音源メディアの変遷 


中波〜深夜放送と遠距離受信


アナログ音源再生計画

レコードやテープなど記録メディア以外の放送音源メディアとしてFM・AM・短波についての話題を扱っていきますが、ここでは中波(AM)として深夜放送の新しいスタイルが確立した1960年代終わり頃のお話しです。

Part1:「受信機と周辺資料の発掘調査」を同時にご覧いただくと時代背景などわかるかと思います。

今以上にテレビだけが唯一絶対のお茶の間の主役であり、脇役にはポータブル電畜・そこそこの裕福な家庭にはステレオが鎮座し、ラジオなど時代に取り残されつつあった頃『若者向けの深夜放送』によって新しい文化が始まろうとしていた頃のラジオの話題です。

中波受信の主役はポータブル・トランジスタラジオ
テレビは一家に一台、茶の間の主役だった時代、受験生(学生)は勉強のため茶の間から追放されラジオがお友達(^^;という方も沢山いたのではないでしょうか。短波少年だった管理人はAMの番組には高校受験が近づくまであまり興味を持たず、もっぱら真空管ラジオを作っては壊ししていたようです。(すでに、その当時は高性能トランジスタラジオが市場に続々登場していた。誤解なきよう(^^;)

そのうち学校でクラスメートが「深夜放送を聞いている」とかいう話題で盛り上がる。特に受験を経験している兄姉がいる同級生などは情報が速かった。無知・無垢な少年は「深夜放送」という言葉だけで、なんとなく艶めかしいような、後ろめたいような、そして大人っぽいものを感じたのでした(^^;
 
 短波少年も話題の中に入れてもらおうとAMをウォッチするが本格的に製作していたのは短波専用の真空管受信機ばかり、AM用はタッパウエアというビニル容器に穴を空けて作ったさえないトランジスタラジオで、チューニングがうまくいきませんでした。それでも自作ラジオのひどい混信の電波を聞くだけでも「深夜放送」というものが「とても面白い」という事はわかってきました。

そこで頭の良い管理人は、私よりさらに無知な親をだましてラジオを買ってもらおうと考えたのです(爆)
「受験勉強に励むにはラジオが必要なんだ。」(ホントカ?)
「お前、何台も作っていたラジオはどうした?」
「あれは『短波受信機』といってアマチュア無線の交信しか聞けない。FMで良い音楽が聞ける本格的なポータブルラジオが欲しいんだ。○○君も△△ちゃんだって持ってるよ」
(当時、同級生の誰々がどうしている、というのが親に何かをせがむ時の常套手段であった。大抵の日本人は『人並み』を好んだのである。今でも同じか?)
「う〜む、しかたない。N工業所から『電化製品を買うなら是非ウチで』と頼まれてたからなぁ」
(当時Nという家電販売・電気工事店のオヤジと父は地元の福祉関係の役員をしていた関係で、よくその店で電化製品を購入してた(^^;)

・・・という、えげつないテクニックで買ってもらったのが、SONYのIC-11という3バンドのトランジスタラジオでした。

この頃、FM・AM・SW(短波)の3バンドポータブルラジオを持つというのが学生のステータス?で、70年代のラジカセ、80年代のウォークマン、現代のケータイと同じ感覚でした。そのため各社若者向けに機能やデザインを競っていました。私も購入の際、このIC-11と同クラスの競合品でNATIONALの製品と聞き比べて見ましたが、感度や分離度(混信無く聞こえる程度)など、その差は歴然としており、迷うことなくIC-11に決めました。
N工業所ではNATIONALは値引きできるがSONYは、ほとんどできないと言われた。しかしポータブル録音機の時も同じように言われて妥協したので、その時はわがままをとおしました(^^;記憶では初めて購入したSONY製品だと思います。

中波の深夜の顔〜関東の深夜放送
FMとちがいAMや短波は昼と夜では全く違う顔をみせます。昼間聞こえるのはNHKの第1・第2・FENとローカル1局だけというのが大抵地方のパターン。ところが太陽が沈むとフェージングやノイズを伴い多くの局が聞こえるようになる。

 特に深夜になると管理人の住んでいる静岡では、北海道放送から九州の福岡や宮崎放送まで日本中の放送局の電波がフェージングを伴いながらも受信できました。

1960年代後半、関東エリアのキー局ではニッポン放送の「オールナイトニッポン」、TBSの「パックインミュージック」、文化放送の「セイヤング」がほぼ同時期に番組を開始し、たちまち「深夜放送」は若者の心を捉える事になったのでした。これら関東のキー局の人気深夜放送は、距離的に近い事もあり学校でも話題になることが多かった。

「ビター・スウィート・サンバ」のレコードジャケットの裏面に掲載されたオールナイトニッポン初期のパーソナリティー。左より高崎一郎・糸井五郎・斉藤安弘・高岡寮(ウ冠無し)一郎・亀淵昭信・梶幹雄管理人の聞き始めた時は高崎・梶に代わり今仁哲夫・高島秀武といったメンバーだったと思います。(敬称略)


1972年のTBSラジオのプログラムの一部。人気深夜放送「パックインミュージック」のパーソナリティーは小島一慶・愛川欽也・南こうせつ・野沢那智&白石冬美・山本コータローとなっています。受信機と周辺資料の発掘調査と同一画像を掲載

真夜中のお笑い番組〜関西の深夜放送
当時深夜の時間帯の放送は、中央局の番組を配信するという事はなく、各ローカル局が独自で制作していました。そのため、我々のような地方に住む者にとっては、人気深夜番組が良く聞こえないという「不自由さ」を逆手にとって○○放送の××という番組が面白いとか、全く知らない地方のローカル番組を聞いた事を自慢したり、情報を交換しあっていました。

そんな中で関西のラジオ局の「ヤングタウン」という番組が面白い、という話題があがりました。深夜12時を回ってからの放送でしたが、公開放送で司会の「カツラサンシ」なるお笑いタレントが登場し「どんなんかなぁ〜」とか言って会場を笑わせ、若手落語家の笑福亭ニカクが抱腹絶倒の新作落語を披露するといった、およそ深夜番組とは似つかない異色の内容でした。

ある程度聞いていくうちに、その番組はMBS(毎日放送)の「歌えMBSヤングタウン」という公開番組(収録は夕刻に行われていた)で司会者は当時関西で売り出し中の若手(^^;落語家桂三枝であることがわかった。といってもまだ「関西」の人気タレントでしか無かった。早速MBSへ受信レポートを送りBCLカードとともにプログラムを送ってもらった。そのプログラムに掲載された写真で初めて桂三枝を見ました。(左画像:右が桂三枝、左:斉藤努アナ本人が「ガリガリ」とは言っていたが声や風貌は落語家のイメージとほど遠かった。


この番組は後に「ヤングおーおー」としてテレビ化され関東では東京12チャンネル(現テレビ東京)が放送し、桂三枝をはじめ吉本のタレントが一躍全国ネットで有名になった訳ですが、この番組で関西の独特の風土というものが若年ながら少しは解ったように思いました。

 とりわけ学生へのインタビューで「キミは何回生?」「京産大2回生です」「オヨヨ、京都から遊びに来てるんかいな」などというやりとりに大学生というのは2年生、3年生と呼ばすに「○回(この字だと思う)生」と呼ぶのか、やっぱり大学は何となくちがうなぁと思ってました。 しかし後になって東京の大学へ進学すると高校までと同じく○年生という呼び方でガッカリしたものです(^^;

谷村新司のいたロックキャンディーズなど多くの関西系のフォークグループも生出演し、個性的な演奏を聞かせてくれました。白眉はギター一本で妙な唄を歌う怪しげな男=月亭可朝でした。この人のギター漫談が面白くラジオにかじりついて聞いているとオチというかクライマックスに近くなって段々と音が小さくなっていく。「おいおい、聞こえないよ〜」と思ってラジオの向きを変えても、ピーガーというだけ。っとそのうち会場の笑い声と拍手で「はーい、月亭可朝さんでした〜」と終わっている(T_T)

所詮静岡と大阪では距離がありすぎる。いかに深夜でも、常に安定して放送が受信できるわけではありませんでした。これは東京のキー局の放送でも同様でした。せっかく聞きたいと思っていた曲が突然聞こえなくなってしまう、そんなことはザラにあった事ですが、我々「地方人」は、それでも関東・関西の人気深夜番組を聞きたくてラジオにかじりつき、より感度の良い高性能ラジオを求めていたのです。

全国ネットの時代へ
しかし「オールナイトニッポン」など関東の番組が人気になると、エリア外の地方の中高生のリクエストも多く取り上げられるようになり、「私の住んでいる地域ではあまりきれいに聞こえないのですが・・・」などというハガキがさかんに読まれるようになりました。
 さすがに地元局も自社制作の番組をいくら流しても殆どが中央の人気番組を聞いているという状況がわかったのでしょう、70年代初めには、ついにローカル局も中央局の放送を配信することになりました。

その時の地元局(静岡放送)の編成はどういうわけか深夜1時〜3時までがニッポン放送の「オールナイトニッポン」、3時〜5時までが文化放送の「走れ歌謡曲」を放送するという内容でした。(今にして思うと地元局は深夜あまりスポンサーが付かなかった。「走れ歌謡曲」は日野自動車の一社?提供で収入を見込めたからか?)

「オールナイトニッポン」がフェージングも無く鮮明に聞こえるようになったのは感激でした。同時期いくつかのローカル局がネットを組むようになりました。多くは静岡より東京から離れた地域だったはずなので、我々よりもっと微弱な電波を受信しながら懸命に聞いていた全国のリスナーも本当に嬉しかった筈です。こうしてキー局の深夜放送の全国ネット化が進んだ70年代にブームとも呼べるほどの人気を得ることになるのですから。(さらにその後、電波法の改正で放送出力が上がり、日中でも関東の局が受信できるようになりました)

その70年代に急速に普及したラジカセは、感度や分離度より音質に重点を置いた設計になりました。深夜放送など人気ラジオ番組は、全国ほとんどの地方局が配信するようになり遠くの微弱な電波を拾う必要が無くなってきたからです。実際IC-11は我が家にある、どんなラジカセより高感度で現在聞き比べても、日中ラジカセでは受信できない弱い電波も受信することができます。


中年になると深夜放送が「若者向け」だという事が身にしみてわかります。なにせ12時まで起きていられない。大学時代はともかく中高生の時は明け方まで聞いていて、よく起きられたよなぁ〜(学校から帰ると深夜放送を聞くために寝た(^^;)
 今では年に何回か飲んで午前様になり、タクシーのラジオから「オールナイトニッポン」が明瞭に聞こえてくると、フェージングの中で耳を凝らしていた頃の事を全然思い出したりはしません(爆)半分寝てるからです(~ o~)zzzそれにしても35年間も続いているとは。。。カメ(亀淵昭信氏)がニッポン放送の社長だからか?
 今、車内のラジオでよく聞くのは「テレホン人生相談」(これも長寿番組)です。りりり〜ン「どうしました?」「離婚の慰謝料についての相談なんですがぁ」・・・思わず耳を凝らして聞いてしまいます(^^;

(C)Fukutaro 2002.11



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