今月のメッセージ 90-020902
「いのちよりも大切なもの」        星野富弘

実は、聖書を開くのには、随分抵抗を感じていました。「あいつは苦しくて、とうとうキリスト教と言う神さまにまで、すがりついたのか・・・。」と、周りの人達に思われるような気がしてならなかったのです。ですから、聖書を開くのに、自分でも色々な理由を考えてみました。歴史の勉強になる・・。退屈しのぎ・・。先輩の好意を無駄にしないため・・。でも、本当の気持ちは、自分が一番良く知っていました。黒い表紙のその一冊の中には,あの粗末な寮の食事に感謝できるように、米谷さん(大学生時代、寮の食堂でよく同じテーブルに着いた先輩の一人で、彼はいつも、お祈りをしてから食事をしていた。その敬虔な姿にはいつも心を引かれた。)を変えたみたいに、私を何とかしてくれるものがあるような、ひそかな希望があったのです。怪我をして、まったく動けなくなり、気管切開をして、口もきけなくなった時、そういう日が、幾日も幾日も続いた時、私は自分の弱さと言うものを、しみじみと知らされました。
私は体力に自信があったため、いつの間にか、からだを動かすことによって、何でも出来ると、錯覚していたようでした。自由にしゃべれた為、言葉で自分の心をごまかし、いつの間にか、それが本当の自分だと、勘違いしていたようでした。しかし、動くことも、しゃべることも出来ずに寝ている毎日は、覆っていた飾りを、すべてはぎ取られた、本当の自分と向き合わせの生活でした。本当の私は、強くもなく、立派でもなく、たとえ、立派なことを思っても、次の日には、もういい加減なことを考えている、だらしない私だったのです。鍛えたはずの根性と忍耐は、けがをして一週間くらいで、どこかに行ってしまいました。
「星野さん、ちくしょうなんて、言わないでね。」ある時、私の治療をしていた看護婦さんが、悲しそうな顔をして、言ったことがあります。「えっ?・・。俺、ちくしょうなんて、言いましたか?」「あら、今も言ったわよ。星野さん、よく言っているわよ。」 私のことを、いつもとても心配してくれている看護婦さんだったので、それからは、自分の言葉に、少し気をつけてみることにしました。すると、どうでしょう。私はしょっちゅう「ちきしょう」と、言っている事に気づきました。「今日は天気がいいな、ちきしょう。」「ちきしょう、腹が減った。」「今朝は、いい気分だ、ちきしょう。」などと、朝から晩まで、自分でも気づかないうちに、「ちきしょう」を口走っていたのです。
幸せな人を見れば、憎らしくなり、大けがをして病室に担ぎ込まれて来る人がいれば、仲間が出来たような気がして、ホッとしたり、眠れない夜は、自分だけが起きているのがしゃくにさわって、母を起こしたり・・。熱が出れば大騒ぎをして、私の周りに、医者や看護婦さんがたくさん集まって来るのにさえ、優越感を感じるような、情けない自分と向き合わせの毎日だったのです。
お見舞いの人も、毎日のように来てくれて、私を色々と励ましてくれました。その人たちの気持ちは、とってもありがたく感じたのですが、心の底に、鉛のように重くたまっている寂しさや不安を、取り除いてはくれませんでした。確かに、その時は、明るい気持ちになり、勇気が湧いて来るのですが、お見舞いの人たちが帰ってしまえば、やはり,いつものさびしい私に戻ってしまうのでした。それどころか、前より一層、寂しくなってしまう時もあったのです。
その様な状況の中にあった時、聖書を開いてみると、こんな言葉が目に入りました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなた方も私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章28〜30節)
生まれてから、怪我をするまで、私はどのくらい嬉しい事があったでしょうか。うれしくて、うれしくて仕方がない時、その喜びを、誰に感謝していたでしょう。反対に、辛い事も沢山ありました。でも、そのつらさや苦しみを、心を打ち明けて話せる人がいたでしょうか。もちろん、優しい父や母がいました。言えば、たいていの事は、かなえてくれました。でも、それは小さい頃の事です。大きくなってからは、父にも母にも、友達にも言えない事が、たくさんありました。
天井を向いて寝ていると、どうしようもない寂しさが襲ってきます。そんな時、片腕でも動いたら、そして、手のひらで顔をおおうことが出来たら、どんなに楽になれるだろうか、と思いました。うれしい時に感謝し、苦しい時に名を呼ぶ人がいたら、どんなに心強いことでしょう。
聖書のそこの所を、何度も何度も読み返しているうちに、どういうわけか、重い心の中に、温かなものが湧いて来るような気がしました。「重荷を負ったそのままで、私のところに来なさい。」と言う、キリストと言う人が、今まで会った誰よりも、大きな人に思えました。
私が、怪我をすることなど、夢にも思っていなかったずうっと前から、神さまは私のために、この言葉を用意してくれていたのではないかと思いました。
聖書の中に書いてある、
イエス・キリストと言う人が、私を抱き上げて、私の言うことを、優しく聞いてくれる様な気がしました。


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