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橘耕斎 (世界で最初の和露辞典作成者) 日本人として最初に密航に成功をした元武士です。 橘耕斎は現在の静岡県掛川市の出身の武士で大阪の滴塾生で 緒方洪庵の門下生で有りオランダ語を習い後に塾長にまで成った人です。 この後の塾長には福沢愉吉です。愉吉は耕斎のことを少しですが本に書いています。 彼は大阪から東海道を下り何故か脱藩をして、 戸田村でロシア人達が帰る船を造るのを知り、 僧侶の格好をして戸田村の大門に在る蓮華寺の坊さんになり オランダ語の判るゴシケビッチと仲良くなり 彼の協力をえて密航に成功しました。 彼が密航に成功した船は第三次のロシアに行く最終の船で ドイツのグレタ号と言う商船で幕府の役人に見つかりそうに成ったので、 カツラをかぶり病人のふりをして、 伝染病だと偽り船底にこもり密航に成功しました。 その後グレタ号は上海沖でイギリス軍に見つかりロシア人を助けたとのことで、 船は焼かれて沈没しロシア人達はイギリス本国へ送還されクリミア戦争が終わる 1年半ほど牢屋でつながれていました。 この時耕斎とゴシケビッチは和露通言思考(簡単に言いますと和露辞典)を 完成させました。 何故こんなに早く和露辞典が出来たかと言いますと、 それまで多くの日本人の漂流民がいたのですが、 彼らは当時日本が鎖国をしていた為 幕府が一旦外国へ行った日本人はどんな理由があろうと入国させてくれないので、 そのままロシアに住み、おもに日本人学校の先生に成りましたが、 かれらは漁師とか水夫なので教養があまりないので、 辞典を造るだけの能力が無く中途半端な辞典だったのですが、 橘耕斎は武士であり、しかもオランダ語が判るので わりと短時間で和露辞典が出来たと思います。 |