13.弘前隊が通過

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 1月28日に日付が代わった頃、(弘前雪中行軍隊は)道は分からず、食事不十分の時、偵察した案内者が田代元湯近くの別の小屋を偶然発見。弘前行軍隊を呼んで、夜明け近くに休憩する。凍結のため食事は不十分。

 予定では田代元湯で宿泊した後は、弘前行軍隊は案内者なしで田茂木野へ向かい、案内者は増沢へ戻ることになっていた。しかし、予想外の悪条件なので、大勢で一緒に高原を田茂木野へ向かうことになった。

 午前7時ごろ出発。鳴沢の手前で放置されている銃を発見。夕刻、田茂木野より二里半手前の山腹にて小銃二個を発見したるより、多分猟夫の捨て去りしものならんと取り上げ見たるに、三十年式の兵器なりしかば、青森兵の所持品に相違なしとて、その付近を捜索せしに、約二十米突を距てて、二個の凍死せる屍体を発見せしも、一同疲労の折柄とて、そのまま見捨て来りたりといふ。福島大尉は「手を触るるべからず」と命じて、一行は下山を続けた。

 1月29日、未明に麓の灯火が見えた。福島大尉は「汽車賃なり」と青森駅から三本木へ戻るための余分の賃金を渡した。「過去2日間の事は絶対口外すべからず」と一言命じて、弘前行軍隊は案内者と別行動になって下山していった。登山口の田茂木野で救援隊に情況報告をして、休憩したと思われる。青森市街へ進み、宿泊した。

 前にも述べたように、案内者をもってしても田代元湯の建物を発見できなかった。近くの小屋を発見したのは偶然である。弘前雪中行軍隊は案内者を雇っても失敗するリスクは大きかったのである。

 

 2月4日の佐賀新聞が「二個の凍死せる屍体を発見せしも、一同疲労の折柄とて、そのまま見捨て来りたりといふ」と報じたことから、結果的には、遺体を回収しなかったことは軍律違反ではない、と判定されたことが推測できる。軍律では原則として兵士の遺体や銃は回収することになっているが、生存者の安全が優先される。現場で福島大尉が専決したことを、本来の責任者の上司が事後承認したのだろう。

 指揮者はただ命令しているだけのように見えるかも知れないが、さまざまな法規と関係者のことを配慮しているのである。

雪中行軍研究の責任者である第4旅団の旅団長友安少将、その下の福島大尉の上官である連隊長や大隊長。

福島大尉を先任の士官として手本にして雪中行軍研究に参加している見習士官たち

民間人として参加している案内者たち

 福島大尉は銃や遺体を前にして、責任者の上官に相談を仰ぐことのできない状況で、指揮者としてさまざまな判断をした。いずれ救援隊に出会ったり、駐屯地に戻ったりしたら、情況報告をするということも予想していた。

 遺体に遭遇した時に福島大尉は、配下の見習士官には手本を示さなければならない。普通なら戦地でしか見られない遺体の回収問題に民間人が居合わせているのも厳しい状況である。福島大尉が「手を触れべからず」と命じた理由は、極寒と食事・睡眠不十分で疲労困憊している行軍隊の、二重遭難を避けるためであろう。積雪と一体化して凍結している遺体を掘り出して、深い雪道を運搬するのは、士官研究用の特殊な平時編成では、若い兵士が少ないので難しかったのだ。

 福島大尉が「過去2日間の事は絶対口外すべからず」と命じたこと、そして行軍隊が案内者たちと離れて下山したことも同じような理由であろう。救援隊と出会って情況報告する場で、民間人が軍律問題に巻き込まれないように配慮したのではないか。新聞で「遺体を見捨てた」と報じられたということは、正直に情況報告した証拠である。厄介なことを隠すというのではなくて、もしも軍律違反になったら自分一人の責任であるといさぎよく判断したのではないか。 

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