仮名手本忠臣蔵は偽名を用いた創作である。現在の雑誌やドラマは実名を乱用している。史実がどうだったのかを明らかにしよう。
「四十七士以外は非忠臣」というのは史実ではないので、正式名は「忠臣蔵」や「赤穂義士事件」ではなく「元禄赤穂事件」である。 | |
現在の赤穂市では、忠臣蔵イメージを嫌うアンチ忠臣蔵の市民が多数派のようである。 |
■元禄赤穂事件までの出来事
勅使饗応役 |
死傷事件などの主な出来事 |
1628 旗本豊島明重が老中井上正就を刺殺。即時に自害。父と子へ切腹命令。断絶。井上はお咎めなし。 | |
1632 溝口善勝47歳(沢海14000石) | 1632 将使・勅使の相互挨拶行事の確立 |
1634 鍵屋の辻の決闘。(荒木又右衛門が助太刀) | |
1637 島原の乱。死者約8000人。 | |
1641 溝口宣直35歳(新発田6万石) | 1641 オランダ人を長崎の出島へ移す。 |
1645 京極高和25歳(丸亀5万石) | |
1646 水谷勝隆48歳(備中松山5万石) | |
1647 脇坂安元62歳(飯田55000石) | |
1648 黒田長興37歳(秋月5万石)等 | |
1651 脇坂安元66歳(飯田55000石) | 1651 慶安の変(由井正雪の乱)。数名自害、磔刑。 |
1652 仙石政俊34歳(上田6万石) | 1652 承応の変。老中襲撃計画。磔刑、切腹命令。 |
1655 脇坂安元70歳(飯田55000石) | |
1656 小出吉英68歳(出石6万石)等 | |
1657 明暦の大火 | |
1668 浅野長直57歳(赤穂53000石) | ←長直は長矩の祖父。娘は大石家へ嫁いだ。 |
1680 第4代将軍徳川綱吉34歳。 | |
1683 浅野長矩15歳(赤穂53000石) | |
1684 稲葉正休が大老堀田正俊を刺殺。稲葉は即座に刺殺され御家断絶。堀田はお咎めなし。大老空席。 | |
1685 生類憐れみのお触れ。文治への転換推進。 | |
1688 黒田長重28歳(秋月5万石) | 元禄1年 柳沢吉保が側用人となる。 |
1689 仙石政明29歳(上田58000石) | 元禄2年 |
1690 亀井茲親20歳(津和野43000石) | 元禄3年 |
1691 溝口重雄57歳(新発田5万石) | 元禄4年 |
1692 京極高豊36歳(丸亀58500石) | 元禄5年 |
1693 秋田輝季44歳(三春5万石) | 元禄6年 高田の馬場の決闘。中山安兵衛が加勢。 |
1694 亀井茲親24歳(津和野43000石) | 元禄7年 |
1695 黒田長清28歳(直方5万石) | 元禄8年 貨幣改悪。経済成長なきインフレ。 |
1696 浅野長澄24歳(三次5万石) | 元禄9年 |
1697 伊東祐実53歳(飫肥51000石) | 元禄10年 井伊直興が大老に。 |
1698 亀井茲親28歳(津和野43000石) | 元禄11年 |
1699 鍋島直之56歳(蓮池52600石) | 元禄12年 |
1700 稲葉知通47歳(臼杵5万石) | 元禄13年 井伊直興が辞任して、大老が空席に。 |
1701 浅野長矩33歳(赤穂53000石) | 元禄14年 浅野長矩が吉良義央に傷害。切腹命令。 |
将軍綱吉は尊皇大名が生じないように、天皇との相互挨拶を強化して政治力を封じた。 | |
天皇や大老を敬遠し、側用人(幕僚)を用いて、形骸的階層を減らそうとしたようだ。 | |
饗応は浅野長矩は2回目で、浅野家は4回目と慣れている。浅野長矩は不慣れだからいじめられたとは限らない。 |
■赤穂事件は以下の2回の事件で構成される
第1次赤穂事件:江戸城中での浅野長矩による吉良義央殺人未遂事件 |
1628年、1684年の刺殺事件に比べれば軽い事件であった。 |
第2次赤穂事件:赤穂藩浪人による吉良義央暗殺事件 |
政権転覆ではない地味な暗殺であり、仮名手本忠臣蔵が創作されなければ、有名になることはなかっただろう。 |
■ 第1次赤穂事件(殿中殺人未遂事件)の進行
1701.1.28 将軍使者の吉良義央59歳が上洛。天皇に年賀挨拶。生涯で24回上洛。
21時、殿中抜刀・殺人未遂の罪で命令により長矩切腹。吉良家はお咎めなし。 |
将軍綱吉も吉良義央も浅野家も、勅使饗応には慣れていた。 | |
数万石の大名が饗応役として石高から経費を負担する。 | |
旗本は数千石なので饗応役大名が指南料を払う。長矩は経験があったので指南料の額を減らしたのかも知れない。 | |
高家旗本は天皇の拝謁があるので大老並みの従四位上というエリートである。 | |
長矩が義央への恨みで激昂したが、残り数日を耐えて他の手段で訴えるべきだった。 | |
動機は不明。過去は成功していたので、大名対旗本の対立などの一般論は通用しない。 | |
脇差しを刀のように振ったのが問題だった。2回の前例は身体をぶつけて刺殺した。 | |
即時自殺をしなかったので、綱吉は「気を利かせろ」と切腹を勧奨して実施された。 | |
未遂なので斬首刑になるところだが、天皇の手前、気を利かさせたのであろう。 | |
小栗判官歌舞伎は浅野長矩を象徴するが、小さな事件なので人気はいま一つだった。 | |
当時の私見を書いた日記や手紙が、第2次事件後の創作演劇に採用された形跡がある。内容は推測や偏見であっても、日記や手紙という存在は史実なので誤解を招く。 |
■仇討ちや喧嘩両成敗や切腹の位置づけ
仇討ちは、殺された人の家族が、免許状を得て行い、相手を殺しても処罰されない。第1次・第2次赤穂事件は仇討ちの条件を満たしていない。 | |
喧嘩両成敗は、この頃には司法制度が確立して消滅していた。本件は浅野側からの一方的な攻撃なので、浅野側だけが処罰された。前例と同様である。口喧嘩は認定されなかった。 | |
自発的な切腹も勧奨による切腹も、刑法には存在しない。司法手続きが玉虫色になる手段だ。事例は意外に少ないし、裁定がけしからんと一般論で批評しても意味はない。裁定の形を取らないからである。 |
■第1次赤穂事件の関係者
赤穂浅野家の中で、第2次赤穂事件の四十七士以外の主な人のその後を列挙する。参考までに、後世の軍隊の階級と会社の階級を添える。藩によって異なるのであくまでも参考程度。
浅野内匠頭長矩 赤穂藩主。 |
吉良義央に刃傷に及び即日切腹。(大将・社長) |
浅野大学長広 浅野長矩の実弟で養子。 | 刃傷後に閉門となり、領地没収、本家へ永預け、赤穂浅野家再興と変遷。(中将・次期社長) |
近藤源八正憲 1000石。 | 大石の縁者。義盟には不参加。(中将、常務取締役) |
岡林杢之助直之 組頭1000石。 | 開城派で義盟には不参加。(中将、常務取締役) |
奥野将監定良 組頭1000石。 | 大石補佐。円山会議後に離脱。(少将、平取締役) |
藤井又左衛門宗茂 家老800石。 | 饗応役浅野長矩の補佐に失敗。(少将、平取締役) |
大野九郎兵衛知房 国家老650石。 | 開城を主張して、離脱した。(大佐、事業部長) |
安井彦右衛門 江戸家老650石。 | 饗応の補佐に失敗する。(大佐、事業部長) |
寺井玄渓 藩医300石。 | 大石良雄を助けた。(軍医中佐、部長代理) |
進藤源四郎俊式 足軽頭400石。 | 円山会議後に離脱。(中佐、部長代理) |
岡本次郎左衛門重之 大阪留守居400石。 | 円山会議後に離脱。(中佐、部長代理) |
多川九左衛門 持筒頭・足軽頭400石。 | 開城にあたり大石の嘆願書を幕府に提出する時に任を誤る。円山会議後に脱盟。(中佐、部長代理) |
小山源五左衛門良師 足軽頭300石。 |
円山会議後に離脱。(中佐、部長代理) |
ここまでの石高の合計は約6900石もある。
家臣の9割ぐらい、法律を尊重して、討ち入りは更なる処罰があるので反対だった。勇気のない不忠臣という批判は間違いで、法律を尊重した文治派である。 | |
ここに挙げた主な文治派の石高だけでも、旗本吉良家の4200石を越えている。 | |
武断派は損得を抜きにして主君の恨みをはらそうとした。忠臣ではなく武断派である。 | |
中山安兵衛は仇討ちではなく高田の馬場の喧嘩に、部外者なのに助太刀した世話焼きである。堀部の婿養子になったが、赤穂生活の経験はない。新参者として世話焼きを自重すれば、第2次赤穂事件を起きなかったと思われる。 | |
上級者の大石内蔵助だけは文治派ながら武断派と行動した。挙行して失敗したら最悪なので、いざというときは挙行を止めるために、リーダとして参加したのではないか。 |
■第2次赤穂事件(赤穂浪人による吉良義央暗殺事件)
1702. 11.5
大石内蔵助が江戸到着。 吉良義周始め17〜28人を傷害。赤穂側は負傷12人。
赤穂側は自首して、双方が取り調べを受けた。 吉良義周は対応不行き届きにより信州高島へ流罪。 三河吉良家(知行地)は断絶。綱吉死去の時に恩赦があった。 |
集合地から吉良邸まで、深夜に通行できたのはなぜかという理由は不明である。
町人地区は盗賊対策の木戸番があるが、武家地区は安全なので警備が手薄か。 | |
早朝勤務の町人や武家雇い人が通行するので、必ずしも通行禁止ではなかったか。 |
戦いは赤穂側の楽勝であった。楽勝と見込んだから大石も最後に挙行を許したのであろう。 15〜19人を殺して、46人も切腹になったのは、一方的な襲撃の代償であった。
■第2次赤穂事件の吉良邸の家臣組織
吉良邸は単なる宿舎ではなくて、平時の役所を兼ねており、平時の役所としての家臣配置をしていた。有事の戦闘配置ではないので戦闘には不利であった。
雪が降っていたというのは史実ではない。ただし雪は積もっていた。 | |
隣の土屋家が討ち入り早々に塀越しに高提灯を掲げて庭を照らしたという史実はない。 | |
役所配置は、中小姓などの階級別にグループになり、管理職が必ずしも指揮しない。 |
@ 吉良邸の中枢部の当主及び家臣グループ(相当する現代の軍隊・会社の階級を示す)
吉良左兵衛義周 |
高家旗本4200石。吉良義央の孫で養子。重傷。 |
斎藤宮内忠長 筆頭家老(150石)。 | 無傷。(大尉、課長代理) |
松原多仲宗許 家老(100石)。 | 40歳。中傷。(大尉、課長代理) |
左右田孫兵衛重次 家老(100石)。 | 事件後、義周と共に配流。(大尉、課長代理) |
中小姓 12人 4〜7両。 | 死亡2人。重傷1人。負傷6人。(伍長、主任) |
祐筆 4人 6〜7両。 | 死亡2人。無傷2人。(伍長、主任) |
岩田弥一兵衛 台所役(5両)。 | (伍長、主任) |
小塩源五郎 料理番。 |
22歳。死亡(玄関)。 |
大名赤穂藩の家老が1000石級なのに旗本の家老は100石級と一桁少ないことが分かる。
A 吉良邸の外向け業務の家臣グループ
取次月番 2人 50石。 |
死亡1人。無事1人。(中尉、課長補佐) |
取次 3人 15両。 | 重傷2人。無事1人。(特務曹長、係長) |
宮石所左衛門 用心。 | 50歳。中傷。 |
山吉新八郎盛侍 近習(30石5人扶持) | 元上杉藩士。奮戦、中傷。(少尉) |
近習 5人 5〜10両。 | 死亡1人。負傷1人。無事3人。(伍長、主任) |
目付 2人 6〜8両。 | 無事2人。(伍長、主任) |
B 吉良邸の隠居とその家臣グループ
吉良上野介義央 高家旗本元4200石。 | 死亡(台所内部の炭小屋)。 |
小林平八郎央通 隠居付家老(150石)。 | 死亡(南書院前)。(大尉、課長代理) |
鳥居利右衛門正次 隠居付用心(50石)。 | 60歳。死亡(座敷庭)。(中尉、課長補佐) |
宮石新兵衛 隠居付用人(50石)。 | 重傷。(中尉、課長補佐) |
清水一学義久 隠居付近習(7両)。 | 40歳。死亡(台所口)。格別の活躍なし。 |
榊原平右衛門 隠居付近習(6両)。 | 50歳。死亡(台所口)。(伍長、主任) |
大須賀治郎右衛門 隠居付近習(6両)。 | 30歳。死亡(台所口)。(伍長、主任) |
加藤太左衛門 隠居付近習(6両)。 | (伍長、主任) |
三田八右衛門 隠居付台所役(5両)。 | 死亡。(伍長、主任) |
C 吉良邸の武士以外の家来グループ
杉山与五右衛門 | 厩別当。 |
茶坊主 2人 | 死亡2人。 |
足軽 8人 | 死亡1人。負傷3人。無事4人。(上等兵) |
中間 3人 |
負傷3人。(二等兵) |
@ABCの石高の合計は約882石である。このほかに長屋にいた100人近い家来の多くは、長屋から出なかったので無事であった。
■赤穂浪人の戦闘配置(相当する現代の軍隊・会社の階級を示す)
吉良邸が平時の役所配置であるのに対して、赤穂側は戦闘配置なので、戦闘には有利であった。
@ 表門組・表門固めのグループ
大石内蔵助良雄 国家老、1500石。 |
45歳。(大将、専務取締役)。十文字槍。 |
原惣右衛門元辰 足軽頭、300石。 | 56歳。(中佐、部長代理)。十文字槍。軽傷。 |
堀部弥兵衛金丸 元江戸留守居・300石。 | 77歳。(元中佐、部長代理)。長槍。軽傷。 |
間瀬久太夫正明 大目付、200石。 | 63歳。(少佐、課長)。鍵槍。 |
村松喜兵衛秀直 扶持奉行・江戸定府、20石。 | 62歳。(特務曹長、係長)。鍵槍 |
A 表門組・新門固めのグループ
貝賀弥左衛門友信 中小姓・蔵奉行、10両。 |
54歳。(伍長、主任)。短槍。 |
横川勘平宗利 徒目付、5両。 | 茶会情報を入手。37歳。(伍長、主任)。刀。中傷。 |
岡野金右衛門包秀 部屋住み。 | 24歳。十文字槍。 |
B 表門組・玄関固めのグループ
近松勘六行重 馬廻、250石。 |
34歳。(少佐、課長)。刀。中傷。 |
早水藤左衛門満尭 馬廻、150石。 | 43歳。(大尉、課長代理)。半弓。 |
大高源五忠雄 金奉行、20石。 | 茶会日時を入手。38歳。(特務曹長、係長)。長刀。 |
神崎与五郎則休 徒目付、5両。 | 37歳。(伍長、主任)。半弓。中傷。 |
間十次郎光興 部屋住み。 | 吉良義央に一番槍。首級あげた。26歳。十文字槍。中傷。 |
矢頭右衛門七教兼 部屋住み。 |
17歳。鍵槍。 |
C 表門組・屋敷内斬り込みのグループ
片岡源五右衛門高房 側用人、350石。 |
武断派。36歳。(中佐、部長代理)。十文字槍。 |
富森助右衛門正因 馬廻・使番、200石。 | 34歳。(少佐、課長)。十文字槍。 |
矢田五郎右衛門助武 馬廻・江戸定府、150石。 | 29歳。(大尉、課長代理)。刀。 |
奥田孫太夫重盛 武具奉行、150石。 | 武断派。57歳。(大尉、課長代理)。ナギナタ。 |
岡嶋八十右衛門常樹 札座勘定奉行、20石。 | 38歳。(特務曹長、係長)。刀。軽傷。 |
勝田新左衛門武尭 札座横目、15石。 | 24歳。(曹長、係長)。槍。 |
武林唯七隆重 馬廻、15両。 | 義周を傷害、義央にとどめ。32歳。(曹長、係長)。大身槍。軽傷。 |
吉田沢右衛門兼貞 部屋住み。 | 蔵奉行吉田兼亮の長男。29歳。刀。 |
小野寺幸右衛門秀富 部屋住み。 | 小野寺秀和の養子。28歳。刀。 |
D 裏門組・裏門内固めのグループ
大石主税良金 部屋住み。 |
大石良雄の長男。裏門の大将。16歳。十文字槍。 |
吉田忠左衛門兼亮 足軽頭・郡奉行、200石。 | 64歳。(少佐、課長)。鍵槍。軽傷。 |
潮田又之丞高教 郡奉行、絵図奉行、200石。 | 35歳。(少佐、課長)。鍵槍。 |
小野寺十内秀和 京都留守居番、150石。 | 61歳。(大尉、課長代理)。鍵槍。 |
間喜兵衛光延 勝手方吟味役、100石。 |
69歳。(大尉、課長代理)。十文字槍。 |
E 裏門組・長屋防ぎのグループ
木村岡右衛門貞行 馬廻・絵図奉行、150石。 |
46歳。(大尉、課長代理)。鍵槍。軽傷。 |
千馬三郎兵衛光忠 馬廻、100石。 | 51歳。(中尉、課長補佐)。半弓。 |
中村勘助正辰 書物役、100石。 | 46歳。(中尉、課長補佐)。十文字槍。 |
不破数右衛門正種 元馬廻・浜奉行、元100石。 | 34歳。(元大尉、元課長代理)。鍵槍。 |
前原伊助宗房 金奉行・中小姓、10石。 | 呉服屋。40歳。(曹長、係長)。刀。軽傷。 |
茅野和助常成 横目付、5両。 | 37歳。(伍長、主任)。半弓。 |
奥田貞右衛門行高 部屋住み。 | 近松勘六の異母弟。26歳。長刀。軽傷。 |
間瀬孫九郎正辰 部屋住み。 | 間瀬正明の長男。23歳。十文字槍。 |
間新六郎光風 | 間光延の次男。24歳。半弓。 |
F 裏門組・屋敷内斬り込みのグループ
堀部安兵衛武庸 馬廻、200石。 |
旧姓中山。武断派。34歳。(少佐、課長)。長刀。 |
赤埴源蔵重賢 馬廻、200石。 | 35歳。(少佐、課長)。刀。 |
大石瀬左衛門信清 馬廻、150石。 | 27歳。(大尉、課長代理)。十文字槍。 |
礒貝十郎左衛門正久 物頭・側用人、150石。 | 25歳。(大尉、課長代理)。直槍。 |
菅谷半之丞政利 馬廻・郡代、100石。 | 44歳。(中尉、課長補佐)。刀。 |
倉橋伝助武幸 扶持奉行・中小姓、20石。 | 34歳。(特務曹長、係長)。刀。 |
三村次郎左衛門包常 台所奉行・酒奉行、7石。 | 37歳。(曹長、係長)。刀。 |
杉野十平次次房 札座横目、8両。 | 28歳。(伍長、主任)。刀。 |
村松三太夫高直 部屋住み。 | 村松秀直の長男。27歳。直槍。 |
寺坂吉右衛門信行 足軽、3両2分。 | 39歳。討ち入り後に離脱して生存。(上等兵) |
@ 〜Fの石高の合計は約5200石である。
寺坂のような足軽が切腹作法を知る階級である藩もあるが、本件では泉岳寺で離脱させたらしい。 | |
約1000石の役所配置の組織を、約5200石の戦闘配置の組織が襲撃したといえる。 | |
赤穂側が戦闘配置であり、吉良側が役所配置かつ夜間だったので対等でなかった。 | |
吉良側の総人数は89〜150人。その8割程度は敷地内の周囲の長屋に住んでいた。 | |
赤穂側の死者数は0人、負傷者数は12人と極めて少ない。 | |
吉良側の死者数は15〜19人、負傷者数は17〜28人と意外に少ない。 | |
大刀による戦闘は乏しく、長い槍などを用いた安全だが効率の悪い戦闘である。 | |
楽勝になった理由は、赤穂側は宣戦布告なしに不意打ちし、兜・鎖帷子を着用して損耗しなかったからである。山鹿流の陣太鼓で宣戦布告したということは史実にはない。 | |
吉良側の死傷が少ない理由は、鎖帷子着用の差で勝ち目がないと見極めたからだ。 | |
両者の死傷者と場所を調べると、次のような少数の場面に限られたことが分かる。 |
■第2次赤穂事件とその後
事件の後に知名度がどうなったかの進行を、1902年の八甲田山雪中行軍遭難事故と比較してみよう。
赤穂事件 |
八甲田山雪中行軍遭難事故 |
1702.12.15 4時、吉良邸を襲撃。 1703.2.4 殺人により足軽を除く46人が命令により切腹。 1703.2.16 歌舞伎「曙曽我夜討」上演。2.18上演禁止。 1706 創作浄瑠璃「碁盤太平記」上演。仮名手本が踏襲。 1709 将軍綱吉死去。恩赦により浅野長広は旗本500石。 1710 歌舞伎「鬼鹿毛無佐志鐙」 1714 絵島・生島事件で山村座廃絶。宮地芝居の廃止。 1716 第7代将軍徳川吉宗。享保の改革。伊勢おかげ参り。 1733 浄瑠璃「忠臣金短冊」 1747 歌舞伎「大矢数四十七本」。一揆、打ち壊し頻発。 1748 人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」 1748 歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」 |
1902.1.23 青森連隊行軍開始。 1.27 後藤伍長を救出。 2.4 佐賀新聞の遭難蒐集記事 2.16 史実本「雪中行軍」出版 2.18 史実劇「雪中行軍」上演 6.20 遭難捜索活動打ち切り。 7月 公式事故報告書発行。 1921 史実映画「雪中行軍」 1923 ラジオ放送開始 1960〜 高度経済成長開始 1971 創作小説「死の彷徨」 1977 創作映画「八甲田山」 |
堀田事件、第1次赤穂事件に続く第2次赤穂事件の裁定は、大老がいないので膠着した。磔刑が妥当だが、第1次と同様に切腹を勧奨して裁定をぼかした。 | |
被害者である吉良家が「対応不行き届き」で処罰された理由(推測) | |
さまざまな利害や考え方で裁定が長引いたのではなく、裁定担当者は「起きる必要のない変な事件を2回も起こすとは困った者たちだ」「名裁きをして点数が上がるような事件でもないし」と苦りきって取り組んだと思われる。 | |
八甲田山事故は、当初は史実が流布していたが、69年後に実名を伏せた創作小説が評判になった。映画になったが単調で再演人気は落ち、現代人の半数は知らない。 | |
赤穂事件は、実名の史実本や史実演劇がなく、46年後に偽名の創作歌舞伎がヒットして人気を確立した。史実通りだったら面白くなくてヒットしなかっただろう。 | |
明治時代以降は本や映画が実名を使うようになった。史実だと誤解する人が増えた。 | |
戦後に時代劇映画が大人気になった。そのあと次第に人気が低下していった。 | |
創作忠臣蔵は時代劇の中で、人気が持続して、消去法で人気が集中したテーマである。 | |
人気があるから制作したのだが、いまや何回も制作するから人気が高いのである。 |
テレビ局が新作忠臣蔵の制作・放映をした年は、次のように頻繁である。
1956、 1959、1964、 1969、1971、 1974、 1975、 1979、
1982、 1985、 1987、 1988、 1989、
1990、 1991、 1994、 1996、 1997、 1999、
2001、 2003、 2004、 2007、 2008、
2010、 2012
■まとめ
堀部安兵衛がいなければ、第2次赤穂事件は起きなかっただろう。 | |
歌舞伎やテレビ局が非忠臣や吉良家に冷たい創作芸術を売らなければ、赤穂事件誤解は起きなかっただろう。 | |
赤穂市の多数派は討ち入り反対者の子孫も多く、忠臣と非忠臣に分ける忠臣蔵の作り話を嫌い、「赤穂イコール刃傷・討ち入り事件」という暗いイメージを嫌う。 |