塚を探すがない。かってはこのあたりに松が植えられていたらしい。都島通りに合流すると「野江国道筋商店街」が歩道に沿って伸びている。日曜日ということもあって、開いている店は少なかった。

関目発祥之地

明治天皇御駐輦碑

都島通りを横断して向こう側の狭い道に入る。「京街道」の道標がある。通りの向こう側に「関目神社」があるので、お参りに立ち寄る。この神社は大阪城の東北の鬼門に当たり、毘沙門天を祀る。「関目発祥の地」の碑が立っている。(関目というのは、この地に見張り所があったところからといわれ、関目の七曲りとして大阪城の防御に役だったという重要な地であった。)

関目5丁目交差点で、163号を横断し、右折して1号線を横断し、ファミリーマートの前に出て左折して1号線を進む。150m程行き、右折して狭い道に入る。育成と言う地名の街並みを進み、水月旅館を右折して、都島通りに出る。「明治天皇聖躅碑」がある。ここは西井茶屋跡で、(明治元年、明治天皇は天保山での観艦式に臨むため、京都から行在所となる大阪の津村別院に向かう途中、この地にあった茶店で休息をとった。そのため,2間四方の建物が急きょ造られた。

関目5丁目交差点は複雑で、旧道が消滅している。この辺りは「七曲り」といわれ、秀吉が大阪城を築くに当たり、防備に重要と考えたのが関目あたりで、敵の様子を察知するため、蛇行させた。

森小路1丁目に入ると「阪神高速12号守口線の高架」とその下に「古市橋」が見えてくる。橋の真ん中に「古市橋案内板」が立っている。橋が架かる城北運河は、工業用船運のために、昭和10~15年に開削され、橋は昭和12年に架橋された。

日曜朝風呂 春日湯」と書かれている。前にまわってみると、「美肌の湯」「いこいの湯」と書かれ営業していた。

円満地蔵尊」という名前の社があり、アーケードを抜けると公園に「京かいどう」碑と「吉祥地蔵尊」がある。そこから高い煙突が見える。

この辺りは、京阪の駅に向かう道に商店街がある。千林商店街は「主婦の店」の異名を持つダイエー1号店が開店した場所である。

道なりに進むと左側に「地蔵堂」があり、その向かいに「木犀陣屋跡」がある。庄屋浅田家のあった3本の木犀は関目まで香りを漂わせるほどで、14代将軍家茂が宿泊した際、この香りを喜んだという。

道をちょっとそれたところにある「寶龍寺」には樹齢800年と伝わるクスノキが4本ある。寺の方の厳しい監視のもと早々に退散した。大阪城の絵が描かれたマンホール。

今市交差点の先で、細い道に入る。「京かいどう道標」と「京街道説明碑」がある。道標には「大阪城京橋口まで5.4km」と刻まれている。豊臣秀吉が淀川左岸を改修して堤防上に築いた京街道は大阪城京橋口が起点であった。江戸時代に東海道57次ができて起点は高麗橋東詰に移された。前をボースカウトの子供たちが歩いている。

太子橋交差点を過ぎると「大阪市」に入る。聖徳太子が四天王寺建立の土地を探してこの辺りに来て、休息したとの伝に由来する。「今市商店街」のアーケードが見える。大阪はこの様な商店街が多いと感じた。

初めは「土居神社」と言ったが、守口と土居の地名から「守居神社」となった。918年創建で、素戔嗚大神 加茂別雷神を祀っている。商店街は日曜日ということもあるのか、シャッターが目立っていた。

突き当りを右方向に曲がり、京阪本通に出る。右側の守口市役所は元三洋電機本社ビルで、2016年に移転した。明治図では淀川の中である。ここで迷い反対方向に歩いてしまった。消防署で聞いて元の道に戻った。土居駅への道が旭通商店街になっていて、中に入っていくと鎮守の「守居神社」がある。