11.帰路を発見

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 二十六日午前一時ごろの人員点検では三十名であったという。山口少佐は四度目の昏倒で遂に動かなくなったので兵卒若干名を添えて出発した。 
 時々晴れて一同をよろこばせた天候は午前十一時後にまた吹雪と変って暗くなってきた。賽の河原の西北端に出たが、中野中尉をはじめ倒れる者数名、遂に一群は僅かに七、八名となり駒込川の谿谷に陥った。 

 

 暁天、醒夢起立すれば、天晴れ降雪なく、四方を見れば、かなたに二人、ここに5人と露営せるもののごとく、各々起立して行進方向を占定しつつあるもののごとし。高所に登りたるに、神成大尉殿、鈴木少尉殿、伍長に会せり。この日は時々晴、時々降雪という天候なりき。(佐藤陽之助「雪中の行軍」)

 大筋で正しい退却路をたどっていた多人数のグループは、失神した山口少佐を運ぶ倉石大尉の小隊と、急いで田茂木野へ遭難報告をしようとする神成大尉の小隊に分かれた。

 比較的体力が残っている神成大尉たちは、豪雪の尾根伝いに下っていく。山口少佐を運ぶ倉石大尉は、積雪の少ない谷川を下ることに心を動かされた。登山の常識では登った経験のない谷川を下るのは厳禁であるが、体力が消耗し、死期が迫っているので仕方がない。この時、ようやく田茂木野から救護隊が登ってきた。猛吹雪だった八甲田山も、普通程度の吹雪になってきたのだ。小康状態である。少人数で分散した長谷川特務曹長、村松伍長、三浦伍長などは、炭焼き小屋や田代元湯を見つけて宿泊し、後で救出されることになる。各自勝手に行動したことが奏功するのである。

 26日午後、賽の河原にて進路を誤った倉石大尉の班は駒込川の渓谷・蛇の木沢に陥り身動きがとれなくなった。

 流れに沿うて下ること一時間余り、青岩附近で両岸断崖が連り、進退ここにきわまってみな呆然としているとき、流れに飛び込み水中に立った者がある。驚いて見れば小野寺熊治郎伍長であった。 
 倉石大尉は声をかけて励まし引止めようとしたが、一大決心を要するところだときき入れなかった。自分は屍となって流れつき聯隊に死の報告を果そうとしたのであろう。小野寺伍長の悲壮なる決意と分り、今泉少尉は、倉石中隊長より水筒を借り、川岸の上に伏して飲ませたところ、これがこの世の最後の水とよろこんでゴクッと一口飲んだ。もう一つ飲めと中隊長が云うと、もうたくさんと答え、胸まで浸り流された。中隊長は思わず「ばんざーい」と叫ぶとそれに応えてみなばんざいを三唱した。小野寺伍長を送るそのばんざいの声は山谷に響きわたり、伍長の姿は遂に見えなくなってしまった。
 2月14日賽ノ河原以西にて菅原久右衛門二等卒の遺体発見。アイヌの一行は駒込川沿いにて捜索に従事し、青岩の下流500〜600b地点にて小野寺熊次郎伍長、山影運蔵伍長、谷藤徳太郎一等卒、佐々木栄太郎二等卒の遺体発見。

 登山の常識のように、見知らぬ谷川を下ることは致命的であり、体力的に再び尾根に登れない兵士は、もはや死を待つだけの状態になった。

 小野寺伍長は、倉石大尉が命じていない行動を提言した。提言することは部下の仕事である。倉石大尉は制止したが、小野寺伍長は再度提言した。命に関わること以外は、部下が提言を繰り返すことは許されない。しかし、倉石大尉は小野寺伍長が自分の凍死体が谷川を下ることが、遭難の情況を麓へ報告する役に立つと考えていた。倉石大尉も小野寺伍長が死期が迫ったことを自覚して、身を捨てようとしていることを察知して、許可することにした。しかし、小野寺伍長の遺体が発見されるより前に、後藤伍長が生存したまま救護隊に発見されることになる。

 情況を報告することを情況報告、略して情報という。この軍隊の略語が information の和訳語として普及することになる。したがって、情況報告は情況処理と同義語なので、情報処理というのは「情況処理の処理」という重複表現なのである。なお、人間の知識に照らしていない単なる素材を状況という。状況を人間の知識に照らして眺めて、選抜し、意味付けしたものが情況である。意味付けした情況を他人と共有する手段が情況報告・情報である。

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