・・・・・明主様が一介の信者に神懸かり・・・・・

其の1〜其の10の解説

― 解説 ―

 其の110について読まれた方々から表現が難しいという指摘を受けますが、これはある意味当然の話であって、人に伝わりやすい表現というのは緯の世界であって、私が示した110の表現は明主様との対話であり、神の経綸でありますから、経の世界ですので何度も読むことでようやく心眼開かれ直感力も増す訳です。しかしながら、難解な部分を含んでいることも否めないため簡単な説明を加えたいと思います。

 まず述べたいことは、神々の経綸とこの論(110)のポイントは一致しており、全ては偶然ではなく必然の連続である事です。万物の経綸が偶然ではなく必然であることを示せることとは、一体何を意味するのかを人はまだ気付いていないのです。

 全ての過去及び現存の進行が、偶然ではなく必然であるという事は、我々の未来は定まっているということです。

 その定まった未来から光を体感することが即ち金剛界の入口であり、同時にそれは胎蔵界の終焉を意味するのです。


 つまり、この胎蔵界の期間が物質主体の9分9厘であるから、その終焉とは最後の審判を意味する訳です。昼の世界、昼の世界と唱えながらも、浄霊力が増さない要因も経綸がまだ夜の世界を抜けきれていないからです

 経綸上の胎蔵界とは、人でいう母胎の胎児と同様であるから、1010日胎内で回転して生まれる如く、地上たる経綸の中心も回転して万物の浄化を可能とする鳴門にある訳です

 私はこの鳴門で10年過ごして、自らの魂を金剛界へと昇華した訳ですから、万民を金剛界に導くことも鳴門の底に沈める浄化を起こすことも可能なのです。

 明主様から私の前世が千利休であると告げられた真意とは、利休と国常立が同じ魂である事と、日本の地形が一致している点を括目すれば、審判の神である「国常立」イコール「千利休」の使命が見えて来ます。

 千利休は切腹により自らの使命を全うしました。切腹とは自らを分けることであるから、霊主体従の法則により 利休死後まもなく日本を二つに分かつ「関が原の戦い」に現れた訳です。関が原と琵琶湖は目と鼻の先であるからほぼ日本の中心になるので、人でいう腹の位置を示すことになります。

 日本を分かつ経綸の原点は、天照とスサノオの領土問題にあり、この戦は大和民族と出雲民族という捉え方も出来ます。あるいは太陽と太陽を隠す雲との関係でもある訳ですが、この両者の合一が審判の神へとつながる訳ですから、真の敵とは対立する相手にあるのではなく、自らの内にあると知らねばならないのです。

 スサノオは三女神を生むことで、自らの内に争う心がない事を示しているのに対し、天照からは五男が誕生しているので、常に争いがつきないことを知らねばならないのです。

 大事なことは、五男三女の結合は八大竜王であり、五三の伊都能売金竜にと昇華する経綸であるから、伊都能売大神の経綸を語り示す人物が琵琶湖から出現している訳です

 私の本籍は 滋賀県甲賀市水口町泉という地であります。これは明主様昇天の地である「熱海市水口町」と深いつながりがあるというのです。この水口と水口とのつながりが琵琶湖の水瓶と関係しており、明石と垂水の水も又経綸上でつながっていることの理由とは、「明石の水が垂るる」で、水の石とは即ち水晶のことなのです。

 明主様が箱根、熱海につづいて京都に聖地を定めたのちに、一番最後に水晶殿を完成させているのも「五六七」を解きし先に水晶の如く清き御魂とならんことを型をもって示しているのです。

 五の箱根のみとか、六の熱海のみにとらわれし者々に、七を語る資格はないし、ましてその七の京都平安郷に御奉斎した大弥勒の経綸が解ける道理もないわけです。

 3つの働きを備えもつ五六七大神(弥勒大御神=大弥勒)を解き、2つの働きの伊都能売大神と理解し、一つの天照皇大御神との一体が三位一体でありそれを完成させた者のみが水晶の明石(証)を手にするのであります。これが本当の如意宝珠であります。

 日本の地形が竜体であり、竜神をヒモ解くことで審判の神である国常立尊の経綸に移行することは既に示したとおりでありますが、この証明は検証をもって示す必要がありそうです。




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