12.後藤伍長が情況報告

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■1月27日
 午前6時ごろ、先に分かれし神成大尉、中野中尉、鈴木少尉、今泉見習士官等ありければ、互いに談合の上、2隊に分離し、路を求めんとせるに際し、大隊長の来るに会いければ、各々蘇生したるを喜びて、勇気百倍2隊に分かれて進行せり。

 

■倉石大尉の談話
 1月27日、予は神成大尉と方向に関して激論した結果は、各々方向を異にした。それから予は駒込川に陥り、神成・後藤は救護隊に救われたのである。大隊長らはほかに活路のないのを知り、この谷間を下り河に沿って、青森に出ようとの決心をして、この深谷に下ったが、神成大尉らは山を越えて、青森に行進する決心で反対の方向に出たのである。

 1月25日〜26日の情況と似ているが、遭難状態の本人たちは夜にまともに睡眠できなかったので、日付を正確に覚えていない可能性がある。

 

鈴木少尉、一寸風雪のやみたる隙に乗じ、これより諸君の先導をなさんと決起して、田茂木野に向かひ、高所に登りしが、そのまま姿は見えずなりぬ。及川伍長もその時その場に倒れて人事不省となりしかば、

神成大尉、後藤伍長等これを介抱し、後藤伍長の肩に抱き上げられしに、及川伍長はこれをさえぎり、我はこのまま死するも惜しからず、それよりは一刻も猶予せず、田茂木野に帰られよ、といへるにぞ。二人は及川伍長を見捨つるに忍びざれども、今はこれがために躊躇する時ならずとて、その意に任せ、足を運びたり。

かくて数歩の間に続いて神成大尉も打ち倒れ、後藤伍長もこれ又全く身体の自由を失いしが、神成大尉は絶息するまで、伍長の名を呼び…早く村にいきて人夫を雇ひ来れ、と命ぜしより、後藤伍長はその命令を奉ぜんとて不自由なる身を起こして、無我夢中にその辺を彷徨したるため、幸いに体温を増し、さては救護隊の目にも止まりしなりと、後藤伍長はかく語りおわりて、

この辺に神成大尉もいるつもりなりとの注意に、人夫は進みて捜索せしに、大尉は凍えて倒れおりしが、いまだ全く死に至らず、手足を動かし、少しく体温もありしも、一声唸りし後、絶命せり。

 気象が小康状態になった。及川伍長が倒れたが、本人の提言を汲んで見捨てることにした。失神した山口少佐を部下が苦労して運んでいるのと比較して、伍長を見捨てるのは下士官を軽視していると見られがちだ。しかし、及川伍長も神成大尉も全員の死期が迫っている状況に対応して、最も元気な後藤伍長を身軽にして救援隊を呼ばせるのが最優先と判断したのである。階級差別ではなく、死期を意識した状況対応の判断である。

 足の動かなくなった神成大尉は、口を動かして後藤伍長の発奮を促した。これまた足の動かなくなった後藤伍長は、神成大尉が気絶するまで続けた激励によって奮起して、更に前進した。しかし、ついに後藤伍長の足も動かなくなった。彼は雪に埋もれて救護隊が見過ごさないように、銃を支えにして身体が倒れないようにした。後藤伍長ができる仕事は、昏睡しないことであった。このように軍人は気絶するまで、最善を尽くそうとする。

 救護隊が後藤伍長を発見して救出した。彼の情況報告(情報)によって雪中行軍隊の遭難した場所が明らかになり、十数名が救出されることになった。彼は人命救助に役立ったので英雄扱いになり、生前に銅像が建てられた。惜しまれるのは神成大尉である。救護隊がもっと早く到着していれば、救出されたはずである。

 この日の夜、弘前第31連隊の雪中行軍研究隊が、猛吹雪に見舞われながら、田代元湯の付近を迷った末に、偶然に別の小屋を発見して死をまぬがれた。近くには青森連隊の村松伍長も生存していた。やはり気象が青森連隊の1日目・2日目よりも小康状態になっていたのである。

 連隊にては、27日の午後2時ごろ伝令息せき帰りて、後藤伍長、神成大尉ほか1名を発見したり、とのことを注進せし。

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