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日本とロシアの関係

  
プチャーチンの年表の前で

 プチャーチンは明治14年明治天皇から外国人で始めて日本で最初に最高の勲章を貰いました。
勲一等旭日章です。この章を貰うには日本人では総理大臣経験者か東京大学の総長か最高裁判所の長官でないと貰えません。ちなみに近年貰った人が2人いますがこれはこの職には関係なく政治力で取りました(名前は書けませんが知りたい人はメールで)。

 プチャーチンは何故勲章を貰ったかかと言いますと、明治時代になっても日本の船はあまり良くなく度々流され、海流に乗りオホーウツクやカムチャッカ、カラフトへ流されるのですが、プチャーチンは戸田号で無事ロシアに帰国した後位も上がり、度々日本に来る時に
日本人の漂流民達も連れて来たのです。何人かは判らないですが、おそらく何十人か何百人余りの日本人を無事に送り帰したロシア側の最高責任者だと思います。これはそもそもディアナ号で来日し下田において津波に合い戸田村に来航中富士市に座礁し結局艦船は駿河湾えと沈み、しかもクリミア戦争中で天災と人災に合いながらロシアに帰る船まで造り、わずか3人の死者で済んだ、このことは日本人とは親切で良い人間だと判ったからロシアに無事帰国した後災難に遭った日本人を送り帰したのです。このような事をしたので日本で最高の勲章を貰ったのです。

 ではプチャーチンが来日した頃の外国人で有名な人で皆さんが良く知っている人はなにをしたかお知らせします。アメリカの総領事ヒュウスケン・
ハリスは日本に来て大変な大金持ちに成りました。その理由は、その当時日本の金と銀とのレートは一両は一分銀が四枚在ると交換できるのですが、アメリカでは銀が安くハリスは沢山の銀を日本に持ってきて金(一両)と交換をし儲けたのです。このような事はアメリカではあたり前ですが、日本は鎖国をしていたのでこの事(レート)情報は判らなかったのです。この事が判ったのは勝海舟咸臨丸でアメリカに行った時にわかったので海舟が日本に帰国をした時に最初にした仕事は金と銀のレートをアメリカと同じにしたのです。だから当然ハリスに勲章が与えられる訳が在りません。

 もう一人日本に来て儲けた外国人がいます。その人の名前はイギリスの武器の商人グラバーです。そうあの長崎のグラバー邸で有名な人です。彼が何故儲けたかと言いますと、簡単に言いますと日本に鉄くずを売ったのです。何故かと言いますとアメリカでは1862年南北戦争が終わり需要が無くなり、しかも先込めの単発銃は使用しなくなり、後ろ詰めの連発銃が主流になったのです。ですからグラバーが日本に売った銃はアメリカ辺りでは鉄くずです。それでもグラバーと薩摩・長州の仲介をした坂本竜馬はアメリカでは南北が終わり武器が必要としなくなったので少しは安くさせたらしいです。ハリス・グラバーも日本人は鎖国をしていたので情報が入りにくく、結果的に金が知らず知らず流失してしまったのです。この事に関しては今の時代にも通じることで、情報が一番大事だと言うことです。

 又外国人の女性で最初に勲章を貰ったのもロシア人です。簡単に言いますとジョン.レノンの奥さんオノ・ヨウコの叔母サンにあたる人です。どのような人かと言いますと日本興業銀行の創業者は小野家です。この長男がロシアに行き名バイオリニスト、アンナさんと結婚をし来日をし日本人にバイオリンの弾き方を教えたので昭和33年勲三等ですが外国人の女性として始めて貰ったのです。バイオリンのお稽古の本の元はアンナ・オノさんが書いたものです。オノ・ヨーコさんとの関係は姉妹の娘さんでオノ・ヨーコさんもアンナ・オノさんにバイオリンの弾き方を教えて貰ったそうです。ロシア人は日本に対して命を助けた文化・芸術をつたえたので勲章を貰いました。アメリカ・イギリスは金儲けに来たといっても過言では有りません。
 
 
戸田の博物館に有るプチャーチンの娘さんの遺品で明治23年に戸田の松城家や太田家に残して有った物です.
 
修善寺にあるハリストス正教会は、戸田とロシアの関係があったことでここに建てらたそうです。
 
 
モジャイスキーのコーナー


 ここには何故か飛行機の模型の写真があります、飛行機を最初に飛ばしたのは
1903年ライト兄弟
ですが、それよりも49年前1854年モジャイスキーが29歳で来日した時既に彼は船の中で、飛行機の模型を完成させていました。人に言わせるとあくまでも模型だと言いますが、まさに理論のかなった飛行機です。

 彼は発明家で頭もよくスクーナー型(日本の型名はその当時の地名を取り
豆州君沢郡戸田村なので君沢形
と言いました)の日本で最初に出来た軽艘帆船戸田号のロシア側での設計者であります。又ロシアの彼の故郷には彼だけの為の博物館が出来ています。

 又学説では確立されていませんが、アメリカ名スクーナー型の船は歴史に残る型名でありますと言うのは、ヨットの世界最大のレース・アメリカズカップとの関係が有ります。このレースは何時から始められたかと言いますと、プチャーチンが来日する2年程前1851年イギリスで世界で最初に万国博覧会が開催された時にイギリスの女王がヨットのレースを始めたのですが、アメリカから来たアメリカ号が一位になり、二位とは大差をつけアメリカへカップを持って帰りそれからアメリカズカップとなったのですが、それから20年後1870年今のようなレースになったのです、そしてそのアメリカ号が戸田号と同じスクーナーの型名です。

 又このコーナーには不思議な所が有ります。どこかと言いますと着物の襟が反対です。向かって左前になっています。これは銀盤写真と関係があるのです。銀盤写真は鏡と同じよう感覚で言うと逆に映るのです。だからもし銀盤写真で日本人が写せば、襟を始めから左前にして写します。発明家で頭は良いようですが、日本の習慣は余りよく判らなかったようですね。



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