青森第5連隊の雪中行軍研究隊の路程は次の図のとおり、2泊3日である。
研究活動は、最初の1泊2日である。3日目(点線)は移動だけであり、研究活動ではない。
青森連隊の雪中行軍研究の責任者を眺めてみよう。
第8師団 師団長:立見中将 所在地:弘前、満州等
第4旅団 旅団長:友安少将 弘前連隊を含む2泊3日以上の雪中行軍研究の責任者
青森第5連隊 連隊長:津川中佐 1泊2日以下の雪中行軍研究の駐屯地での責任者
青森第5連隊雪中行軍大隊 大隊長:山口少佐 研究の起案者及び現地での専決者
中隊長:神成(かんなり)大尉 行軍実施の細部の責任者
■立見中将の遭難事故発生直後の談話 ヤーえらいことができました。〜 1月27日(東京の)陸軍省に出ているうちに午後になって、初めて雪中行軍に出た山口大隊の行方が知れぬという報告を得ました。 数泊行軍は師団長の命を待ちますが、一泊行軍は連隊長限りでできるもので、山口大隊は実にこの一泊行軍を企てたのです。…一泊行軍にはさほどの準備も要らぬという見込みをつけて、あるいは十分に用意をしていかなかったではなかろうか。 |
青森第5連隊とは、青森県の連隊という意味ではなく、青森市に所在する連隊という意味である。
青森連隊の雪中行軍は研究活動の部分が1泊2日なので、連隊長の津川中佐が責任者である。事故発生後の取材に、立見師団長や友安旅団長の談話が他人事のような雰囲気であるのは、行軍研究の責任者ではないからである。
津川中佐は連隊長という多人数組織のトップなので、作戦の起案は山口少佐にまかせたし、雪中行軍の監督も山口少佐へまかせた。津川中佐は起案された雪中行軍研究を承認した。行軍研究中に問題が起きた時の処置も山口少佐にまかせて、事後承認して責任は津川連隊長が取ることにした。このような関係を権限委譲と区別して専決と呼ぶ。軍隊や航空会社など、現場を持つ大組織でないと専決という概念は分かりにくいのではないだろうか。
山口少佐はどのぐらいえらいのだろうか。民間会社と比べると次のようになる。山口少佐は年は取っているが課長級である。
軍隊 | 会社 |
大将(一般には57歳以上) | 社長、専務取締役 |
師団長:立見中将(年齢不明。一般には52歳以上) | 常務取締役/執行役本部長 |
旅団長:友安少将(53歳以上か。一般には49歳以上) | 本部長代理。本社本部機構なら部長。 |
大佐(一般には44歳以上) | 工場長/事業部長。本社本部なら課長。 |
連隊長:津川中佐(41歳。一般には40歳以上) | 工場の部長。本社本部機構なら班長。 |
大隊長:山口少佐(45歳。一般には36歳以上) | 工場の課長。本社本部機構なら課員。 |
中隊長:神成大尉(32歳。一般には31歳以上) | 工場の課長代理 |
中尉、少尉 | 課長補佐、管理職見習 |
リーダシップはどの階級でも大切である。リーダシップには階級によって違う部分と共通の基本部分とがある。そこを踏まえて軍隊では昇進するごとに階段型の指揮者教育をしている。経営者といえるのは立見中将であり、山口少佐は中間管理職である。かといって経営力がないわけではない。少佐になると起案を請け負うので、経営のことは部分的には理解している。
山口少佐の略歴。 明治27年9月日清戦役に従い、遼東半島に戦う。 明治30年5月京城(朝鮮の首都)守備隊長として渡韓。 明治32年12月歩兵少佐に任じ、明治35年青森第5連隊第2大隊長に補せられる。 |
「任じ」とは階級や職種の認定の意味であり、「補す」とはポストへ配置することである。
神成大尉の略歴。 明治19年12月教導団に入団。同年、2等軍曹。 |
山口少佐や神成大尉は実戦の経験者である。神成大尉が入団した教導団は兵士(ノンキャリア)を育てる学校であり、士官(キャリア)を育てる士官学校に対比される存在である。学術優秀で品行方正な者は、士官への転向ができ、大将まで出世した人もいる。神成大尉はキャリアへ転向した例であり、実戦経験もあるエリート士官である。
下士官の階級の一つである特務曹長には、若い特務曹長とベテランの特務曹長と二種類ある。神成大尉が経験したのは、ノンキャリアからキャリアへ転向する橋渡しとしての若い特務曹長である。この資料のあとで出てくる佐藤特務曹長は、ノンキャリアのまま最高峰に出世したベテランの特務曹長である。