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世界救世教にとって大切なことは、明主様の御教えにあり、これは信仰の原点でもあります。
他に見られない世界救世教の特徴は、御浄霊にあり、これは 明主様の光によるものであるが、この光について最も重要なる御教えは2点。
1点目は、昭和5年、午の年、5月5日、正午とゴが5つ重なった日に、主神より如意宝珠を授けられて以来、病を治すべく浄霊力が増した事。
これは、過、現、未のことごとく分かるという光の玉です。
ー御教えー
「私の腹の中には光の玉がある。この玉こそ到底説明出来ない幽玄微妙なるもので、いわば主神が自由自在に行使する神器であって、昔からいわれている如意宝珠、まにの玉がこれである」(「私というもの」昭和28年4月25日)
また、明主様は「この玉にヒモがついていて自らもあやつられている」と述べておられる事。
2点目は、昭和25年6月15日、庵原において、○の光の玉の中に、・の主神が入って、の神人合一の型を示されていること。(天国の礎上p363では、「刑務所内」という表現を使われています)
以上の点を要約すると、
@明主様の腹中に光の玉を投げ入れたのは、主神であること。
A光の玉には、ヒモがついており、主神が明主様をあやつっておられること。
B時至りて、昭和25.6.15、主神は御自らその玉の中に入って、神人合一の型を示した。言わば明主様と主神は、玉を通じて一本のヒモでつながっているということである。
おもしろいと思うのは、人類始って以来の神人合一が、なぜ「刑務所の中」なのかという点であるが、これも実相なれば、そこに重要な理由があるはずです。加えて、なぜゴが5つ重なる日に主神は玉を投げたのかという事と、6月15日の神人合一には、実は見事に繋がる理由があったのです。
この証明の方法は、既に明主様から詳しく教えられていますので、これは「神の経綸」の段で示します。
「伊都能売の働き」
明主様の御教えによりますと、伊都能売の働きとは、東洋文化(木)と西洋文化(石)の結合が、伊都能売であり、東洋は「経」、西洋は「緯」になり、結んで「神=+」となります。
太陽も月も東天から昇り、西に沈むので、東西とは日と月であり、5と6の働きでもあるので、熱海と箱根が力を合わせねば、京都、土(地)の7は完成しないと言うことです。
単に熱海の6のみに汲々とした結果は言うに及ばず、6の水のみでは、いかに7の聖地に手を加えようとも、母親のみで子を育てる様なものであるから、子である土が固まり完成する訳がなく、今尚いづのめに浄化が続く原因もここにあると思われる。
「三位の整理」
世界救世教の教学及び神観の確立に欠かせないのが、三位の整理であると考えます。
明主様の御教えから、「三位」を整理しますと、弥勒の基本は、369(ミロク)であるが、567もミロクになります。また、山海平は火水土であり、日月地になります。
そして、5は心臓で玉、6は肺臓で剣、7は胃の鏡と示されていますので、5の箱根は心臓になり、6の熱海は肺になるので、心臓と肺がバラバラでは、世界救世教という体が健康でいられるはずがないのです。
山も海も、心臓も肺臓もそれぞれに違った特徴があり、役割がある。互いに与えられた使命があることを認め合うことが、御教えに叶った信仰と言えましょう。
「大弥勒と三位一体の意義」
大弥勒とは、平成6年6月6日、京都土の聖地に御奉斎した神の御名である。先に示した、三位のミロクは、5・応神弥勒、6・法身弥勒、7・報身弥勒であって、大の字はない。
しかし、なぜ大弥勒は弥勒に大の字がついて、大弥勒と呼ばせるのかを解く時、これこそ、5(心)、6(肺)、7(胃)の、バラバラであった個々三者の弥勒が一体となると、その示す姿も大きくなる為、弥勒に大の字がつき、大弥勒と呼ばせると気がつけば、大弥勒とは三位が一体となった御名であるということが分かります。
同時に、そのプロセス(大経綸)も読めてきます。
以上の点に加え、明主様は、「天照皇大神は一つの力であり、伊都能売大神は二つ、弥勒大御神は三つのお力となり、これが三位一体であり、完全になる」と御教えているとおり、三位を備えもつ弥勒大御神だけでも、火と水の伊都能売、及びの天照皇大御神のみでも完全ではないという事です。
この三神、三つの経綸をヒモ解いて、一本に繋いではじめて答えが出せる仕組みであったのです。
それらを証明するために、核心となる御教えを紹介します。
@. 「日月地大御神は、これから世に現われるのです」(明主様、昭和23年11月18日)
A. 「弥勒大御神は、土のお力、即ち肉体をお持ちになってご出現と存じますが・・」の質問に対し、
明主様:「ええそう、そうです」(明主様、御光話録、昭和23年5月18日)
B. 「一厘の種はメシアとは違う。神様のやられること計画は、非常に深く絶対に判らぬ。経綸は最高の神たる国常立尊様でも判らぬと仰せられる。経綸の主体は、大弥勒の神で、この神が経綸の中心である。最高の神の経綸は、善悪両方を造って操って居られるのが神である」(明主様、御講話、昭和25年8月1日)
日月地も弥勒も、ともにミロクであるから、日月地大御神及び弥勒大御神は同一神である事。
また、大弥勒も大の字と弥勒がついた神名であるので、同一であることはすぐに解せるが、重要なことは、明主様は、この神が肉体をもって出現することを認めつつ、「これから世に現われる」と自らも述べられている点である。
これが、明主様御自身の肉体を意味するならば、「これから世に現われる」という表現は適切ではなく、「すでに肉体をもって出現している」と説くであろうと思われるので、明主様以外の出現者を説いた御教えであるということです。しかも、「この神が経綸の中心である」と説いています。
今、教団は、明主様をメシアと位置づけていますが、明主様御自身は、「一厘の種はメシアとは違う」とハッキリ述べていることから、メシア論だけでは、御教えはヒモ解けず、人の迷いをうち消すこともかなわないのです。
御教えどおり、一厘の種の御魂が、この現界に人間として肉体をもって出現しない限りは・・・。
また、離脱した教団の中では、明主様を主神と位置づけている方もいますが、これも大変な誤りである。神懸かり(H7.4.8)の時も、明主様は「自分は二番目の神」と述べられ、明主様の上に主神がおられることを教えていただきました。
それに、明主様御自身も御教えで、「私といえども造られた存在である」(岡田茂吉全集、著述篇第12巻P100)と述べられている点からも、主神自身なら上言は矛盾します。
従って、天にいる日と月の明主様と現界地上に人として、土の働きをもって出現する大弥勒が合一する経綸こそが、天と地をつなぐ日月地(567)の一厘の力であること。
「神の力は十全であり、邪神の力は九分九厘であるから、神の方が一厘勝っており、この一厘の力をもって掌をかえすので、この力こそ如意宝珠であるから、私が常にいうごとく、現代文化は九分九厘までで切替えとなり、その時がキリストの言われた世の終りである。
従って、この時こそ霊界においては、仰天動地の一大異変が起こるのは必然で、このことを信じうる人にして永遠なる幸福者となるのである。」(天国の礎、宗教下、「九分九厘」)
世の終りも、仰天動地の一大異変も、まだ起こっていない今の世こそは、九分九厘であって、故に一厘を証明できない限り、教団の教えもまた、九分九厘の指導であることの自覚と認識をもつ必要がある。よって、一厘の力はこれから発動されるということです。
ここで、大弥勒について、当時の松本総長のインタビュー発言があるので抜粋します。「明主様が一厘之力ご発動」新生時報別冊(H6.6.6発行)
「平成6年6月15日、今年の地上天国祭を考えてみますと、平成5年、6年、7年と567(ミロク)になります。平成6年はその真ん中の年です。そして、6月15日“日の神様”が誕生された日であると明主様はおっしゃっています。
「今年の平成6年6月15日は、まさに567の年の、しかも“日の神様”の御出現の日となるのです」
「この日が、“日の神様”の御出現であり、神様が表に出られるということのご神意を信じざるを得ません」
「現界に日の神様がお生まれになることです」
「御教えでは、夜の世界は天が六、中界が六、地が六になっていて、六六六の世界は夜の胎蔵界である」
「平成六年六月六日は、夜の胎蔵界を現す日になります。その日に大弥勒御尊像を平安郷にご奉斎申し上げることは、“一厘の神魂”が天からお降りになる型であり、これは一大慶事であります。」
「明主様の御教えには、経綸の主体は大弥勒の神で、この神が経綸の中心であると説かれています」
「この神様が、地上天国建設の設計者、現場監督の神様です」
以上のとおり、平成6年6月6日の大弥勒御奉斎の意義は、666の胎蔵界の型にある為、平安郷の18,000坪(当時)の地形も入口が狭く、奥が広い子宮の形になっていたのです。
明主様の御教えも、新生当時の総長の弁も、その誕生を“日の神様”と表現し、一厘の御魂が天から降りて、日の神が現界に出現するという教えであった訳です。
平成6年6月6日に大弥勒を奉斎したことは、一厘の御魂がまだ胎蔵されていることを意味するが、大弥勒が地上天国建設の設計者であり、現場監督であるとハッキリ示しています。
それが、いつの時点で新生(いづのめ)は、“日の神様”の表現も大弥勒御奉斎の意義も示さないまま、教主中心にスリ変えてしまったのでしょうか。
ちなみに、私が入信したのは、H6.6.6の年であり、666から数えて、ちょうど「181」日目のことです。
以上を整理しますと、
□ 明主様と主神は、光の玉を通じ一本のヒモで繋がっていること。
□ S25.6.15, の ・ は主神であり、日の神であること。
□ 日月地大御神は、これから世に現われること。
□ 弥勒大御神は、土のお力、即ち肉体をもって出現すること。
□ 経綸の主体は、大弥勒の神で、この神が経綸の中心であること。
□ H6.6.6 に京都、土の聖地に大弥勒の神が奉斎された型同様、肉体をもって出現する本体(人間)の胎蔵(666)の型も示されること。
日月地大御神、弥勒大御神、及び大弥勒の神も、ともにミロクであり、大の字がついた神名である為、同一神であることは先に指摘したが、前者は大の字が後に、後者は大の字が頭についている点こそ、経綸上大変な意義があるので合わせて「神の経綸」の段で示したいと思います。