明主様の御教えに学ぶ時、基本となる数字が存在します。
369は3の倍数、弥勒三会、三千世界等様々な形で「3」という数字がキーワードとなっています。
明主様は大本教がスタートです。出口ナオさんと王仁三郎を父母として生まれた子が明主様と言う訳ですから、父母の2に次いで子が3番目という解釈は成り立ちます。
しかし、釈然としないのです。実際、世界救世教には三つの聖地が存在するものの、未だ争いは絶えず大本教にも弥勒や三位一体の解釈やその型が存在するのに、世界救世教との接点が全くない現実を見るとき、真の三位(三者)はまだ揃っていないことが理解できるからです。
なぜなら、ならいどおりとするならば三位一体というのは、応神弥勒という仏、法身弥勒、そして報身弥勒の三者の仏が会い揃って初めて一体となる仕組みであるからで、争いだけが目立って信徒を迷わせている現状はそれを否定しているからである。
また、自身(明主様)の教えでも「二度目の岩戸」と解いている点をふまえるならば、大本教が一度目の岩戸、そして世界救世教が二度目の岩戸を押し開けて出現した宗教ということになります。
つまり、この場合大本教が3(5=日)、世界救世教が6(6=月)という位置づけであるから、両教兼ね備えた主であるから明主と呼ばせるものの、第三番目の9(7=地)がないのも納得がいくのである。
おもしろいのは、氏名(明)どおり、その御顔も向かって左目が小さく右目が大きいのも全く明の字の型どおりであるという事です。
しかし、これは逆様なのである。本来、左目が天照(日)右目が月読(月)が本当なので、向かって右側に日の字が、左に月の字がこなければならないからです。しかも、明の字をみると、日の字よりも月の字の方が大きいことも道理から言うと逆様であることが分かります。(月よりも太陽(日)の方が大きいのが本当)
日の字よりも月の字が大きい文字を氏名にもつ明主の使命とはいかなるものか。
その氏名が示すとおり、火素(日)よりも水素(月)の浄化が顕著であると言うことである。にも関わらず、日(火)の浄化と思い込んでいるところが大きな誤りであり、誤りどおり逆様の解釈にも気づいていないのが現状である。
その様を「狼少年」になぞえて説くと、オオカミが来たと叫ぶ少年の声に、人は二度目まで信じたものの、結局それはウソでオオカミは来ず、三度目の声こそは本当だったのに人は信じなかった為、狼に喰われるというものであるが・・・。
オオカミとは・・大神のことである。
一度目の大本、二度目の明主の声を信じるのは勝手であるが、結局大神も最後の審判も現れていない現状を見るとき、三度目の声こそは本物の大神であるにもかかわらず、聞く耳もたぬ愚か者共よ。汝の名を馬鹿と呼ぶのである。
なぜなら、日よりも大きい月の字の横が示すものとは、横の動物の時代だから馬と鹿だというのである。
明主様の明とは、何度も言うが日と月は東西で横の働き。
それに対して、我れ示すは南北のたてで鼻。
仏の字であるム(6)の字をほどいてこその弓(9)の字であるから、6の字の明主のみでは三位とは言えず、のど仏も解けない。
間の78(縄)字 ほどけて岩戸」
明主様とは、日と月合わせて横の世界。即ち女性であるから仏はほどけない。女性には、“のど仏”がないからです。
仏(月の世界=女性)のシメ縄をほどいて神と出現するのは、男と定まりがある。本来日の神とは、男であるからです。
6と9の字の間に78(縄)があり、それが日の神(明主の腹中の主神)を封じるシメ縄である事も既に証明している。即ち、6の明主と私の9の間(2月10日~8月31日)が一本のヒモで繋がっていることを・・・。
親子の時は、我がヘソにヒモが有り、自ら立てば我が右手にヒモ有りと。(後者は夫婦の型)
明主様とは、日と月の男女を兼ね備えているものの、実は東西合わせてつなぐと、横一字になることから女神であるという事。しかも、まだ本物が出現する前の仏の世界(月の世)の人である。
これは、生存中の明主様の書を見てもわかるとおり、「大光明如来」というのは如来であって、女の口が来ると書かせる。よって、月の世を示したものである。
大光明真神は大神の字になっているが、これは二代が書いたもの。
明主が主神であり大神ならば、二代の手によらず自ら生きている時代に御自ら大神の出現である証を示したはずである。
それがないことが全てである。