ラフではあるが、自然の状態で妥当な呼吸をする素質を、多くの人が持っているのではないか。したがって「吹きやすかったらええやないか」にも一理あるのでは?
「自然」と「我流」の違いについて考えましょう。
「吹きやすかったらええやないか」という発言に対して、私は「誤解を招くかもしれない」とコメントしました。
発言者の真意は「自然に呼吸すればええやないか」なのでしょうが、実際には「我流に呼吸すればええやないか」となってしまうからです。
そして、ほとんどの場合、「我流」はきわめて「不自然」なのです。この話は奥が深いので、ここではあまり深入りしませんが、脱力法の話とからめて、いずれ本格的に考察することにしましょう。
どうすれば正しいエクササイズを選べるようになるのか。
エクササイズそのものに「正しい」「間違っている」という差はないというのが私の考えです。
腹式呼吸を「善」といったり「悪」と呼んだりするのも、ロングトーンを神聖視する一派と毛虫のように嫌う一派が対立するのも、不毛な議論だと考えています。エクササイズ自体はニュートラルなものだと思うからです。大切なのは、そのエクササイズを、全体の体系の中で「どう位置付けるか」ではないでしょうか。
「ヨーガ行者がなにかすれば、それはすべてヨーガになる」という言葉があります。坐ることも、息をすることも、寝ることも、すべてがヨーガになる。これは、行者がその行為をヨーガの修行であると「位置付けた」からそうなるわけです。
王向斎がすべての型(=エクササイズ)を無用のものとして廃し、立禅だけで強くなる修行システムを開発しえたのも、究極的にはエクササイズそのものに善し悪しがないからでしょう。そこにあるのは、「位置付け」の正しさだけだと思います。
私は野球は巨人ファンで、とりわけ松井のファンです。プロ野球ニュースなどを見ていると、松井の調子のいい時と悪い時のバッティングフォームについての解説が映像付きでなされています。
解説者は「調子のいい時にはこうだが今スランプでこんな風」などと丁寧に解説してくれるのですが、当の松井がそれが分かっているのか?
またそれを指摘されて直すことができるのか?
そんな疑問がわいてきます。
フォームを矯正しても松井の調子はよくならない、と言うことができるでしょう。スポーツでフォームをうるさく言うのも、管楽器奏法でアンブシュアに注目するのも、いずれも本質からはずれているというのが私の見解です。
なぜか。調子のいい時のフォームも、理想とされるアンブシュアも、外から見える「結果」にすぎません。その「結果」を成立させている「原因」は、パフォーマーの体内あるいは、意識内にあると考えられるからです。「原因」を変えれば「結果」は変わる。しかし「結果」の形だけ真似ようとしても、あまり効果はないと思います。
あの人のアンブシュアが良いからあれを真似しようというのは、数学の宿題で他人の答えだけを写して提出するようなものかもしれません。どうしてそういう答えにたどりついたか、自分ではまったくわからない。「なにがあのアンブシュアを成立させているか」という内面的な「原因」の究明をするのが正しいアプローチではないでしょうか。
イチローが、誰から何を言われようと、あの独特のフォームを変えなかったのは、彼もまたフォームという「結果」ではなくて、「原因」のトレーニングに取り組む認識力を備えていたからだと思います。「認識力」が違えば日々の練習の質が違うというのは、このことです。
管楽器は口で音がなるのだからアンブシュアが一番大事と考えがちですが、本当に大切なのは、奏法全体の中でアンブシュアの果たす役割を小さくしてやることではないかと思います。尻、腹、胸、喉、舌の役割を増やすことによって、相対的に唇の負担を減らす。
こういう制御努力の積み重ねという「原因」があって、はじめてすばらしいアンブシュアという「結果」が得られる、というのが私の考えです。