明主様は、1882年12月23日、東京浅草の橋場63番地(現2の2)で生まれ、1955年2月10日午後3時33分にその使命を全うし、天に召されました。場所、熱海市水口町の碧雲荘のことである。
時至り、1964年8月31日、私は滋賀県甲賀郡水口町大字泉189番地で誕生しました。
それから実に30年後に私は世界救世教に導かれ、明主様から己の使命を知らされた訳ですが、その折ある重要なことを知らされたのであります。
それは、明主様昇天後の現界の地の経綸を引継ぐべくして生まれたのが私の使命であるため、その証として明主様の昇天の地名と私の誕生の地名が、同じ水口町として繋がっているということです。
この繋がりは、日と月、5と6の明主様の経綸を継ぐ者として、地の7の使命を以って567で繋がっていることを証明する必要があると言うのです。
それは、明主様の昇天が2月10日であり、私の誕生が2月10日から数えてちょうど567日目の8月31日に生まれたと言うことです。(図1参照)
そこで図式で示して、更に詳しく 間を検証した結果、
1955は、1+9+5+5=20=2+0は 2月10日は、2+1+0=
1964も、1+9+6+4=20=2+0は 8月31日は、8+3+1=12で1+2= で同数になる事。
また、1955年は昭和30年なので となり、1964年は昭和39年で3+9=12=1+2の で、これも同数になるので下記の図式と並びます。(図3参照)
では、なぜとで繋がるのでしょうか。
それは、5(日)と6(月)の明主様と繋がっていることを証明する為であり、その繋がりが、これもまた日と月の210から数えて567日目の831であるというのも納得がいく訳です。
このとが2つ重なり、で繋がるということは、既にホームページで示している神戸と鳴門のゴロゴロ(雷)の経綸にも通じています。
また、この繋がりの始まりは明主様の原点にあります。
つまり明主様は、1882年浅草で生まれています。浅草と言えば浅草寺であり、すぐに頭に浮かぶのはあの雷門であります。
とするならば、図式の水口と水口の繋がりは、明主様生誕から始まっていると考えれば、全ての数字(数霊)に大変重要な意義が隠されていることになります。
そこで私は、橋場63番地の「63」という数に注目致しました。
63という数が明主様の始まりの数字であるという事と、明主様の氏名である日と月の暦の始まりである、正月(1月1日)をかけ合わせて、元旦から63日を数えてみたのです。するとちょうど3月3日をさし示したので、明主様が常々御教えていた「私はヒナ型の使命」と言う事の意味が理解できた訳です。
そうすると、それが私の誕生と意味をなすならば、水口町泉189番地の「189」という数にも、上言と繋がる意義が隠されていなければなりません。
1月1日の元旦から数えて、ちょうど63日目が3月3日でしたので、更にそこから63日目を数えたところ、何と5月5日(かの光の玉の日)になり、5月5日から数えること、ちょうど63日が189日目であり、その日とは7月7日の七夕の日でした。
七夕は夫婦を意味します。ヒナ型のヒナ人形も夫婦の型です。
そして、それを証明した番地のの意もまた、つがいとか夫婦を意味するので、理に叶っていた訳です。
しかも63番地は、現在2の2になっているので、これも数霊と言霊は見事に、夫婦をさし示していたのです。
また、63が3月3日のヒナ型の日であり耳の日でもあるので、63に耳(みみ)の3(み)をかけると189に繋がった訳ですが、耳にはもう一つ、3(み)があるので更に189に3(み)をかけてみて下さい。
私が明主様と567で繋がっていることの証が、ここにも隠されていることに気づきますから・・・(笑)(図4参照)
更に検証してみると、明主様の昇天は73才、そして9年後に私が誕生ですから明主様生誕から数えると82年になります。
そこで、間の数を調べると、8月と2月が繋がるので、確かに8と2の82になります。
また、82の言霊は「ハーフ」とも読めます。これは10日(2月日)と31(8月日)を足すと41になるので、82のハーフが41であること。
82も41の数も「一厘の証」を示す段での、369数霊盤に出て来る重要な数字ですので覚えておいて下さい。
つまり明主様の使命とは、夫婦の半分(ハーフ)であり、その魂は女神であると言う事です。(図5参照)
(参考資料、岡田茂吉全集第二巻から)
「変性男子、女子について、~ 男が女に生まれると変性男子。女が男になるのが変性女子。私も変性女子です。第一身体に毛がない女みたいなところがある。まぁ女々しいですね」
(同第4巻) 「私なんか前の世は人間ですが女だった」(明主様)
* 369(ミロク)の 3 と 6 は日と月で明主様。
ゆえに、3 と 6 を足すと 9 になり、残りの 3 6 の 9 の半分(ハーフ)であろう。
ことごとくが偶然ではなく、必然として繋がっていることが証明できたと思いますが、本当に重要なことは、- 間は明主様御自身なので繋がるのは当然ですが、--が全て必然としての証明が可能になると言う事は、即ちである私の死が、天元術によってはじき出せると言う事です。(その方法も明主様から全て教えられています)それは、死を克服して人々をミロクの世の実現へといざなえると言う事です。
いずれ「一厘の証」の段で語る予定でいます。
因みに、左図(戸籍抄本)の本籍にある椙本寿は私の父親であるが、誕生日が12月23日です。 (笑)
それだけなら単なる偶然で終わるのですが、私の性格がそれを許しません。そこで私は、明主様の原点を洗い出したのです。
明主様とて始めは、大本教の一介の信者であった。その時の信仰上の父親は、出口王仁三郎氏であり、母親はナオさんです。
その父親役の王仁三郎の本名が、上田喜三郎と言い、明主様の実の父親である岡田喜三郎と名前が同じだったのです。
そこで私は考えたのです。
なぜ明主様の親は名前で繋がり、私の親は月日なのかと。
まず、喜三郎の喜とは七十七であるから、七は名に通じるので七(名)と七(名)を十(足せ)と気づけば訳はないし、明主様の氏名(使命)は日と月なので、私の父との繋がりは生年なのだと。
「上田のド 田(ド)で繋がるは岡田のド ドの字ドの字で手綱は我が手」
椙本典大