新緑まばゆい頃、久しぶりに同労者のT氏と箱根にドライブに行った。三島に住んでいる私にとって、箱根は車で30分。今までにも何度も行っているが、彼にとっては中学時代の修学旅行以来とか。青々とした森林の中をドライブするごとに、「やあ〜、緑はいいね。山はいいね。うちの方は、見渡すばかり田んぼと畑ばかり。青々とした自然は心が休まるよ」と、感動しきり。久しぶりにくつろいだひと時であった。
しかし驚いたことは、どこに行っても、団塊の世代とおぼしき観光客ばかり。
20代、30代の観光客は皆無と言っていいほど見当たらない。「団塊の世代は第一線を退き、第二の人生を歩み出したのだな〜」と、何故か親しみと、ちょっぴり寂しさが心をよぎった。
今や人生80年。退職後も、約20年近く生きることになる。それは余生ではなく、まさに第二の人生である。しかも人生を締めくくると言う、今までとはひと味もふた味も違った大切な意味があるはずだ。観光に行くのも良いだろし、趣味に熱中するのも悪くない。
しかし、それと同時に、永遠の終(つい)の住み家についても考えてはしいものだと思う。人間は永遠に生きられるものではないのだから。
聖書に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」(伝道者の書1.2章1節)。ここで言う「創造者」とは真の神のことである。そのお方については「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)と述べられている。
信仰により「永遠のいのち」を目指して歩んでゆく時に、心の奥底に、平安と喜び、移ろう事のない希望が与えられるのである。
私自身も団塊の世代の一人。かけがいいのない一日一日を、永遠のいのちをめざして有意義に歩まねばと思わされる。
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