「何の為に生きているのだろうか?」
この疑問は、古今東西、ほとんどの人が、一生のうちに何度か考えることではないでしょうか。
私も学生の頃、この問題について考えました。結論は、「人生には目的はない」と言うことでした。何故なら、人間も動物の一種であり、ただ他の動物より脳が発達しているので、こう言う事を考えるのだ。犬や猿に生きる目的がないように、人間にもないのだ。だから、「何の為に生きるのか」を考えるより、「いかに生きるか」を考えるべきだ、と思うようになりました。
そこで、人生の設計を立て、学校の先生になりたいと思いました。しかし、たとえ頑張って校長になり尊敬されたとしても、やがて死に、忘れられてしまうかと思うと、何をしても空しいという思いに襲われてしまいました。
その頃、私は神様の事は良く分かりませんでしたが、自然界の背後に神の存在を感じていました。やがて教会に行き、聖書の話を聞いているうちに、今までの疑問が全て解消されて行ったのです。神が全てものを造られ、私も神によって造られたのなら、その目的があるはずです。その究極的な目的は「神を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛する」と言うことがわかりました。
そしてわかったことは、人間は神の創造の目的に反して、神が嫌われる事(罪=うそ、悪口、争い、憎しみ、そねみ、盗み、好色、不品行等)をした為に、死後、裁かれねばならない。しかし、神が私達を愛し、私達の身代わりに、神の御子イエス・キリストを十字架につけて下さった。この事を信じる者は罪が赦され、裁かれる事なく、永遠のいのちを戴く事が出来る、と言うことです。私はこの永遠のいのちを戴き、「人生の空しさ」から解放され、感謝と生き甲斐を感じています。
聖書の中に、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)と記されています。これは全ての人々に対する神様の約束です。
あなたにも是非、この素晴らしい恵みを知って欲しいのです。
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