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井田の松江(スンゴウ)古墳の18号です。
此処には全部で23号まであるそうです。

この写真は小野先生自ら 三島南高校時代発掘をした時の事を
我々に説明した時の話をしてくれた時の写真です。


此処の古墳は渡来人で 朝鮮の新羅系の遺物があるようです
亡くなった人は当然この石棺に入れますがその後から
新しい死体が来ると前の御骨はまとめられて奥の骨壷の様な物にまとめるそうです
この古墳には7人分の骨が在ったそうです 顎の骨で解るようです
 耳輪も14個ありました’(鉄製です)


地盤は敷石を並べ 壁は小石を積み上げ 天井は大きな石をかぶして
入口は石でドアのようにして開けるそうです
このような方式は日本には無いようです

その当時の日本の埋葬の方法は山の崖のような所に
横穴を堀り入口だけを塞ぐそうです

話はそれますが埼玉県の名前の由来はさきたま郡という地名があり
明治になり行田市の古墳を発掘した所
飛鳥時代の前から渡来人 新羅系の人が住み付き
その頃のに古墳が出来 さきたま古墳という名前が付き
県名も埼玉県になったようです
埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)を検索して下さい


富士山
不尽山、不二山、不死山

フシ、ブジ、火の神

戸田、部田
ヘダ

土肥

トイ

蝙蝠

偏福










西暦1898年=明治31年

この年から東京大学が寮として専用に使用しました

西暦1908年=明治41年

 明治41年に建物を松城家から買いました
土地は国有地のままです


東京駅、日本銀行の設計者の辰野金吾の長男
明治43年辰野 隆(たつの ゆたか)さんが寮委員長
妻の久子は江川英龍の孫、五男英武の子供






西暦1981年=昭和56年

41代江川晃二さんが寮委員長




36代当主、1801 - 1855。号は坦庵

37代当主、1839 - 1862。英龍の三男。

38代、1853 - 1933。号は春緑。英龍の五男英武

39代1898 - 1966。英文、英武の長男

40代英文英武の長男

41代江川晃二

42代江川洋

東京駅、日本銀行の設計者の辰野金吾の長男
明治43年辰野 隆(たつの ゆたか)さんが寮委員長
妻の久子は江川英龍の孫、五男英武の子供




























宝永地震は、宝永4年10月4日(1707年10月28日)

宝永地震から49日後

宝永4年(1707年12月16日)、富士山で大噴火が起こった









安政東海地震(1854年・安政元年)発生マグネチュウド8.4

 地震発生から数分〜1時間前後に大津波が発生し、東海沿岸地方を襲った。伊豆下田、遠州灘、伊勢、志摩、熊野灘沿岸に押し寄せた津波で多くの被害を出した。伊豆下田では推定6〜7mの津波が押し寄せ、948戸中927戸が流失し、122人が溺死したという記録が残っている。また、江浦湾でも6〜7m、伊勢大湊で5〜6m、