上田寅吉は戸田村の7人の船大工の中で若くて創造力もある最も有能な船大工の一人です。彼は既に石川島造船で旭日丸という船を造っていましたが、この船はまともな洋式船ではなく、故郷戸田村でロシア人の帰る船を造るとの事で、戸田村に帰り戸田号の造船におおいに活躍しました。
船大工の中でも特に若くて(32歳)優秀な寅吉に、長崎の海軍伝習所の一期生として行きました。この伝習所は平民は入れまれませんが、彼は特に洋式造船の技術が優れており、お給金を貰い後には苗字帯刀を許されました。又この一期生の中には勝海舟が居ました。一期生は咸臨丸により、日本人だけで太平洋を横断しましたが、武士階級の人達は殆どやくにはたたず、
たそうです,
海舟は船乗りと言うより、政治家、先見性が優れていますね
万が一、航海途中で船が壊れたら誰が直します?そのため河津出身の鈴木長吉と伊東出身の肥田浜五郎(オランダから日本で最初に蒸気機関を輸入しました)ら船大工が参加しました。
二期生には榎本武楊が居ます。武楊達は始めアメリカに行きたかったのですが、当時アメリカは南北戦争の為混乱しているのでオランダに行きました。オランダでは当時幕府が発注していた、後の開陽丸の建造に携わりました。
日本に帰国した時に間もなく明治維新となり、榎本と共に函館の五稜郭の戦いに敗れ捕虜になりましたが、明治三年釈放されて、横須賀の海軍工廠の初代の工場長に成りました。又長崎の三菱造船所など日本の主な造船所を造りました。
榎本との関係は深く後の緒明さんのお台場造船所などにも力添えをしたそうです。
寅吉は明治22年に亡くなりましたが、後のロシアのバルチック艦隊をやぶった日本の4隻の艦船を設計しました。
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