1902年1月23日午前6時に、青森第5連隊の雪中行軍隊が屯営(駐屯地)に集合して整列した。
整列した210人の大部分が遭難死することになる。写真撮影は、軍人であるプロの写真員が行う場合と、従軍記者が行う場合とがある。
雪中行軍隊は、さまざまな隊から集められた軍人を、研究タスクフォース用に次のように再編成したものである。
雪中行軍大隊 戦時編成 総員210人
中隊 隊長は神成(かんなり)大尉 組織的行軍の研究(この中隊が人数の大部分を占める)
特別小隊 小隊長は中野中尉 下士官の個人別の研究
編成外 大隊長は山口少佐 全体の監督と見習士官の個人別の研究
午前六時三十分編成を終わり、神成大尉が指揮する四十名の踏雪隊を先頭とし、行李輸送隊を後尾とし、各兵、勇気凛々、行軍の途に上がれり。 唄う軍歌、吹くラッパ共に、勇ましく、山口少佐が「進め」という号令の下、雪路を踏んで、屯営を出たる東北健児の行装こそ、雄々しくもまた爽快なれ。 一月二十三日、山口大隊は第五連隊を発し、ただちに田代街道に向かえり。 |
史実では、行軍隊の総称は山口大隊であり、大隊長の山口少佐が指揮者である。だから出発の号令は山口少佐が発した。神成大尉は人数の大部分を占める組織的行軍の実施の指揮者である。 山口少佐は少佐としては年をとっているが中間管理職である。新田次郎は、山田少佐(山口少佐)が経営者であり、事前には中間管理職の神田大尉(神成大尉)に全体の指揮を権限委譲したのに、出発の時になって気が変わって指揮を取りたくなった、ということに創作した。実際の軍隊ではそのような混乱はありえない。
この日の天候は、降雪はあるものの、冬にしては良好である。平地の雪道は前半は踏み跡があったので進行しやすかった。後半は踏み跡がないので雪踏み隊を先頭にしたが、これもさほどの困難なしに進行した。