ひとえに神と言うても八百万の神々がいる。
それらの神とて親神が存在しており、その親神もまた親がいる。そうすると、一番はじめの神様は一体誰が造ったのだろうか?(笑)
実は、はじめと終わりは一本のヒモでつながっているのです。
その終わりである証のヒモをつかむから、最後の審判と呼ぶのである。
一切のはじまりは、はじめから存在していたのである。
その存在を宗教は主神と呼んでいるので、「主神」という表現で話を進めると、主神というのは、一にして全体的存在でもあるので、太陽神を主神ととらえるのも、明主様を主神と表現するのも、ともに誤りである。
なぜなら明主とは、日と月の主。
即ち太陽と月球を示している主であり、私が説いているのは日も月も地球も、宇宙も物質界も霊界も神界も、全て兼ね備えた者の存在を主神と位置づけているからです。
そうして主神は、はじめから存在していたものの、自らを分けて分身を造った。これが夫婦神であり、その型を宇宙でみると天球を真っ二つにわけて天の川が流れている。これが七夕(夫婦)の型。
そこに子が出来て三神となり、以後神々を造った。
やがて神は、仏に化身し人の世を創造。これが物質界。
物質極まりに至りて人を覚醒させ、仏に上げて神世に戻すしくみなり。
仏の字をみても分かるとおり、人偏にムと書かせることから人は皆仏になれるが、神になるには定まりし神魂の持ち主のみである。
しかも、全てにおいて順序がある。
「上は下 下は上をとささえ合い
ともにたおれぬ姿こそ人」(光紫庵)
人の字は、まさに2本の棒で絶妙なバランスでささえ合っています。互いの存在を認め合い、ささえ合って生きるのが人の真の姿です。
この人の字にみられる接点こそ、まさに魂の位置である。
「仏とは ム(6)の字
2の矢つがえて神世に戻す」(光紫庵)
人の字と同様、佛の字にも2本の棒が出現しますが、この場合ささえ合っているのではなく、互いに立て合っています。
しかも、弓(9)によって、保たれているのが特徴です。
仏を解くには、まず言霊どおりム(6)の字をほどいてみると、弓(9)と2本の矢が出現します。
この6の字とは、既にHPで示した淡路島の型を数霊にみたてた6の字のことであり、それを180度ひねりて9の字にすることで、仏がほどけると言う訳です。
なぜなら、9の字の指し示す先が鳴門の渦であるからです。
「
たてよこ結び
ム(6)の字の先の神の扉(神戸)と、弓(9)の字の先の仏の扉(鳴門)、開けて導く我は人なり。
神の扉、即ち神社の入口には必ず鳥居(开)がある。
対して仏の扉、即ち仏閣寺院の入口には門がある。
それぞれの入口から入りて学んでみても、これは片手落ちと言うものである。
私はこの2つの扉を合わすことこそが、神仏融合の道だと考えたので、开と門を合わせてみたのである。
そして、扉は静かに開いた。
これが本当の岩戸開きである。
私以外、まだ誰も開けておらんぞ。
なぜなら、左手にメシアの証が現われた明主のみを拝んでみたところで、それは片手落ちだからである。
そこに我れがもつ右手の証を揃えてこそ、合掌が出来るというものである。
これが一対(夫婦)の証であり、一対と合い揃わねばこの扉は開かない仕組みなり。
そして、この扉を開けて出現する神を、主神という。
一番はじめの神ゆえ、一番最後の時代に出現して世を治めるのがものの道理なり。
よいかね!その時代の世界人口は、現56億7千万人を数える平成人口の約半分であること。
つまり、S30年という時代はものの成就の半分という意である。
加えて、日と月と地を分解して369と呼ばせる神意も又、3と6の明主の型は合わせて9の字と一対になり、合計18の半分であること。
「最後の審判は、火素の浄化が顕著に現われる」全くその通りである。
しかし、火というのは下から上に炎え上がるもの。
つまり、上ばかり見ている者は、天上の明主(太陽、月)を仰ぎ見ておるが、実は下の大地(地=人)こそ重要であるが、まだその事に気づいてはおらん。
この人物こそ上へ上へと昇りつめると、逆に上から下へと降りて180度立場が逆転する。
これが転換の意。
つまり、6(淡路)の字の指す上にいる明石(明主様)を9の字にひねると、下に下るということである。
シャカ『7(9)=地』が何故に、右手を天上に左手を下に向けているのか、これで解ったであろう。
(因みに、ミケランジェロの絵画「最後の審判」も、右手を上に示し、左手は下を指しているのも偶然ではない)
左手の明主にすがりし者は下に、右手は上に登る仕組みなり。
では何故、明主が6の字なのか、次の「狼少年」の段で説き示そう。