Yahoo! JAPAN

目次:造船博物館案内 ロシアと交流 戸田の観光 私の仕事・プロフィール 薬師寺西塔再建 健康住宅建築

ロシア人が何故戸田村に来たのか




プチャーチンはアメリカのペリーとは違い日本の法律を
守り必ず長崎に来港したのですが、
1854年(嘉永7年10月15日)下田に来港し川路が下田に来るのを待ち

11月3日に下田 宝福寺において第一回がおこなわれ

11月4日下田において2回目
の交渉しようとした
朝9時、嘉永・安政(今でいうところの東海沖地震)の大地震、
マグネチュウド8.4だそうですが見舞われたのです。

今何故この東海地方に大地震が来るかと言いますと、この安政大地震の
147年前富士山に宝永山

と言う噴火口の山がありますが、これは1707年
宝永4年
ですが地震と共に噴火があったので、宝永山と言うのです。

そしてこの大地震の100年程前1604年やはりこの一帯に
大地震がありました。
統計的見るとこの東海地方には必ず

100年〜150年に一度必ず来るそうです。


2011年は安政の大地震から156年ですから、
そろそろ大地震が有かもしれませんよ?




又次の日も同様な大地震が起きディアナ号は下田湾内に停泊していた為、
地震の津波の為でわずか
30分余りで42回も回転
しました。
良く数えていましたね

当時の下田は(今でも地形は同じですが)入り口(港湾)は
広く・段々に狭く成るので下田の被害は、
地震よりも津波の方が大きかったそうです。
下田は当時856戸有ったのですが、
無事だったのは山側の25戸だけだそうです。

又ディアナ号の回りには何十人も下田住民が流れつき、
ロシア人たちも助けようとしましたが、外国人だと判ると
嫌がりそのまま流されました。

これは外国人は悪い奴だからと教えがあり、かわいそうな気がしました。
しかし助かった人が3人いるのですが、
これはたまたま気を失っていたので助かりました。
後で気がついた時にはさぞびっくりした事でしょうね。



ディアナ号は船底に穴が空きロシアに帰れる状態ではなくなり、
修理をする為の港を捜したのですが、
幕府としては当時(尊王・攘夷)の攘夷論が盛んな為、
下田で修理をして下さいと言ったのですが、
プチャーチンは猛反対をしました。

何故ならば、ロシアは1年程前から南下政策において、
クリミア半島の領留権の為トルコと戦争
を始めましたが、トルコ側にイギリスとフランスが味方をしたので、
トルコ海軍は日本には来ないのですが、
イギリス海軍・フランス海軍がロシアとの戦争の為日本に来航すると、
長崎・下田・函館に寄るので修理の為に下田にいてはまずいのです。
何故ならばそこで戦争が始まり必ず負けるからです。

ディアナ号は大砲が52門も有り当時としては最新鋭艦ですが船底に穴が空き、
使い物にならなかった為負けると予想していたのです。

では修理の為の
条件としては三つ有
第一番めは
遠くへいけないので伊豆半島の中で捜す。


第二番目は
イギリス海軍・フランス海軍に見つからず

隠れて修理容易にできる港、
又江戸幕府においては日本人にも情報が漏れない
(攘夷論のなかでむやみやたらに外国人と接しないように)
そのうえ幕府としてはロシア人を管理し易いところこれは正に戸田湾です。

又ここは入り口が狭く中が広く
(いわいる巾着港とい有れています)

しかも三方が険しい山なので、
日本人のいわいる過激派分子にわから無いようにとここが最適との事です。

第三番目としては
修理の為のいまで言うドックが必要です。
船底に穴が空いているので海の中では修理が出来ません。

ではどの様にして海の中から陸に揚げようとしたか?
これはいまで言う
知識と・知恵を使うのです。

まず知識とは干満を利用するのです。


満潮の時に砂浜えと船を打ち上げこれから知恵を使うのです。
砂の上に打ち上げた船に片方にロープを何本か掛けて反対側の砂浜を掘るのです。
そして少しずつロープを緩め船を横倒しにするのです。
それらを繰り返せば両方の船底が修理出来るのです。判りましたか?


戸田村はこれらの地理適条件に最も適した所だったのです。
しかもこの戸田村を
捜したのはロシアです。(^0^) (^▽^)

つまり戸田村にロシア人が来るようになった三つの大きな理由は、
いまで言う東海沖地震
クリミア戦争の勃発

尊王攘夷の異人を見たら殺しても良い、
つまり日本人と会わせたくない。
対岸の三保の松原で隠れては修理は出来ますが
東海道が近くにあるので日本中に知れると困る。

それらの天災と人災の偶然のめぐり合わせにより、
まさに地理的条件に合った最善の所なのです。
しかも戸田村ではディアナ号の修理の為だけだったのですが、
幸か不幸か船は駿河湾へと沈んだので、
ロシア人達は富士市三四軒屋から
既に500人余りの収容できる宿舎が出来ている戸田村に、
徒歩で一泊二日の行程で
整然と並んで戸田村にやっとのおもいで来ました。
(幕府は富士から戸田村まで船で送ると言いましたが、
ロシア人達は船は懲りたので駿河湾岸を歩いて着ました

少し話は前後になりますが、ディアナ号が下田を自力で戸田に向けて
出航したのですが、途中土肥沖でアンカーを打って船を止めようとし、
操船も仕様としたのですが応急処置した舵が効かなくなり、
そのまま富士の三四軒屋に座礁しましたが、
富士の漁師達のお陰で全員助かりました。

しかし幕府はあくまでも船を戸田村で治せとの事で、
富士・原・我入道・三津の小海の漁師を頭に、
百数十艘隻の伝馬船を集め戸田村へと曳き始めたのですが、
突然嵐が来たのでもやい綱を切り離しディアナ号は流され、
駿河湾へと沈んだのです。
昭和62頃一度調べたのですが、当時は冬なので西風が吹いていたので、
沈没地点は沼津沖だと思うのですが駿河湾は海流が早いのでバラバラになり、
判らなかったと私は思います。



そのほかの話

高田屋嘉平のディアナ号とプチャーチンのディアナ号は違います。
NHKで放送されたのでよく質問されるのですが、
ロシア(外国)では船の名前を女性の名前にするのです

一世号とか・二世号とかにすれば言いのですが、
ロシアではそのような事はあまり無いようです。
根本的に嘉平とプチャーチンの時代は40年違います。

 

トップページへ戻る