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ロシア語の日本語読み
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表紙   今から123年前の 1887年、戸田の山々も新緑に包まれた
      穏やかな5月ある日の事でした。ロシアから国境を越え、
      はるばるこの地伊豆戸田村に一人の婦人が特別の思いを
      胸にそしてある目的を果たす為にやって来ました。
      その人の名は皇后付名誉女官伯爵オリガ・プチャーチナ、
      ロシア使節プチャーチン提督の一人娘でした。
      彼女は、亡き父を偲んでの旅でした。
@ (  ) 「ここが、父が言っていた戸田なのね。なんてすてきなとこでょう。」
      オリガ.プチャーチナはさっそく役人の案内のもと、
      廻船問屋を営む、松城家を訪ねました。
      当主の松城兵作は、当時プチャーチン提督が戸田に
      滞在していたおり御用係を努めていました。
  (  )「おいおいープチャーチン提督の娘さんだってよ」
  (  )「なんてきれいな人なんだ。」
      プチャーチン提督の娘さんがやって来るという話は、
      村中に広がり、 松城邸には朝早くから、村人たちが
      川岸いっぱいに集まり 多くの人が歓迎をしました
A (  )「ようこそ訪ねてくださいました。」
      兵作は歓迎の言葉を述べると、さっそく家の中に案内しました
  (  )「父をはじめ、ディアナ号の乗組員が、たいへんお世話になり
      感謝しております。」

      オリガ・プチャーチナは特別な思いを語ってくれました。」
  (  )「お父様は、とても立派な方でした。・・よくあの惨事を乗り越え、
      目的を見事達成なさったものだ。」

      と兵作は、深くうなずき、当時の話を語り始めました。
B    当時、日本はどこの国とも交流を持たない「鎖国」の時代にあり 
     そんな日本にイギリス、フランス、アメリカなど、
     多くの国が開国を求めてきました。
     1853年には、アメリカのぺりー提督が浦賀に黒船を停泊させ、
     開国を迫ったことは有名な話です。
     しかし、同じ年にも、もうひとつの黒船が日本にも来ていたのでした。
     それはロシアの使節プチャーチン提督率いるディアナ号でした。
  (  )
「ロシアの船が日本の港に自由に入れる様にして下さい。
     われわれの国と交流しましょう。」
     
プチャーンチん提督は幕府に説得を試してみましたが
  (  )
「なにを言っても無駄だ。日本は、どこの国とも行き来はしない。
     我々は独自の道を歩むのだ。」
     
アメリカのペリーが「砲弾にによる威圧」で開港を迫ったのに対し、
     ロシアのプチャーチン提督は、「対話」に徹し、あくまでも平和的に
     「友好の道」を切り開こうとしたのです。
     しかし、日本の幕府の意思は固く返事を先延ばしにしていました。
     プチャーチン提督は粘り強く、翌年も2度目の来日をしています。
     しかし、悲劇はその2度目の時に起きてしまいました。
     伊豆の下田でようやく本格的な交渉が始まろうとした1854年
     11月4日、突然、大きな地震が下田を襲ったのです。
C(  )「ゴォー」・「ゴォー」
  (  )
「なんだ!なんだ!」
  (  )「地震だ。でかいぞ!」
  (  )「大変だ。みんな、逃げろー津波がくるぞ。」
  (  )「ゴォー、バキバキバキー」
      マグネチュ−ド8.4、被害は本州全域に及びました。
      大きく揺れた後には、下田の湾が13メートルも盛り上がる津波が
      襲ってきました。。湾内にはプチャーチンを始め、ロシアの乗組員が
      約500人、停泊していた船に乗っていました。
  (  )「ワー、振り落とされるな。マストやデッキにつかまるんだ。」
      船は木造の帆船、右へ左へ、上へ下へと叩きつけられるように
      揺すられ、下田の町も一瞬にして流され、
      家も人も何もかもさらっていったのです。
      ディアナ号は湾の中の渦に42回も回転し、岩にぶつかり
      大砲が転がりケガをする水兵もいました。
  (  )「おーい、大変だあ。見ろ、人がたくさん流れていくぞー、」
  (  )「助けろー、ロープを出せー!」
      ロシアの乗組員は、自分たちが生きるか死ぬかという時に流される
      日本人に手を差し伸べ、必死に救助作業を行いました。
  (  )「早く、早く、このロープにつかまるんだ。」
      しかし、当時「外国人と接触をしてはならないと」
      教え込まれた人々は、差し伸べられた手を断って、
      むざんにも命を捨ててしまった人も多かったとのことです。
      ロシアの一行は、やっとのことで数名を助け、
      地震後の漂流がおさまった後、船の医師団を街に送り、
      けが人の手当てに役立ててください、申し出たのです。
       
D    このロシア人の人間愛には、当時、幕府の代表であった
      川路トシアキラも「恐るべし、心得べきことなり」とても感心しました。
      瀕死の状態になったディアナ号でしたが、プチャーチン提督は、
      ディアナ号の修理を決め、幕府との交渉を再開しようとしました。
  (  )
「船の修理は壊滅的な下田では出来ない。他の港ではイギリスや
      フランスの船にみつかってしまう。どこか良い場所はないか。」
      
ちょうど、ロシアはクルミア戦争の真っ最中でイギリス、フランスの
      船に見つかれば攻撃されるのです。
  (  )
「良い所を見つけました。岬が海に突き出ていて
      三方を山に囲まれた戸田と言うところです。」 
      
まさに、戸田は、修理をするにとても良い場所だったのです。
      幕府もそれを認め、戸田で修理をする事が決まりました。

      
伊豆半島を東から西へ回り、戸田に向かう途中、
      またもや悲劇におそわれました
E    嵐によって難破してしまったのです。田子の浦の沖合いに錨を下ろし
      たのですが、見る見るうちに浸水し、沈没の危機が迫ってきました。
  
(  )「このままでは、死を待つばかりだ。
      決死隊を募ってボートで引っ張ろう。」

      その声に
  (  )「わたしにやらさせてください。」
  
(  )「わたしもやります。」
      と幾人もの乗組員が志願し、逆巻く波に降りていったのです。
      それを見ていた田子の浦 宮島村の人達は

  (  )「よし、俺達も手伝おう。おーい!みんな、手伝えー。」
  (  )「えっ!何を言っているんだ。ロシアの船だぞ。」
  (  )「ロシアの船でもなんでもいい!」
  (  )「大変だ!沈みかけているぞ!
      このままではあのロシア人たちはみんなしんでしまう。」

      そして、役人達も
  (  )俺達が責任をとる!みんな、力を貸してくれ!助けるぞ」
     
 とロープを引っ張り、乗組員を岸まで引き上げたのです。
      最後に残ったのはプチャーチン提督です。
      勇敢な村人が海へ飛び込み、彼を救い上げたのでした。
      そして、ケガをしているロシア人に手厚い看護をしました。
      ディアナ号は沈没してしまいましたが、
      プチャーチン提督はへこたれません。
  (  )
「船がないのなら造ればよい。」
      
そして、戸田村での船の建造が決まったのです。
   
F    プチャーチン一行は、船を造る為に宮島村から原、
      静浦の海岸線を通り、古宇から真城峠をぬけ、
      2日間かけて歩き、戸田村に着きました。
      当時戸田村の人口は、3000人余り、戸田村でも地震、
      津波の被害で死者31人、負傷者25人、軽傷者多数おり
      3分の1の家屋が破損する被害を受けていました。
      そんな中、500人のロシア人の人々がやってきたのです。
  (  )「大変だー。見たこともねえ大男達が大勢、山からおりてきたぞー、」
      初めて目にするロシアの人々に村中、大騒ぎになりました。
  (  )「ロシア人、500人も来るなんてとんでもない事だ。」
      と口にする人がいる中
  (  )
「いやいや困っている時はお互い様だ。
      ロシア人だって同じ人間に違いはない。」

      と村の役人達は言いました
      また、戸田の船大工達も
  (  )
「ここで西洋の船を造るんだってようー。よーし、
      俺たちの腕前を見せてやろうじゃないか。」

      とロシアの人々を受け入れる心が生まれました。
      そしてロシアに帰るまで、半年間の戸田での生活が始まったのです。
      
  
G    プチャーチンら乗組員達は宿泊場所を宝泉寺、本善寺やお寺の近くに
      長屋を建て生活しました。そして、造船所には、よそからの侵入を
      防げると言うことで大浦の牛ヶ洞が選ばれました。

  (  )「ここでの船の建造は認める。ただしロシア人に
      ものをもらうな、やるな、付き合うな、わかったな。」

      と幕府は戸田の村人に対し、ロシア人との交流を厳しく禁じました。
      それでも村人達は、遠く国を離れはるばる日本まできて
      災難にあった人達をほおっておけませんでした。村人達は食べ物を
      差し入れしたりし、日に日に仲良くなっていきました
H    いよいよ近隣の船大工達、ロシアの技術者が集まり
      「日露共同」での船の建造が始まったのです。設計図の完成に
      55日、材料は天城の杉などを狩野川河口から船で運びました。

  (  )「これが西洋船の設計図です。これをもとに船を作って下さい。」
      ロシアの技術者が設計図を手渡しましたが、
  (  )「おお・・これは今まで見たことのない設計図だ。」 
      初めて目にする西洋の設計図に戸田の船大工達は、首をかしげ、
  (  )「この、メートルという長さは、何だ?」
  (  )
「尺や寸に直さないと長さがわからん!
      
船大工達は今まで見たことのない長さの単位や
      構造など、あまりにも違う為、頭を悩ませました。
  (  )
「何かいい方法はないものか?」
  (  )
「そうだ!いっそのことそのままの大きさの
      
設計図を作ろうじゃないか。」

  (  )
「それはいい。 よし、やってみよう!
      
船大工たちは、大きな板を張り合わせ、
      造る船の大きさと同じ設計図を作り上げました

  (  )
「これは解りやすい!」
      
これには、 船大工もロシアの人たちも目を見張って感心しました。
      
I     ロシアの人達の指示や指導を受けながら作業にも慣れ、日本の
      のこぎり、かんな、のみ、そして墨つぼを上手く使いこなし、
      組み立てていきました。

  (  )「おーい、そっちの調子はどうだ。しかしおもしろいつくりだなあ。」
  (  )「ここは、日本のやり方でやったほうが、頑丈になるんじゃないか?」
      と日本の技術なども取り入れ、腕の良い職人達は、朝早くから
      一生懸命働き、正確に丹念に作り上げていきました。
  
J    船の建造が順調に続いていたある日、船大工の棟梁の緒明嘉吉は、
  
(  )「なぜ、この梁がこんな船の真ん中に必要なんだ!
  (  )「この梁は、西洋船では絶対ここにないといけないないのです。」
  (  )「うーん。俺にはわからん!やめだ。やめだ。
      納得できない船は造れん!」

       
と、言って棟梁はその場から立ち去り、
      船の建造はその日からストップしてしまいました。
  (  )「なんとか、船造りを始めてくれないか。  何百人ものロシア人
      たちが、船ができあがるのを待っているんだぞ。」

      御用係たちもすっかり困ってしまい、
      棟梁の」家に行き説得を続けましたが、
  (  )
「俺はやらん、納得できないものは造らん!」
      と棟梁の気持ちは簡単には、かわりませんでした。
      どうしたものかとロシアの人達も村の人達も困ってしまいました。
      そんなある日、慣れない国での生活の疲れから、
      ロシアの青年が体調を崩し、たおれてしまいました。
      
K     それに出くわした緒明棟梁の息子、
      菊三郎は心配し、家に連れて帰りました。
      すると、棟梁は、
  (  )何で家に連れて来るんだ。」

  (  )「だって、父ちゃん病気なんだよ。可愛そうだから、助けてあげようよ。」
  (  )「・・・うーん。仕方がない。奥の部屋に布団をひいてやれ。
      ・・・母さん何か上手いもん作ってやらんか。」

      と、棟梁は、ロシアの青年を家にあげました。
      すると、熱で苦しんでいるロシアの青年を見て、突然棟梁は家を
      飛び出していきました。

  (  )「と、父ちゃんがいなくなっちゃたよ。」
      みんなで、手分けして探してみたがなかなか見つかりません。

  (  )「父ちゃんもしかしたら、あそこにいるかもしれない。」
      と菊三郎は造船所に向かってかけだしました。
  (  )おう。早くこの船を完成させないとな。」
      そして棟梁が仕事をはじめたといううわさを聞いて、うれしそうに
      船大工たちも道具を担いで集まってきました。

  (  )「父ちゃん、何で、また船を造りはじめたの。」
  (  )「俺はなあ。あの青年が苦しんでいるのを見てたら、遠く離れている、
      母ちゃん、父ちゃんにも逢いたいだろうなと思ってな。
      親を思う気持ち、ふるさとを思う心は、一つだ。早くあの人たちを
      ロシアに帰してあげたいと思ってなあ。」

      その言葉を聞いたロシアの青年は、涙を流して喜びました。
      そして、船の建造は順調に進み、ついに完成にいたったのです。
    言葉、習慣、技術、の違いなどたくさんの困難を乗り越え、約100日
      という期間で、日本で初めての西洋式帆船が完成しました。
      完成した船は、2本のマスト、全長22メートル、幅7メートル、
      100トンで50人ほどの人が、乗れる帆船でした。船おろしの日には、
      船を一目見ようとたくさんの人が、牛ヶ洞に集まりました。
      笛の音が戸田の港に響きわたると、大きな船体は海に向かって
      すべりだし大きく波を分け、左右にゆらいで静かに海に浮かびました。
      浜からは、大きな歓声があがり

(  )「皆さん、ありがとう。皆さんのおかげで立派な船を造る事が出来ました。
      日本とロシアの和親条約も無事締結する事ができ、
      これで祖国ロシアに帰ることが出来ます。
      戸田のみなさん、本当にお世話になりました。皆さんに敬意表し、
      この船の名前を
「ヘダ号」とします。」
       
と、プチャーチン提督が言うとまわりからは、ひときわ
      大きな歓声があがりました。
      進水式から、数日後、ヘダ号はプチャーチン提督一行を乗せ、
      大勢の人が見送る中、無事にロシアのペテルブルグまで
      帰ることができたのでした。
M     当時のことを思い浮かべながら松城氏は、
   (  )「ヘダ号の建造、そして日本とロシアの和親条約の締結は
      お父様だからこそなしえた事なのです。お父様の心が
      日本のそして戸田の人々の心を動かしたのです。」

   (  )「今回の旅で私達は大変貴重なお話を聞くことができました。
       戸田の皆さんに父上は本当にお世話になったのですね。
       ・・・ありがとうございました。」

       オリガ・プチャーチナは感謝の言葉を述べられました。
       部屋の中は、いつの間にか夕日が差し込んでいました。

  
N     こうして、戸田の船大工達にとってもディアナ号の沈没で思いがけなく
      西洋の技術を実際に学べたことは、とてもよい機会になりました。
      この頃の幕府は、国を守るにはまず、
      立派な船を待つ事と考えるようになりました。船大工の上田寅吉、
      緒明嘉吉、石原藤蔵、堤藤吉、鈴木七助、佐山太朗兵衛
      渡辺金衛門、たちの活躍は、幕府にも認められ、その後の
      ヘダ号と同じ船を6隻つくり、日本の各地で活躍したとのことです。

      また、その中の上田寅吉は、長崎海軍伝習所の第1期生として
      勝海舟らと共に学び、オランダへ留学し、その後日本の発展に大きく
      貢献しました。勝海舟も
      「これこそわが国の近代造船の始めである」と書で記しています。
      こうして、日本の造船業のリーダーが戸田からたくさん生まれました。
      戸田の先人たちの功績は、戸田に住む私達にとっての誇りです。
      そして、この地この戸田村から日本とロシアの友好の
      道が開かれていったのです。

 
                     終わり

 
2010年1月27日 日ロ協会新年会において 紙芝居を「たちばな」が披露しました。

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