Yahoo! JAPAN

目次:造船博物館案内 ロシアと交流 戸田の観光 私の仕事・プロフィール 薬師寺西塔再建 健康住宅建築


 北方領土問題原点とその行方・戸田村との関係


プチャーチンは150年で3回目のロシアの使節団です
彼には皇帝からの密名がありました。
アメリカが日本に無理やりに、開国・開港に責めるので必ず
その後に交渉しろとの命令で有りました。

アメリカは日本の法律を無視
し江戸湾の浦賀えと来ましたが、
ロシアのプチャーチン提督は
日本の法律に習い長崎へ行き
後に下田で日魯和親条約を結びました。
アメリカとの和親条約との違いは、

第二条日本とロシアの国境の条文です。
では簡単に説明をします。




北海道(蝦夷)は日本の物です。千島列島(クリル諸島)の日本側から4島まで、
択捉島とウルップ島を境とする

樺太(サハリン)は境いを決めずに次の世代に決めよう。


その20年後明治8年、千島・樺太交換条約が成立し、
千島列島・全島は日本の領土に成り、樺太(サハリン)はロシアの領土に成りました。
この千島・樺太交換条約まで大事な事は、
話し合い平和的に解決した条約でこれが一番大事です。


この条約から30年後明治38年日魯戦争後日本がロシアに勝利したので
樺太の50度以南を賠償金として日本の領有としましたね。

第二次大戦後(日本では大東亜戦争・大東亜共栄圏開放運動)
昭和26年サンフランシスコ講和条約の時に、
南カラフトの50度以南を放棄すると書きました。

又同じ項のなかに千島列島も放棄すると書いたのですが

当時のソビエトは4島までを含んだ物して不法にも自国の領土としたのです。

日本の主張は4島から北の島を放棄したのであって、
しかも4島は北海道に帰属する島だと思って居るのです。

特にソビエトは日ソ不可侵条約を一方的に破り、
日本の敗戦の濃厚を知りいきなり進軍をしてきたので
この溝はなかなかふさがりません。

本当ならばアメリカがこの件に関して介入

するのがあたり前ですが、不幸にも冷戦が始まり、
朝鮮戦争が起きたのでアメリカは介入出来ませんでした。

この下のリンクは私が案内をした人なんですが
ご自分のホームページがあるので見てください。
解り易いページです。
日露・日ソ関係 ゆかりの地


アメリカ大陸は誰のものか判りますか?
アメリカ・インデアンと言う国、先住民に権利が有るとすれば、
インデアンの所有ですね。
オーストラリア大陸もこの考えで行くと
アボリニ人の大陸ですね。


日本の先住民は元々アイヌ人で海岸地方など当て字ような地名が沢山有ると思います。
富士山の語源も5つつぐらい有るそうでアイヌの語源にもフジがあるそうです。
戸田村も元々は、アイヌ言葉の当て字でヘタ と言われていて居ましたが
 
明治22年以前は部田(ヘダ)と戸田(へだ)両方使用していたのですが、
明治22年以後戸田(ヘダ)と言うようになりました。
戸田村・大門に有る神社は地元の人は(お宮さん)と言いますが、
神社の正面に部田神社と言う看板があります。
(ヘダジンジャ、が本当なのですが知らない人達はブタジンジャと言います。)




それではアメリカが何故日本に来たのか?
開国・開港は何の為か、それは捕鯨の為です。
当時アメリカは油と言えば鯨油しか有りませんでした。

アメリカ人は捕鯨とは油を取るだけの物で、
他のもの肉・骨・皮などは捨てて居ました。

それから石油が大量に安く取れたので、捕鯨をやめました。
日本では何故今の時代でも捕鯨をするのかと言いますと、
日本人は鯨と共に生きてきたのです。

食文化日本の捕鯨
とは捨てる物はなにも有りません。
肉・骨・皮・ヒゲ・歯・内臓・尻尾・鯨油、全てにおいて利用します

ではロシア帝国が何故日本に来たのかは、、
毛皮・特にラッコの毛皮が欲しくて日本に来ていたのです。
ロシア・エカテリーナ1700年頃から極東から
今のアラスカはロシア帝国もので当時の産業は毛皮で、
現住民(特にアイヌ人)に狩猟させ、
毛皮を捕らせ安く交換していたのです。
ロシア人達は千島列島(ロシア名クリル諸島)を南下しラッコを捕り、
不凍港が欲しかったのです。


トップページへ戻る