2012. 2.18 法隆寺の建築デザイン

戻る ホーム 上へ 進む

 最近、テレビで法隆寺が放映された。そこで法隆寺の鑑賞の要点を整理して紹介する。
参考文献:武澤秀一(建築学博士)、「法隆寺の謎を解く」、ちくま新書、2006
■左右非対称の伽藍配置の見どころ
 法隆寺の伽藍は、中門から見て中心に塔や講堂がなく、左右非対称に配置されている。
@奥(北側)の講堂は東西の中心にある。

A中門の中心は、塔と金堂との中心にある。

B塔と金堂の中心は東西の中心ではないので、中門の中心は柱間の半分だけ西にずれている。

 (中門につながる西回廊は柱が10あり、東回廊は柱が11ある。)
C中門は横が四間二戸であり、これは珍しい。(横の柱間が四つあるのを四間という。人が通ることのできる柱間が二つあるのを二戸という。)
D中門は縦の柱間が三間もあり、奥行がとても大きい。
E縦の三つの柱間の中では、東西の回廊に揃えた中心の柱間が広い。
■最近のテレビ放映で、ガイドが説明した法隆寺の中門の通り方
 ガイド「四間二戸の中門の、左は五重塔の出入り口で、右は金堂の出入り口だと言われています」
 これは建築史学者関野貞や仏教史学者田村圓澄の仮説であり、史料の根拠はない。武澤秀一は「左は入口、右は出口」と説明している。
■建築家は空間のデザイナ

建築の素人は建物だけに注目しがちである。

建築のプロは建物だけでなく、それが関係する人や物や自然現象や時間の流れにも注目する。

建物の内と外に空間がないと人は使えない。建築家は空間も設計する(スペースデザイン)。

法隆寺の講堂の前の中央の空間は、儀式の場所である。現在でも聖霊会などが行われる。単なる塔と金堂との間の隙間ではなく、人も使う空間なのである。

■インドの原始仏教には教団施設はなかったが
 紀元前463年にゴータマ・シッダールタ王子が誕生した。当時のインドの覚者(宗教家)は、住居を定めずに遊行して覚りを開くのが普通であった。ところがゴータマ・シッダールタには弟子が集まったので、スダッタという長者が教団へ祇園精舎という施設を寄進してくれた。当初の祇園精舎は、講堂(研究所)と生活用建物だけがあり、塔や金堂はない。
 紀元前383年に、ゴータマ・シッダールタは「私のために立派な墓は造るな。像を造るな」と遺言して死去した。弟子がゴータマ・シッダールタを仏教の開祖(釈迦又は仏陀)としてまつりあげた。現在、祇園精舎遺跡として残っているのは後世に建てられた記念施設である。
 アショーカ王(紀元前268年〜232年)が、釈迦の遺骨(仏舎利)を納めた卒塔婆(塔)をサーンチーに建造した。この頃は立派な墓造りの禁則は破ったものの、仏像造りの禁則は守っている。
 現在、サーンチーン遺跡を訪問することができる。大きな半球は宇宙を象徴した立体曼陀羅である。修行者は中央入口階段を左へ上り、右手を内側にして時計回りに下の回廊を回り、次いで上の回廊を時計回りで回って、釈迦や宇宙を感じる。仏教国では右手は食事に使い、左手は用便の時にお尻の水洗に使う不浄の手とされている。イスラム諸国も同様である。
■インダス河流域で仏像が造られ始める
 紀元後75年頃から ガンダーラで仏像が造られた。釈迦の「立派な墓を造るな」という禁則に続いて、もっとタブー性の強かった「仏像を造るな」という禁則もこうして破られた。

 このように現在の寺院の塔や仏像は、開祖としてたてまつった釈迦の規則を、弟子たちが破った結果であると言うことができる。一方で、ゴータマ・シンダールタは大勢いた覚者の一人であって開祖とは限らないし、宗教の規則をアップデートするのを遠慮すべきでない、と考えるなら、寺院の塔や仏像は規則破りではなく、進歩の結果と見ることもできる。
■仏教がインドから中国へ伝来
 335年に、中国で仏教僧楽僔(らくそん)などが莫高窟の建造を始めた。この時代の中国では塔よりも仏像造りが盛んになった。中国では、それより前から物見や宴会のための木造楼閣が発達していた。石造りの半球塔よりも、楼閣を岩に彫る方が立派だと考えた。墓らしさよりも、人が使う楼閣のデザインが優先された。
 北魏時代(386-534年)に、五台山寺院群の建造が始められた。五台山の尊勝寺伽藍を始めとして、中国では宮殿や寺院の建物群を、欧州と同じく一直線に左右対称に配置することが多い。
 581年より前に、阿育王寺が建造された。阿育王とはアショーカ王という意味である。阿育王塔は8万4千に分割された仏舎利(釈迦の遺骨)を収めた塔の一つと言われている。当初は4層の木造だった。現在は法門寺及び法門寺塔と呼ばれている。

 中国は万世一系の皇帝の国ではなく、学者の流派や外国の影響が多いので、右手と左手の優先順位は変遷した。ただし、仏教については、インド式の右手優先である。
■仏教が中国から朝鮮へ伝来

朝鮮では欧州と同様に、食事の時には主に右手だけを使う。碗や皿は持ち上げない。

左手は不浄の手というわけではなく、左手を補助的に使うのは構わない。

■仏教が中国や朝鮮から日本へ伝来
 593年頃から 厩戸皇子(うまやとのみこ、聖徳太子)が大阪に四天王寺を造営した。伽藍配置は、塔が手前で左右対称である。左右対称というのは中国の影響と思われている。しかし、インド式に塔(墓)の方を重視したようでもあり、当時は門からの参拝だけが許された一般人には、塔しか見えない。現在の四天王寺は西口がメインの門であり、右(南側)に塔が見える。
■祭祀場を兼ねた宮殿の造営
 推古天皇の600年頃に飛鳥京及び飛鳥宮の整備が進んだ。天皇は神式の祭祀の主宰者でもあるので、宮殿(御所)も祭祀用にデザインされている。官僚や外国使節が参列できるように、中央に庭を設けた。中央の庭を朝廷と呼ぶことが、その後の朝廷の語源になった。中央に庭を設けたことがその後の寺院デザインにも影響したと思われる。
■氏族の氏寺の造営
 587〜600年に、蘇我馬子が飛鳥寺(法興寺)を造営した。目的は、氏族の繁栄を願ったり、権力を誇示したりすることである。左右対称なのは中国の影響であろう。四天王寺と同様に、塔が主役なのはインドの影響であろう。

 ところが四天王寺とは異なり、金堂を塔の北側だけでなく、西と東にも設けた。門から参拝するだけの一般人に、塔も金堂も見えるように工夫したのであろう。

 また、四天王寺と異なり、講堂(研究室)を回廊の外へ出した。これは仏教研究よりも来訪者の参加する儀式用という便宜を強めたように思われる。中門は横三間であり、中心の塔へ進みやすい。また、縦三間なので、東西の回廊とのつながりもよい。これは注文主や建築者の好みの現れである。
■厩戸皇子が斑鳩宮を造営して引越し
 605年頃に厩戸皇子は斑鳩宮を造営して、飛鳥から引越した。厩戸皇子は高句麗からの渡来僧慧慈(えじ)などの教えにより、隋の都市計画に憧れて、山の南斜面に宮殿や寺を造営して、その南に新たな京を造ることを構想したのではないかと言われている。真の南向きよりも少し傾いているのは、南東にある飛鳥京の方角へ向けているかららしい。ただし、現在の法隆寺や夢殿は、真の南向きに近い。
■厩戸皇子が氏寺を造営

 607年に厩戸皇子が元の法隆寺(若草伽藍)を造営した。大阪の四天王寺と異なり、自らの住居である斑鳩宮のすぐ近くに建てた。氏族の繁栄を願ったり、誇示したりするのが目的である。伽藍配置は四天王寺とほぼ同じである。ただし、金堂や塔の遺構が見つかっただけで、その他の遺構は不明である。
 その後、自ら使ってみると、蘇我氏の飛鳥寺の伽藍配置の方が誇示に向くと感じて、子である山背大兄王へ、新たな伽藍配置の構想を語ったかも知れない。
 620年に厩戸皇子が死去した。天皇家と蘇我一族の両方の血統を持ち、摂政を勤め、次期天皇の候補だったのだが。
■山背大兄王が法輪寺を造営
 622年に厩戸皇子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が法輪寺を造営した。飛鳥寺と同じく、塔だけでなく金堂も門から見えるようにした。飛鳥寺と同じく講堂を外に出して、儀式用の雰囲気を強めた。飛鳥寺と全く違って斬新なのは、金堂を北、東、西に三つ建てるのではなく、東側の一つだけという非対称にしたことだ。宮殿の朝廷と同じように、中央部で儀式をしやすくしたのではないだろうか。

 西に塔、東に金堂という伽藍配置は、高い塔にも低い金堂にも朝日が当たるようにしたためではないだろうか。中門は横三間一戸と正統的である。ただし縦二間なので回廊との相性はよくない。
 元の法隆寺を建てたのは厩戸皇子(聖徳太子)だったわけであるが、現在残っている法隆寺式の伽藍配置を創始したキーパーソンは、聖徳太子の子の山背大兄王である。自宅の近くに儀式に向いた氏寺を造営したのは、厩戸皇子一族が蘇我一族と競争して、天皇家へ近づこうとした現れだとも推測される。
■山背大兄王が法起寺を造営
 638年頃に山背大兄王が法起寺を造営した。母と同居していた斑鳩岡本宮を再利用して尼寺にしたものである。法輪寺と同じく左右非対称であるが、講堂が中庭に面している。また、東に塔、西に金堂という逆の伽藍配置である。その理由は、来訪者の参加する儀式用よりも、講堂(研究室)を用いる母たちの便宜や研究時間の済んだ後の夕陽のことを重視したのではないだろうか。
■舒明天皇が国家寺院を造営
 639年に舒明(じょめい)天皇が、百済大寺を造営した。天皇は神道の祭祀の主宰者でもあるので、仏教はライバルであった。しかし、諸分野で有識者が外国学術を推進しているので、仏教の導入に踏み切った。
 台頭する蘇我一族の氏族寺院を凌駕するために、官営寺院を造営したともいえる。

 伽藍配置は詳細が不明であるが、法起寺又は法輪寺と似ているらしい。強くなり過ぎた蘇我一族と対抗するために、山背大兄王やその建築チームの意見を採用したのかもしれない。
■蘇我入鹿が山背大兄王を襲撃

 643年に蘇我入鹿の襲撃により、山背大兄王一家23人が、父の聖徳太子が造営した元の法隆寺で集団自殺した。蘇我一族が更に天皇家との姻戚関係を強めて、かつては協力してきた厩戸皇子の子孫が邪魔になってきたのであろう。山背大兄王が、自分の氏寺である法起寺で自殺したのではなく、父が造営した元の法隆寺で自殺した理由は、蘇我一族が聖徳太子への義理を軽んじたことを、政治家たちへアピールするためではないだろうか。

聖徳太子を描いたとされる肖像画「唐本御影」(wikipediaの「唐本御影」を参照のこと。)

 唐本御影は、紙幣の聖徳太子像に採用されたことのある三人の並んだ有名な絵である。前(向かって左)が聖徳太子の弟とされる殖栗王(えくりのおう)、次(中央)が厩戸皇子(うまやどのおうじ、聖徳太子)、最後(向かって右)が聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)というのが定説であるが異説もある。

 描き方が忠実ではないので、横1列に立っていると錯覚する人が多いだろう。これは縦一列に歩き始めたところを描いた絵である。

 厩戸皇子が左腰に下げている太刀は、向かって右側の山背大兄王の皇子の手前に見えている。横に並んでいるのではなく、縦に並んでいる証拠である。左端の殖栗王が左足のかかとを上げ、中央の厩戸皇子が左足のかかとを少し上げ、右端の山背大兄王がかかとを上げていないのは、歩き始めの動きを表現したのである。

 

■646年 中大兄皇子らが蘇我入鹿や一族を暗殺。孝徳天皇が大化の改新を発令

■蘇我倉山田石川麻呂が山田寺を造営
 649年に蘇我倉山田石川麻呂が山田寺をほぼ造営した。講堂が外にあるのは蘇我馬子の飛鳥寺と同じである。塔と金堂の配置は厩戸皇子の元の法隆寺と同じである。蘇我一族の生き残りとして、その建築チームが蘇我方式を踏襲しつつ、反蘇我勢力にも配慮したのかもしれない。
■天智天皇が国家寺院を造営
 665年頃に川原寺(後に大安寺)が官営寺院として造営された。天智天皇の命令かどうかは諸説がある。
 講堂(研究所)と儀式場を分離したのは法輪寺式である。金堂の配置は、飛鳥寺や法起寺との中間である。蘇我一族に対抗するためか、左右非対称が天皇家の定番になったようである。
■厩戸皇子の支持者が新たな法隆寺を現在の法隆寺の位置に造営
 厩戸皇子の遺徳をしのぶ支持者は多くて、669年頃に現在の位置に新たな法隆寺を造営した。新旧二つの法隆寺がしばらく併存した。
 伽藍配置は山背大兄王の法輪寺と同じである。回廊の中には講堂(研究所)はなかった。中庭での儀式を重んじたためだと思われる。中門が横四問二戸なのは類例がない。縦三間三戸で、中心の柱間が広いので、回廊へ進みやすい。
 天智天皇も造営を援助した。厩戸皇子一族の名誉を回復させて、天皇への批判を緩和するためだと思われる。中庭では儀式が盛んに行われたと思われる。そのように想像しないで、法隆寺の建築デザインを議論するのは適切ではない。
■670年 元の法隆寺が失火で消失
 この失火は原因不明であり、アンチ厩戸派の仕業だといわれやすい。しかし、それなら新法隆寺にも放火するだろう。厩戸一族自身が、集団自殺で血塗られた元の法隆寺の解体作業をするよりも、焼却する方がよいと思って放火したのではないだろうか。
■天武天皇が薬師寺を造営
 680年頃から、天武天皇が薬師寺(藤原京)を造営し始めた。後で平城京の近くの西の京へ移転した。
 現在の薬師寺に踏襲されているように、塔が東西にあるのが特徴である。仏舎利を納める卒塔婆(墓)という意味は薄らぎ始めたといえる。中門は横五間三戸と広いが、縦三間一戸で入門後に回廊へ進むという接続方式は新法隆寺式である。

 中庭は広いけれども金堂が中心にあるので、儀式の用途は減っていたと思われる。塔を東西に建てたことを含めて、儀式の参加者としての使いやすさよりも、見栄えを重視し始めたと思われる。
■聖武天皇が国分寺建立の詔を発令
 741年に聖武天皇が国分寺建立の詔を発令した。官営寺院を朝廷近くだけではなく、全国支配を強化するために地方ごとに国分寺や国分尼寺を造営し始めた。天皇家と藤原家による支配が安定したので、中央での儀式は寺院を用いるまでもなく、御所などで十分になったのだろう。
 全国の国分寺や国分尼寺の伽藍配置は、必ずしも統一されていない。出雲国分寺は、塔が外塀より内側ではあるが、中回廊の外側に建てられていたらしい。墓である塔よりも、仏像を拝む金堂を中心にすることによって、朝廷の威光を誇示するようになったのだろう。
■法隆寺の中門の中心に柱がある理由は不明
 建築家の武澤秀一は、「左右対称でない伽藍配置なので、中庭にいると視界が揺らぐ感じがする。中門の真ん中の柱を見ると、揺らぎを感じなくなる。構図がひきしまる」と述べている。建築チームの微妙なデザインなのだ、という仮説である。中門が西にずれているのは、工夫した結果なのは確かである。

 現在の聖霊会という儀式では、中門の(外から見て)左側から入って、まっすぐ行進している。武澤秀一は「左の柱間から入門して、右の柱間から出る」という仮説を述べている。四間二戸が法隆寺だけで終わったのは、寺の儀式を権力誇示に使う時代が、短期間で終わったからだろうか。
■人の動きを想像しないとスペースデザインの感覚が分からない
 行進のことを行道(練り)という。前に述べたように、寺院の中心へ右手側を向けるのがインド仏教式である。右手側が内側だから、時計回り(右回り)に回るのが作法である。寺院は内側であるほど聖域であり、重要人物が重要儀式に使う。

塔内・堂内も回るのは最上級の儀式や最重要人物である。

縁側や裳腰(後述)内を回るのは縁儀の語源であり、上級の儀式や重要人物である。

庭を回るのは庭儀の語源であり、中級の儀式や重要人物である。

回廊は初級の行進や見物者用である。

 こうして分類すると、横四門二戸・縦三門三戸である中門は、初級者の交通混雑の緩和に便利である。入る人は向かって左側、出る人は向かって右側という一方通行である。
■裳腰は装飾ではなく実用壁
 五重塔や金堂の一層目の裳腰は、縁儀をする時に雨風をしのげるように、簡素な屋根と壁を後で追加したものである。安っぽくて評判が悪いこともあるが、本体と競わないように故意に実用デザインにとどめたのだ。
 墓である塔の2層以上は重要人物でも入る用途はなく、欄干などは装飾である。例えば、薬師寺の塔の2層以上の裳腰は実用ではなく装飾用である。
■塔の心柱は墓用の非構造物
 インドの半球塔を参考に、中国式や日本式の塔ができた。インドの半球塔は、釈迦や宇宙を感じさせる立体曼陀羅である。中国式や日本式の塔も、その土地に合った立体曼陀羅の表現方式だといえる。
 塔が地震や火災で損壊しても仏舎利が大丈夫であるように、仏舎利壺は地下に大切に埋めてある。その代わり、外に見える象徴として塔の頂上に法輪がある。木造の塔で実体の仏舎利と象徴の法輪を接続して一体にするために、塔の中心にある長い木の棒を心柱(しんばしら)と呼ぶ。
 高層の五重塔は、格子状に密に配置した柱や梁桁で支えられる。法輪と地面とを結ぶ心柱は、周囲の梁桁とは、ほとんどつながっていない。同じ柱とは言っても、心柱は塔を力学的に組み立てる構造物ではない。法輪と心柱は仏舎利を納める墓用にデザインされた部品群なのである。法輪や心柱のように建物を力学的に支えるのとは別の用途の物を、建築の分野では非構造物という。非構造物は力学的設計の対象外である。

 例えば、ベルサイユ宮殿の屋根裏から下がっているシャンデリアは、照明用及び装飾用の非構造物であるのは明らかである。シャンデリアは屋根という構造物から吊り具で支えられているのであって、宮殿を力学的に支える役割は持たない。心注も同様なのだ。
■塔の心柱は墓としてのデザイン物の部材

◆法然寺五重塔、300年の悲願を解析技術で実現(株式会社メイジンのウエブページ)

 高松市仏生山(ぶっしょうざん)の法然寺五重塔は、大成建設が元請けして設計、宮大工集団の金剛組が主要な施工を担当して、今春、完成した。現行法規を満たす現代的な木質構造とするため、解析技術を駆使した。
 五重塔の構造は、心柱を中心に据え、周囲を五重の屋根と構造で覆う格好となっている。心柱は釈迦の遺物とされる「仏舎利」を象徴するもので、真下には供え物が置かれ、上端では相輪を支えている。ただし、心柱は塔の主要構造部ではなく、全体の強度は心柱周囲の架構が担っている。

心柱は非構造物であり、構造物と少しだけ接続して、そっと支えられているというのが正しい。

心柱は仏舎利壺や法輪とともに、釈迦の墓としての非構造物である。雨風から防ぐための塔を心柱に支えさせることは、畏れおおくてできないのだ。

東京スカイツリーを建造した大林組は「五重塔の心柱が地震対策の技術だという説には根拠がない。今回、地震対策用に設計した世界初の構造物について、五重塔に敬意を表して心柱という名前をちょうだいした」と述べている。これが専門家の正確な見解である。

 寺院の塔が倒壊しにくいのは、構造物としての柱や梁桁の間隔が狭いからである。僧侶が1階で墓としての奉仕をするだけなので、空間が狭くてもよいのだ。心柱以外の構造物が強いから倒壊しないのである。

 「昔の人の技術は素晴らしい」と驚くのは、昔の人を蔑視する考えの裏返しである。塔を倒壊させない技術を意識的に持っていたのなら、金堂を倒壊させないために技術を発揮できたはずだ。「それなのになぜ金堂は倒壊したりするのだろうか」と考えるのが正しい。耐震技術が確立していたとは言えないのである。

 塔が倒壊しにくいのは、耐震技術のせいではなく、狭くて高い非居住用の建物を立てるために、必然的に柱の間隔を狭くしたからである。地震に強かったのは単なる結果に過ぎないだろう。

■990年 食堂を講堂に直し、回廊の北側を屈曲させて講堂に接続した

 現在まで残る新法隆寺の中庭の北側は、当初は講堂なしの回廊だけだった。平安時代になって北側の回廊をもっと北へ拡張して、元の食堂を講堂に直して中庭へ面するようにした。次のような理由が推測される。

集会儀式の用途が減ったほかの寺に比べて、聖徳太子崇拝の強い法隆寺では、集会儀式が盛んであり、中庭を広くするニーズがあった。一方、ほかの寺と同様に、釈迦をまつる塔(墓)を主役とする聖域の寺から、金堂や講堂で活動する寺へという変化もあった。

研究者としての僧侶には、研究や生活の場と金堂や塔との間を、行き来しやすい伽藍配置にしたいというニーズがあった。

 従来の北回廊は、中庭に面した部分の柱間が20あった。東西の中心に柱がある。中庭の塔は西側にあって幅が狭く、金堂は東側にあって幅が広いので、二つの伽藍の中心は、北回廊の中心の柱より、柱間半分だけ西へずれている。南にある中門は、中心に柱があって、それが二つの伽藍の中心とそろっており、柱間半分だけ西へずれていた。

 改修された法隆寺は現在のように、次の図の伽藍配置になった。五重塔の柱の間隔が狭いことが分かる。

(武澤秀一「法隆寺の謎を解く」より)

 新たに屈曲させて奥まった北回廊は、講堂と合せて注間は19である。北回廊の中心は講堂の中心の柱間であり、東西の中心と揃っている。この講堂の中心と比べると、中門の中心は西にずれている。(精密な図面を入手できていないので、現地に行ってみないと確信はできないが。)

 前に引用したように、建築家の武澤秀一は、「左右対称でない伽藍配置なので、中庭にいると視界が揺らぐ感じがする。中門の真ん中の柱を見ると、揺らぎを感じなくなる。構図がひきしまる」と述べている。視界が揺らぐ感じがするのは、ひょっとしたら中門の中心と講堂の中心が、東西にずれているせいかもしれない。

■後世の心柱の変節

 更に後になると、心柱を地面から浮かせたり、上の法輪から離して構造物から鎖で吊り下げる寺院も登場した。地面から浮かせるのは、地面の湿気で柱が腐ることへの対策である。鎖で吊り下げるのは、屋根と法輪・心柱との隙間から雨漏りがして腐ることへの対策である。本来の墓の方式を破って、長持ちすることを優先し、形式だけそれらしくした方式である。これも地震対策という根拠はない。そうしなくても倒壊しないからである。

■法隆寺の見学の見どころ
 現在の法隆寺を見学する機会があるなら、お勧めすることを挙げてみる。

非対称式の法輪寺を創始し、対称式の旧法隆寺で自殺した山背大兄王のことを予習する。

南側の中門の中心から北の講堂を見て、揺らぎのようなものを感じるかどうか確かめる。

その場所で、北側の講堂の中心がずれているか確かめる。

後世の寺の日本庭園式ではなく、白砂の庭は聖域であり儀式用であることを鑑賞する。

後世の寺の日本庭園式ではなく、儀式用に必要十分な質実剛健さを鑑賞する。

中門及び回廊の広さを味わう。儀式の入場・行進のことをイメージする。

南側の中門の西寄りの柱間から入門したとして、回廊を時計回りで周回する。

次に塔と金堂をそれぞれ右回りで周回する。

塔及び金堂の裳腰を周回することは、観光客には不可能なので、そのことをイメージする。

北側の講堂の中心から南の中門を見て、揺らぎのようなものを感じるかどうか確かめる。

その場所で、南側の中門の中心がずれているか確かめる。

最後は中門の東寄りの柱間から出門する。通行が制限されていてそれができないなら、そのようにイメージする。

[ 戻る ] [ ホーム ] [ 上へ ] [ 進む ]