3.弘前連隊の雪中行軍研究

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 (青森県の)雪中行軍は敵軍が津軽海峡を占領し、青森湾付近に上陸して、首都に迫らんとするの危害に備えるにある。 

  当時、雪中行軍研究は北海道や東北地方で行われていた。敵軍とはロシア軍のことである。日清戦争のあと、日本は依然として列強国に支配される脅威にさらされていた。「備える」とは、作戦(戦法立案)のことであり、未知数のことが多い場合には、作戦のプロセスの一部として研究活動を含める。

 例えば、青森第5連隊に近い弘前第31連隊は、明治33年(1900年)に次のような雪中行軍研究を実施済みだった。

■第31連隊混成大隊・野戦砲兵第8連隊混成中隊 雪中行軍研究

 明治33年2月21日〜23日 大隊長 矢田少佐

 戦時編成 430人
 (想定)北軍は20日夜より野辺地を砲撃し、北地に上陸中なり。

 大隊は、歩兵隊、砲兵隊の順に進軍すべし。

 21日夜は、大隊本部は浪岡村、山内宅とする。浪岡村と女鹿沢村は宿営地となり、炊さん所は浪岡村、玄徳寺内に設けられる。

 南軍の仮想的特別方略なるもの、同日午後7時過ぎに至り、更に次の命令ありたり。・・・

 北軍は青森を砲撃し、小湊に上陸を始めたり。北軍は帽子に日除けを付す。・・・

 23日夜の8時10分、黒石に達す。野戦砲兵が雪中の山道行軍は、これをもって嚆矢とすと。 

 北軍(ロシア軍を想定)の来襲を迎えうつという模擬戦闘である。北軍を演じる隊は、帽子に日除けをかぶせて南軍(日本軍を想定)と区別する。模擬戦闘といっても演習ではなくて研究である。例えば、雪道で重さが百貫(375kg)以上の砲車を運搬しながら行軍するのに、どれほどの人力・馬力や時間を要するのかを研究する。

■第31連隊混成中隊 雪中行軍研究
 明治34年2月19日〜2月26日 中隊長 馬渡大尉

 戦時編成 305人

 この行軍の出発に先立って、児玉連隊長はこの整列に臨み、この行軍の研究上に付き、懇到なる演説あり、かつおおいに督励せられぬ。

 これより先、加藤中尉の率いる一小隊を、仮設敵(北軍)に任じ、以下の想定を与える。・・・

 南軍大隊長は陸羽街道を追撃するに・・・。

 19日夜は、油川の西田村長の宅は宿舎となりて、兵員を慇懃に取扱いたり。・・・同村の三上宅は中隊本部となり、一家全員を挙げて取扱いに従事せり。

 21日、蟹田に入る頃は午後4時にして、その村端には役場員、警察官、及び在郷軍人は軍服を着して、慇懃に歓迎せり。

 22日、今別に至れば、村端に歓迎旗を立て、村長及び役場員一同のほかに、在郷軍人、尚武会員、赤十字有志等、列をなして大勢迎えられぬ。

 23日、延長7里の山道を通過し来たれる軍隊の勇気に、今泉全村の感動するところとなり、当夜、全村を挙げて、歓迎の意を表せり。

 明治34年(1901年)の、弘前第31連隊の雪中行軍研究は、前年より人数は減ったものの、日程は7泊8日と長い。

 前年の研究と異なるのは、宿泊した村の協力が記録されていることである。このような歓迎をするのは軍国主義だからというわけではない。現在でも、農林水産省の官僚が営林署長として配置されると、若くても村の名士として扱われる。公務員とつきあいのある会社員は、この辺の慣習が分かるだろう。

 模擬戦闘なのに民間人の協力を得るのはおかしいと思われるかも知れないが、前年もこの年も研究対象は戦闘であって、宿泊は含めていない。この年の場合は日程が長いので、夜間は民間人の協力を得ることによって、昼間の研究活動に集中したのだと思われる。

 次は1902年、青森第5連隊の雪中行軍隊が遭難した年に、同じ頃に実施された弘前第31連隊の史実である。

 次の地図は弘前雪中行軍隊の行程である(歩兵第五連隊「遭難始末」)。

 

 上の地図の左端の弘前を出発して、左回り(反時計回り)に一周した。赤字の地名が宿泊地である。

 

■第31連隊雪中行軍小隊

 明治35年1月20日〜2月2日 小隊長 福島大尉

 平時編成 38人

1月20日、弘前第31連隊の雪中行軍隊は、午前5時連隊を出発して、竹館村役場において間食し、唐竹村において昼食し、同村長の先導にて小国に向け出発せり。…雪深きところ8尺より8尺5寸…はなはだしきところは1丈(3メートル)以上にて…小国に到着せしは午後7時ごろなりしが、唐竹村長は種々尽力して少しも不便を感ぜざらしめたり。
1月21日、午前8時、唐竹村長自身、先導となり、切明指して前進せり。・・・午後1時ごろ、無事、切明に到着せし。
1月22日、切明よりは進藤伍長先鋒となれり。午後2時ごろ山頂に達す。高さ一千五百メートル余りなり。…十和田湖を瞰下しつつ下れり。十和田湖(注:西岸)に着したるは午後3時半。
1月23日、午前7時、十和田を出発。宇樽部村(注:南東岸)に到着せしは午後4時半ごろなりしが、〜村民全家を挙げて歓待に尽力せしも、如何せん夜具なく、見習士官以下は薦(こも)を着て炉火に暖まりて徹夜せり。

1月24日、この日は村民の饗導にて戸来村に向えり。…積雪1条余の山道を一歩一歩と進行せり。…午後5時、何の異状なく戸来村の手にある上トチ棚といえる寒村に到着せり。…村民は狂気して迎え、酒、卵、餅等をもって、厚遇を極めたり。…三本木村中里に宿泊する。

(注:24日以降は、史料の落丁や諸史料の日時の矛盾がある。旧暦が混じっているせいかも知れない。24日以降は、筆者が日時等の変更を加えつつ紹介するので、正確性は保証の限りではない。)1月25日、三本木村中里地区を出発して、三本木村の本村に宿泊する。
1月26日、三本木村の本村を出発。大深村役場に案内者を依頼する知らせがあり、村長等が増沢へ出張して、7人の案内者が増沢で準備。弘前項軍隊が増沢に到着して宿泊する。

1月27日、午前6時、増沢を出発。好天である。双股に到着すると、強い吹雪や積雪に見舞われた。2里余り進んで田代平(八甲田山の高原)に達すると、猛吹雪になり、気温も急降下した。

1月28日に日付が代わった頃、道は分からず、食事不十分の時、偵察した案内者が田代元湯近くの別の小屋を偶然発見。弘前行軍隊を呼んで、夜明け近くに休憩する。

 午前7時ごろ出発。夕刻、田茂木野より二里半手前に到着。

1月29日、未明に麓の灯火が見えた。登山口の田茂木野で救援隊に情況報告をして、休憩したと思われる。青森市街へ進み、宿泊した。

1月30日、青森市を出発して、浪岡に宿泊した。

1月31日、浪岡を出発して、弘前第31連隊の駐屯地に帰営した。

 1902年の弘前第31連隊の雪中行軍隊の参加者は、研究をする見習士官と研究補助をする伍長が主体である。兵士はほんの少ししか参加していない。戦時編成ではないので、民間人の炊事・宿舎提供や案内者を利用して構わない。

 27日は青森雪中行軍隊の後藤伍長が救援隊に救出された日である。下界は好天であり、高原も救援隊が到達できる程度に小康状態へ向かっていた。

 案内者をもってしても田代元湯を発見できなかった。近くの小屋を発見したのは偶然である。案内者の努力は英雄的行為であるが、案内者を雇ったから成功したのだとはいえない。2月4日の佐賀新聞は「三十一連隊の幸運」と称している。

 新田次郎は小説を書くにあたって、「1902年に青森第5連隊の雪中行軍が失敗した原因は、多人数編成にして、民間人の案内者を利用しなかったからだ」というように創作した。新田次郎には経歴を通じて体験したこと、世の中に訴えたいことがいろいろあった。そのために気象庁本庁の課長という、軍人でいえば大佐級の地位を捨てて、小説家に専念するようになった。小説の芸術性とは何か、果たして小説で生計を立てられるのかを熟慮したはずである。

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