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緒明菊三郎


緒明菊三郎氏は、戸田号造船時には10才だったので、
父嘉吉に付いて洋式造船の技術を学び、
各藩に呼ばれ
後に江戸に出て隅田川で一銭蒸気船を始めて財を成し、
東京の第四お台場で緒明造船所を造り、日清戦争、日露戦争の頃は
日本の造船、海運王にまで成った人です。
なお、お台場の土地を使用出来たのは、同じ戸田村の出身の船大工、
上田寅吉の縁で榎本武揚
が世話をした様です。

4号お台場が何も使われていないので明治政府が貸し出そうと言う事になり
隅田川の渡し船で一銭蒸気船を始めた時に大儲けをした時のお金で
お台場を借りてお台場造船所(緒明造船所)を創業して
後に政府から購入するまでになりましたが
昭和14年ごろ軍にとんでもない安い金額で取られたそうです

場所は北品川の天王州アイルの前の第一ホテルです
今の御殿山の前は崖になっていますが
御殿山海側を崩してその土で台場を造成したのです



下の2枚の 写真は 戸田村立緒明保育園で、
今は緒明児童遊園地です
緒明さんの発祥の地で戸田村に寄付された所です。

 

緒明家の今の御当主の母親は西郷隆盛の孫娘さんだそうです。
父親は菊三郎のお孫さんで太郎さんと言います。
昭和62年頃お亡くなりになりました。
西郷家の一統は200人弱ですが
緒明さんの婿さん實さんは一番の年長さんなので
お席が一番上だそうです。



静岡県三島市に有る楽寿園は、溶岩台地で小浜が池の湧き水の側に
小松ノ宮(皇族)が別邸を明治23年頃建てました。
明治天皇より25万円送られたようです
宮さん、宮さん御馬の前のピーヒャラ、ピーヒャラ
と歌わられたのは、小松ノ宮さんです。

日本が朝鮮を併合した後
明治
44年朝鮮李王朝の皇太子の別邸となりましたが、
昭和2年お金が必要となり、売ろうと思いましたが、
なかなか売れないので切り売りしようとしたところ、
緒明圭造さんがこの話を聞き、
東海の名園が無くなるのは 勿体無いとの事で
昭和2年 当時三島町の年間予算が
30万円の時代 
当時の金額で百万円で買い入れました。大変なお金持ちでしたね。
もし緒明さんが、買い入れなかったら三島の駅前に
楽寿園は無く、住宅地になっていると思います。
昭和26年三島市へと安く払い下げられ、
今のような公園に整備されました。

三島市民会館は緒明さんの土地で三島市に貸しています


緒明さんの苗字の由来は何故かと言い言いますと、
江戸時代船大工(平民)には苗字は有りませんでしたが、
明治3年から4年、苗字を付けなさいとのおふれが出たので、
この家では色々と考えたあげく、菊三郎の父嘉吉は戸田号を造くっていた頃、
大変貧しく船大工は日銭しか入らず、母が内職をして家計を助けて居ました。

ではどのような内職をしていたかと言いますと、
着物は60年だいたい孫の代まで持つそうですが、最後は捨てずに、
さばいて
鼻緒にするそうです。
母が余りにも一所懸命に内をしつずけて居たので、
夜明けになったので、緒明とつけたそうです。



緒明家は
静岡銀行の大株主
で頭取を勤めた家柄で、
(俗に世間では渋銀と言われているが)日本で一番堅い銀行は静岡銀行です。
銀行とは皆さんから大事なお金を預かり、そのお金を運用し預金、金利とし、
その集めたお金を事業社に貸し出し、借り入れ金利とし、
そのお互いの利ざやで銀行は営業をしているのです、

では静岡銀行は何が日本で一番かと言いますと、
欧米では資本率の高い銀行が良いのですが、
日本では4パーセント有れば銀行業務が出来るのですが、
欧米では8パーセントなければ銀行は出来ません、。

ちなみに
1パーセント以下の銀行は倒産します。
今銀行は合併を盛んにして資本率を上げようと、
努力をしていますが、まだまだ静岡銀行には叶いません。
では静銀はどれだけ有るかと言いますと

14パーセントも有ります。渋銀と言われますが逆に、
静岡銀行から融資を受けられる、会社、個人つまりは
信用が有るから融資が受けらるのです。
決して渋銀ではなく信用の有る所ならばいくらでも貸します。

ちなみに信用金庫で日本で一番は、
三島信用金庫で資本金額は違いますが、
22.4パーセントもあります。
このへんは
まじめな人が多いですね。

三島楽寿園の菊祭り(平成21年度)の写真です。
写真の提供は日大の加藤教授から頂きました。





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