遊行柳で田植えを見た芭蕉は奥州街道を北上して関の明神を拝し、1キロほど先で右折して白河の関址に向かった。
 関東と奥州を分ける関の明神は芦野から約10キロの所にある。芦野で一泊すれば翌朝バスで行けたのだが、頼みの丁字屋は旅館休業中だった。やむなく新白河駅近くのホテルに泊まり、一夜明けてタクシーを頼み明神に向かった。国境は杉の大木に囲まれた僅かな傾斜の峠で、どちら側にも関の明神の名で知られる神社がある。芦野側は玉津島神社の石柱が立っていたが、白坂側には境神社の石柱があるだけ。
 玉津島神社とは衣通姫命(そとおりひめのみこと)を祀る神社で、対する白河側は中筒男命(なかつつおのみこと)を祀る住吉神社と思っていたが、そこに立っていた説明板によると男神は敵を防ぎ女神は内を治めるという考えがあって、奥州側は自分たちの神社を玉津島神社と称して女神を祀り、関東側に男神を祀るというややこしいことになっているのだそうだ。江戸の頃は茶店もあって旅人で賑わい、和算の額を奉納する人もいたが、今はどちらの社殿も古びて神様も手許不如意とお見受けした。 
 道路の反対側に二所の関址の碑があった。かって横綱大鵬を擁した二所の関部屋はこの関に由来するという。そのことが記してあるのかと思ったが、そうではなくここに古代の関址があったという説を記したものだった。説の主は岩田孝三先生と仰有る理学博士で、彼は関守の子孫と共同調査の結果ここにその址を発見したという。定説では関東から奥州に入るルートは、古くは伊王野から旗宿に向かう東山道がメインの街道で、ここに玉津島、住吉両神社が祀られ関があった。義経が金売り吉次の手引きで平泉に向かったのはこの道で、地元の人は義経街道とも呼んでいる。その後芦野・白坂の奥州街道がメインになり、芭蕉もここが白河の関址と思いこんでやって来た。ところが土地の人から「白河の関はここじゃないよ、旗宿だよ」と教えられてがっくり。街道を脇に外れて旗宿を目指す。

 私も芭蕉に倣って、「おくのほそ道」と彫った路傍の石柱の導くままに脇道を歩いた。左手は山が迫り右手は藪に覆われた小さな川が流れている。たまにトラックが通るだけの静かな道だ。金掘という地名があるからには昔このあたりで金でも採れたのか。山は急斜面で呼全神社の額を掲げた鳥居の先は道すらないという有様。芭蕉の歩いたのは卯の花の匂う頃だったが、今はその季節ではない。道路と山が離れた間を収穫の終わらない稲田が埋めている単調な眺めである。芭蕉並みにすたすた歩いて旗宿に出た。曇っていた空はすっかり晴れ上がって満開のコスモスが風に揺れ、その中に地蔵がいくつも埋もれている。
 磐城の勿来、羽前の念珠と並び奥州三関と称された白河の関址は、木々に覆われた小高い丘の上にあった。白河神社の参道に、この地を関址と断じた白河藩主松平定信の「古関蹟」の碑が立つ。苔むした石段同様に狛犬も緑の苔に覆われている。朽ちかけた神社に最近の物らしい赤い金属の屋根がちぐはぐな感じだ。付近は能因法師の
 都をば霞とともに立ちしかど
   秋風ぞ吹く白河の関
 を筆頭に芭蕉の「ほそ道」の一節など歌碑、文学碑が建ち並ぶ。社殿の周辺は昭和34年から発掘調査が行われ、奈良・平安の柱跡や墨文字を書いた土器、さらには門柱の跡などが出土して、たしかに古代の関址であることが確認された。定信の慧眼は160年後の考古学者によって実証されたことになる。  従二位の杉を親分格に巨木鬱蒼と昼なお暗い関址に隣接して、秋の日差しを受けた公園が明るく広がっている。芝生では幼稚園児の一団がお弁当を食べていた。
(左)玉津島神社 (中)旗宿への道 (右)関址の碑