・・・明主様が一介の信者に神懸かり・・・
人の言葉に言霊があることは周知のとおりですが、全ての数には数霊があり全ての形にも型霊があります。この「言」「数」「形」が一致してはじめて大経綸がヒモとけることは、あまり知られていません。先の論で示したとおり、日本の地形には竜神の型霊が働いており、型霊どおりの言霊と同時に数霊も働いているのです。
問題なのは、これらの経綸と明主様がいかにして繋がっているかを解き示すことにあります。言い換えれば、それは最後の審判の行使にも繋がるのです。
例えば、「
誰ぞ示し申した人物が歴史上にいますか?
明主様とて、鳴門が浄化の中心であることは説いたが、示した訳ではなく、「いざなぎが、ゼウスが、エホバが、天照皇大神が主神である」とは申したものの示した訳ではありません。
「示す」とは、かくも全ての時期と経綸が一致してはじめて成就するものだからです。
まさに今が、その時なのです。
一切の浄化の中心が鳴門の渦にあることは、明主様が説き、鳴門と神戸をはさんだ淡路島が、オノゴロ島と称され、自ずからコロがる経綸であることは、記紀(古事記・日本書紀)に印されており、それらの神々の経綸と明主様がいかにして繋がっているかを解き示すのが、我の使命であります。
これは「垂水」が「本地垂迹」(其の6)の意であることを教えられた事にも通じ、明主様は本地垂迹を次のとおり述べておられます。
「本地とは、本元の国即ち日本であって垂迹とは、教えを垂れる事である。故郷である日本全土に一度仏の教えを垂れると共に仏華を咲かせ実を生ませなければならないという密意である」と。
故に垂水とは、明石(証)の水の教えを垂れることを意味します。
この水は、明主様昇天時の水口町、そして我が誕生の水口町が水つながりであることと琵琶湖の水がめ(壷)を示すものであり、鳴門に垂れるまでの全てが繋がっている事を証明するものです。
証というのは、文字どおり言を正すと書き、今までの間違った解釈や教え(言)を正すということです。又それをしらべる(検)から、検証という表現を使っています。
「信じる」ということは、誠に尊いことです。しかしながら、単に信じ仰ぐだけの信仰に行き詰まりが生じています。
明主様からの御教えを確信し、それを引き継いだ我らが確証という形で打ち示さねば、誰も信じない時代に入っています。
何をどう検証していくべきかを共に考えて行きたいと思います。ここでもう一度、其の1〜10を読み返してみて下さい。新たな気づきがありますから・・・。
以上
(検証A、検証Bと続く)