15.挿話

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■第8師団長 立見中将等の談
 ヤーえらいことができました。…
 27日(東京の)陸軍省に出ているうちに午後になって、初めて雪中行軍に出た山口大隊の行方が知れぬという報告を得ました。
 数泊行軍は師団長の命を待ちますが、一泊行軍は連隊長限りでできるもので、山口大隊は実にこの一泊行軍を企てたのです。…一泊行軍にはさほどの準備も要らぬという見込みをつけて、あるいは十分に用意をしていかなかったではなかろうか。
 …戦争にせよ、(進退は)大隊長の責任によるのであるから仕方がないが。今回の行軍は〜最後には各々展開して活路を求むることになったらしい。これは少しくは過失ではあるまいか。一団に堅まってなしたるなら、抱き合っていて少しは暖を取れそうにも思われる。…何しろ一泊行軍というのであるから、数泊行軍から見れば、いくぶんか軽く見ていはしないか。
■我が国では、北海道の第7師団を始め、第8師団でも毎年雪中の行軍をしておりますが、今までは遂に今度のようなことはなかったのです。今度のことは全く不時の天災であらかじめこれに応ずる予防法がないは当然で、いかに熟練した軍隊でも彼の場合はやはり同じ運命に遭遇するのではありましょうが、もししいて説をなせば、一つの穴居を作り…持久の策を講じたら、数日間は絶食しても籠居することができたでしょう。
 下士は上官の命があれば建言もすることのできるのであるのに、今度は聞かれなかったのか、あるいは進んで建言するまでに気が回る者もいなかったのか、これははなはだ遺憾です。

 この談話は、遭難事故早々のものなので、現場からの情況報告が反映されていない。その後分かったことは、一団で行軍するか分散して行軍するかを単純に命令したのではなく、議論しながら段階的に試行したのである。道が分からないことや死期が迫っている情況に応じて柔軟に対応したといえる。

 一度は一団に堅まって宿泊することをしたのだが、雪穴や衣服が十分ではなく、昏睡して凍死する恐れがあると判断して、行軍することに切り換えたのである。

 一泊行軍は連隊長の責任、進軍・退却は大隊長の責任と明言している。しかし、処罰のような話題は持ち出さず、技術向上論に触れている。部下の反論が不足したのではないか、と論じているのも注目に値する。

■第4旅団長 友安少将の談  不測の天災、何ぞ上官の責任を論ずべき

 5連隊のこのたび挙たる、ただ例年の例を施行したるまでであって、突然に企てことではない。ことに山口大隊長は、かねてから田代温泉を通過して、三本木村に達すべき大行軍をなそうとし、このたびの行軍以前に田代近傍まで、地理を視察し来ったほどであった。当時は積雪4尺ぐらいで、行軍には少しも差支えなきことを確かめたものだから、さてこそ23日大行軍手初めとして、田代までの行軍を断行したのに、その日は天候はなはだしくよろしく、かつ行程もわずか5里(注:20キロメートル)ぐらいなれば、わずか2日間を支うる準備をしたのである。しかるに翌24日は近年まれなる大雪で、朝より晩に至るもなおやまず、そのうえ翌日もまたその翌日も降り続き、ほとんど頭身を没するありさまとなったため、不幸にもこのたびの大椿事を引き起こするに至った。これらひっきょう天災で人為ではない。もちろん連隊長には当選責任はあるだろうが、現に31連隊の行軍をまっとうし来たのを見れば、その無謀の挙でないということは、一般の認めることができる。何はともあれ、不測の天災は、連隊長をして非常の心配を起こさしめたのが、気の毒の至りで、我輩の最も遺憾とするところである。

 過去にも例があり、また弘前連隊は遭難しなかったのだから、青森連隊の暴挙とはいえない、仕方のない天災であるという論調である。立見中将に比べると、友安少将の方が部下を擁護している。経営者と管理職のつなぎ役というところである。

 新田次郎の小説はこれとは逆に、弘前連隊は遭難しなかったのだから、青森連隊自身に良くない点があった、と創作した。

 次の図は青森雪中行軍の救援活動の結果、生存者及び遺体を発見した場所を丸印で表している(歩兵第五連隊「遭難始末」)。

 

■馬場第4連隊長の談話
 八甲田山麓の地理に熟知してる者は幾人あるか知れない。それゆえ毎年雪中行軍の挙はあったが、一度も故障はなかったのだ。それで例年のつもりで出発したら、前代未聞の大吹雪で、全隊雪中に埋葬されて、即ち天災に会ったのだ。連隊長の津川中佐を責めることはできぬ。

 

■某上長官
 今度のことはもちろん連隊長も責任をまぬがれぬところですけれど、かの行軍は山口が特に一切の責任を引受けていったのだそうですから、平日の行軍とは少し意味を異にし、従って山口も責任は非常に重かったです。山口の死んだのは疑いもなく凍傷ではあるが、彼は日頃心臓が弱く、そのうえに前にいうごとき特別の責任を負っていたのが、確かに死を早めた原因であろうと思われます。不幸なのは山口少佐でした。

 

■川田青森市助役
 死体の中にはパンを握れるまま倒れるあるもの往々あり。牛肉の缶詰などもここかしこに散乱しありたり。これらによって見るに二百の健児は飢えに死せるにあらず。雪に溺れたるにあらず。ただこれ寒風酷列厳として凍えたるのみ。

 これは現場の情況報告とは違う推測である。現場ではパンなどが凍結してかじることができなかった。手指が凍傷を負っていて、缶詰等を開けることができなかった。飢えも死期を早めた原因の一つである。

 以上のように遭難事故発生直後には、さまざまな批評が行われて、公表されていたということが分かる。新田次郎の小説や映画を史実と誤解して事故を批評するのではなく、史実を読んで批評するべきだと思う。その方が、かえって新田次郎の作品を創作として味わえることにつながる。

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