湯本で殺生石を見た翌日、芭蕉一行は芦野に向かったが、地理不案内の山道続きで難儀したらしい。だが「ほそ道」の記述は至って簡単だ。道中何も記さず遊行柳にひとっ飛びである。那須塩原駅で在来線に乗り換えた私は、黒田原駅で下車して芦野まで歩いた。あるかなきかの商店街を抜けると、稲刈りの進む田圃を見ながらの単調な一本道である。町に近づいた所に石切場があった。小学校を過ぎて遊行柳近道の表示のままに田圃の縁を歩く。
 あぜ道にコスモスが咲いている。その向こうに大きな柳の木が見えた。車道から柳に入る道は欄干でもあるのか赤い線が横一線に続いている。近づいて見るとそれはサルビアの花だった。真紅の花が隙間もなく道の縁を埋め尽くしているのだった。
 サルビアに迎えられて遊行柳の道に入った。この道は柳の奥の上の宮神社の参道でもある。道の右手には「清水流るる」を再現したと思われる小川が流れ、彼岸花がサルビアと妍を競うかのように並んで咲いていた。
 石垣で囲まれた柳の周りには三つの歌碑と句碑が立っている。歌碑はもちろん西行、句碑は芭蕉と蕪村である。
 道野辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ち止まりつれ
相対する芭蕉は
 田一枚植えて立ち去る柳かな
    で先達西行を想いながら早乙女を眺める芭蕉が目に浮かぶし、それらを眺める柳も風情ある様子。ところが蕪村は
 柳散清水涸石處々
  「柳散り清水涸れ石処々」とさんざんだ。蕪村と芭蕉の奥州行には50年くらいの時代差があるから、たまたま季節が悪かったのかも知れないし、実際村人に大事にされていなかったのかも知れない。
 遊行柳の奥の山裾には、上の宮神社が苔むした狛犬に守られてひっそりとたたずんでいた。その境内にあるイチョウは町の天然記念物になっている樹齢数百年の巨木で、晩秋の頃はさぞ見物だろうと思われた。
(左)遊行柳の道 (中)芭蕉の句碑 (右)西行の歌碑

 国道を横切って、比丘姿の新町地蔵に迎えられて芦野の宿場通りに入り、芦野氏の墳墓がある建中寺を一瞥して丁字屋に急いだ。丁字屋は昔からのウナギ屋だ。裏を流れる奈良川のウナギを食べさせる店として有名で、私も4年前ご馳走になり、カラリと焼き上げた上品な味に感服した。一方で注文してから焼き上がる時間の長いことにも驚いた。ビール一本では間に合わず、町の写真を何枚も写して戻ってからしばらく待ってやっと出てきた。食べ終わって代金を払おうと思ったら店内に家人の姿がなく、表に出たり調理場に入ったり、帰りのバスを気にしながら探し回ってやっと支払ったという浮世離れした店である。
 「ごめんください」と戸を開けると「いらっしゃいませ」と奥さんが出て来た。いかにも田舎の食堂らしくあか抜けしない店のテーブルに着いてビールと鰻重を頼んだ。ここまでは前回と同じ。どうせ出てくるまでに小半時はかかるだろうと、時間稼ぎにビールをチビチビ飲みながら奥さんをつかまえて4年前の苦労話を聞かせ、その時にご主人に貰った芦野の絵地図を見せたので奥さんが驚いた。
「それは今も使っています。あなた、お客さんが前にあげた地図をまだ持っていなさるよ」
 とご主人を呼ぶ。ご主人が出てきて「すぐ出来ますから」と引っ込んだ。ウナギに集中しているから他のことは聞こえない。しばらくあって焼き上げたウナギの膳を持ってきた。今日は代金もスムーズに払えそうである。他に客もいないのでご主人も芦野の話に参加した。あの地図はご主人が作った物で、一回り大きな那須町作成のガイドマップにも採用されている。壁に掛けてある水彩の原画はどれもなかなか雰囲気のある作品だった。
 丁字屋はかって30軒余りあったという旅籠では上の部類に入る宿だった。上客を泊めた藏座敷が残っていて、予約すればここで食事もできる由。正面は頑丈な扉に守られているが裏は庭で曲者に簡単に侵入されそうだが、昔は裏の防備も固く厠や湯殿も藏の中にあったと云う。
(左)新町地蔵 (中)芦野の宿場通り (右)丁字屋の藏座敷