常磐線の線路に沿って南千住に来ると大きな首切り地蔵が目印の延命寺。鈴が森と並ぶ小塚原の刑場跡で、前野良沢や杉田玄白が刑死者を腑分けした所だ。橋本左内や吉田松陰が切られたのは小伝馬町の牢だが、墓は隣の回向院にある。五年ぶりに訪ねて見ると区画整理をし直して墓と墓の間に立錐の余地もない。観光客の便を図ったのか、有名人の墓は墓地の隅にまとめて移されてしまった。松陰も鼠小僧も高橋お伝もみんな一緒である。仏の慈悲は万人に平等だから、憂国の志士が怪盗、毒婦と顔をつきあわせていても格段の支障はないのだ。
その名も骨通りという南千住の商店街を歩いて、三ノ輪から来る日光街道と交差する所に鎮座する素盞雄神社には「おくのほそ道」矢立始めの句碑があった。達筆すぎてほとんど読めないが文政三年の建立という。
行くはるや鳥啼魚の目はなみだ
と彫ってある由。
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(左)吉田松陰の墓 (中)手前が鼠小僧・3番目高橋お伝 (右)素盞雄神社 |
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ところで船で来た芭蕉は隅田川のどちら側に上陸したのだろう。「若生て帰らば」と重大決意をもって旅立つからには千住の大橋を渡って出るのが順当と思われる。私ならそうする。だが船で来てわざわざ遠回りすることもあるまいと思ったかも知れない。橋を渡った大橋公園にも戦後に立てた句碑があったが字が違う。
行春や鳥啼魚の目は泪
翌日北千住の安養院で見た句碑も戦後の物で
ゆく春や鳥なき魚の目は泪
とこれも違う。因みに大橋公園のそれは岩波文庫の「おくのほそ道」所載のものを写したのだった。一方同じ文庫の「芭蕉俳句集」では
行はるや鳥啼きうをの目は泪
となっていて江戸時代に限っても三者三様、書く人の気分次第。
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(左)千住大橋 (中)北千住宿場通 (右)北千住の商家 |
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公園の碑文を前に「魚の目は泪、か」と芭蕉の感傷を思いやっていると、こちらは自身の魚の目の痛さ極まったかみさんが「何とかして」と駄々をこねる。
「芭蕉の魚の目なんかどうでもいいことよ。私の方が大変なんだから。これでさっきみたいなお鮨じゃ本当に泣いちゃうわよ」
と脅されて夕飯を奮発するはめに。山の神の機嫌はなおったが、財布の目は泪を浮かべていた。