御教えの「御講話 S10.2.11」に「天の岩戸を開く」というのがある。「天の岩戸は何処かと言うと、小さくは人間の心に岩戸があります。観音様のことを知って悟った人は心の岩戸が開けたのであります」とある。
また、「心と魂は違います。人間の五体全部に行き渡っているのは精霊でありまして、その中心が心であります。心の中心に又魂が入っております。魂は非常に小さいもので心の百分の一であります。又、心は精霊の百分の一で体からは千分の一でありますから、千分の一の魂が千倍の体を左右するのであります」とある。
はて?私はこの文章を読み、魂の大きさの誤りに気づいたのです。説明どうりとするならば、精霊とは五体全部に行き渡っているので、体と精霊は同じ大きさと言う事になります。そうすると、心は精霊(体)の百分の一であり、魂はその心の百分の一ならば、魂の本当の大きさは体の一万分の一であって、千分の一は誤りとなる。(体の100分の1が心、心の100分の1が魂=100 × 100 = 10,000)
「弘法も筆のあやまり」という言葉があるので、別に気にはしていないのだが、なぜ明主様はこれを誤り、その誤りに今まで気づいた人がなく、今私がそれを指摘しておるのかと言う点である。
それは、まさに冒頭にある「天の岩戸」を、私自身の心の岩戸をおし開き、自身の魂に辿りついたからである。
さすれば、魂の大きさが体の千分の一ではなく、一万分の一でなくてはならない理由がちゃんとあるのです。
それは、まず魂は体のどの位置にあるのかについてだが、人の字を見て分かるとおり、二本の棒がささえ合って成り立っているとおり、人の体の中心にある。ちょうど胸の肋骨が人の字の如く分かれている部分が魂の鎮座位置である。この位置が霊層界120段である。
ところが、たいがいの人間は90段以下で、60段以下の地獄的な人の魂の位置を霊視すると足の方にあります。
逆に120段より上位の者は、魂の位置も上へと移動します。
つまり、胸(胃)の位置から上に上にと上がると、のどに辿りつきます。故に“のど仏”と呼ばせる理由も、人間を卒して仏の扉を開けたる者の魂が行き着く場であるからです。仏の魂となれば、人の魂よりも更に小さくなり、人の魂の百分の一まで伸縮自在となる。つまり、体の百万分の一になれば、その魂はのど仏に鎮座する。
次にその魂が光明如来と現し、応神ミロクと化し、真神となれば、額の中心、天帝に辿りつく。人、仏、神の変化に応じ、魂も胸元、のど、そして額へと上に登っていくので、これを上魂と呼ぶ。
ならいどうり、神の魂も仏魂の百分の一とすれば、体からかぞえると一億分の一となる。即ち、世界のヒナ型である日本総人口分のたった一人が本物の救世主という訳である。
「明主様は、なぜこれを誤り、その誤りに気づくものがなく、今私はそれを指摘しているのか・・・」 、明主様はその御教えで説いているとおり、明主様という主は、二度目の岩戸をおし開けて出現した神であって、扉は三つある。
そして、最後の三つ目の扉はまだ開いていない・・・。
いずれ、「狼少年」の段で詳しく語る予定である。