「ほそ道」の旅は深川の芭蕉庵跡から始まった。舞台は東京の下町だから、夫婦で何か旨い物を食おうとかみさんを誘う。初夏なら良かったがあいにく真夏である。
「あんまり歩かないでね。熱中症で死にたくない」
 今夜泊まる予定の田原町のホテルに荷物を預けて、メトロの清澄白河で地上に出た。かみさんの危惧した通り8月の東京は滅茶苦茶に暑い。今年は地中海地方が熱波に見舞われイタリアもギリシアも山火事続出だ。湿度の高い日本は山火事の心配こそないが、不快指数は比較にならない。かみさんはたまらず自販機に駆けて行く。
「あなたも飲みなさい」
 と伊藤園のペットボトルを持たされた。
 小名木川に架かる万年橋を渡ると、そこがかっての芭蕉の縄張りである。庵の跡と称する所には地元の人の手になる芭蕉稲荷が建ち、その周辺は彼の名を冠した記念館やら記念庭園やらに変容していた。当然ながら「蛙飛びこむ」句碑もあるし、記念庭園には翁の座像もあって隅田川を行き交う船を眺めていた。
 旅立ちの日芭蕉は門人たちとここから船に乗り、千住まで川を遡った。今隅田川を往来する水上バスは深川には停まらないし千住までも行かない。下流の日の出桟橋から浅草吾妻橋までである。
 スマートな水上バスは総ガラス張りで見晴らしは良いがその分暑い。20人ほどの乗客を乗せた船は浜離宮を左に見て勝鬨橋をくぐり、佃の大橋をくぐって快調に進む。ケルンの橋を模したという清洲橋を過ぎると万年橋の下を流れて来た小名木川を合わせ、さっきかみさんと記念写真を撮った翁の像に見送られて、彼が架橋を心待ちに句まで作った新大橋をあっという間に通過した。
(左)芭蕉稲荷 (中)芭蕉像 (右)水上バス
 芸妓の唇みたいに真紅に塗った吾妻橋のたもとには、これも金色の人魂みたいなオブジェを戴くビール会社のビルが建つ。「盛り場浅草はここですよ」とでも言いたげなキッチュな景観が水上バスの終点だった。
 時刻は一時を大幅に過ぎていたので、取り敢えず最初に目に入った回転鮨店に飛び込んだ。店員が満席の客を詰めてくれ、ようやくありついた握りは値段が値段なら味も味。こんなはずではなかったとかみさんは不服顔だが、当座の腹ごしらえをしたので浅草寺にお参りし、吉原通いの客の目印になった待乳山聖天から土手通りを歩いて、今は名ばかりの吉原大門を過ぎ三ノ輪を目指す。三ノ輪でかみさんに見せたかったのが遊女の投げ込み寺だった浄閑寺。「生まれては苦界死しては浄閑寺」と花又花酔が哀悼の意を表した彼女らの供養塔が立ち、その前には遊女や踊り子をこよなく愛した荷風の「震災」の詩碑が横たわっていた。震災で江戸の文化も明治の文化もみんな灰になってしまった。「くもりし眼鏡ふくとても」新しいものは何も見えぬ。所詮「吾は明治の児」と荷風は嘆く。   

(左)吾妻橋(中)遊女の供養塔 (右)荷風詩碑