日光を訪ねた芭蕉は裏見の滝で
 暫時は滝に籠るや夏の初
と吟じたがその先は行っていない。私も同行者がかみさんでは裏見の滝まで歩けない。華厳滝を見せることにして、翌朝一番のバスで中禅寺湖に向かった。湖に着いてもまだ店を開けている所は少ない。観光客目当てのかっぱらいサルも仕事に出る時間ではなさそうだった。男体山は右の稜線に沿って雲がかかっているので妙に尖って見えた。
「男体山は本当はもっと円満な格好しているんだよ。今朝はちょっと機嫌が悪いみたいだな」
「この山は男でしょう。奥さんはいるのかしらね」
「奥さんかどうか知らんがこの向こうに女峰山という山がある。昨日の晩けんかでもしたのかな」
 昔の坊さんには探検家みたいな人がいて勝道上人もその一人だ。天応2年(782)男体山に登って麓に遙拝所を建てた。これが現中宮祠で、その脇に建てた神宮寺は明治の噴火で湖に押し流されたが中禅寺として再建された。かように坊さんが来て世に知らしめた所だから、目立ったものには抹香臭い名前がついている。湖には禅の一字が入り滝は華厳、山も古くは二荒で補陀落の意味。
 これだけ有り難い名を持ちながら、女人が来るのを拒んでいたのは神や仏が女嫌いなのか、はたまた取り持ちする人間のせいなのか。赤鳥居の近くに巫女石という人が立っているような石があるが、かって稚児を装ってここまで来た巫女さんが罰として石にされてしまったのだという。

(左)中禅寺湖 (中)男体山 (右)巫女石

 華厳の滝は落差100メートルに近く、中禅寺湖の水を落として大谷川の源流となる。展望所までエレベーターで下りて長い廊下を歩いた。ひんやりと冷気に包まれる。途中に投身者を供養する仏像が祀られていた。 
 華厳の滝の投身者と言えば有名なのは一高生の藤村操で、彼が万有の真相は「不可解」の一語に尽きるとナラの大木に墨書して、滝に飛び込んだのは明治36年の初夏のことだった。「人生不可解」が流行語になり、3人の同級生を含めて大勢の若者が後を追った。西洋哲学が輸入されて日が浅く、デカルトもカントもショーペンハウエルもみんな一緒にやって来たから、若者の一途な心があれかこれか迷った挙げ句死に至る病に取り憑かれたとしても不思議はない。大人のインテリもショックを受け、黒岩涙香は感動の余り「此少年に於いて始めて哲学者を見る」と新聞に書いた。日本にも哲学者はいないわけではないが「哲学のために抵死する者無きなり」とはすさまじい。
 高校生の頃私が「三太郎の日記」を読んでいるのを見た高等女学校出のお袋が 「タケちゃん、勉強してもいいけど哲学だけはやりなんな」
と何度も忠告してくれたのはこの一事があったからだろう。哲学青年は神経衰弱になるか肺病になるか、どっちにしてもろくなことはないというのがお袋の消しがたい偏見であった。
 展望所から滝まではかなりの距離だが、それでもしぶきが飛んでくるのでビニールコートが欲しいくらい。展望所の裏には涅槃の滝という小さな滝がある。華厳と言い涅槃と言っても滝は滝。飛び込めばただ死ぬだけなのである。

(左)華厳の滝 (中)涅槃の滝 (右)投身者供養の仏像

(平成19年8月27、28日)