■ 東日本大震災の被害は、死者、地震災害避難民、原発事故被災者に分類されるが、マスコミの取り上げ比率は、原発>避難民>>死者の順である。死者のことをもっと注目すべきである。
■ 死者の数は、5月26日現在の警察庁のまとめで、12都道県で1万5234人、行方不明者は6県で8616人となった。死者・不明者は計2万3850人。被害が大きい3県の死者は宮城9099人、岩手4488人、福島1583人。不明者は宮城5243人、岩手2934人、福島435人。【共同通信 2011年5月26日】
■海に面しない市町村の死者は百名に満たなかった、ということをもっと注目すべきである。建物倒壊より津波の死者が桁違いに多い。
■ 地震による死亡の大半は避けることができたものである。死の表面的な原因は例えば窒息死が多いが、再発防止策が対象にする元々の原因を、品質管理では根本原因(root cause)といい、それを究明する活動を根本原因分析RCSという。
■遺体検視「全く追いつかない」 神戸市医師会
仙台市医師会の要請を受け、神戸市医師会の医師が3月17日に現地入りしていた。 「(遺体は)毛布やシートにくるまれているだけ。言葉がなかった」「妊婦や制服姿の女子高校生、幼い子ども。両腕を前に突き出して身を守るような姿勢で亡くなった方もいて、胸が締めつけられた」。
「検案した全員が溺死。水がかき混ぜられる2、3mの波ではなく、10mを超える波にすっぽりのまれたことがうかがえる」
■ 根本原因分析は将来のために客観的で共有可能なノウハウを蓄積する作業である。個々の責任を追求したり、確率問題・意思決定問題のAかBかに個人的意見を投票したりするものではない。阪神・淡路大震災に見られるように、日本人は死者や遺族へ遠慮して、問題をうやむやにする傾向が強い。
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津波警報を聴いたのに死亡した人も多いが、地震発生直後に停電が発生して、津波警報を視聴できなかった人も少なくない。再発防止策は、「震度6程度以上の揺れを感じて、なおかつ放送が途絶した場合は、津波危険地区の人は即時に、所定の高台か高い建物へ批判すること」である。
■逃げ遅れか…地震死者、60歳以上が65%
東日本巨大地震で被害の大きかった岩手、宮城、福島、茨城、千葉の5県で年齢のわかっている死者2853人のうち、60歳以上が65.1%に上ったことが読売新聞のまとめでわかった。70歳以上でも全体の46.1%を占めた。6434人が亡くなった阪神大震災では、70歳以上は39.3%だった。
震災被害に詳しいK関西大教授の話「高齢者は健康体でも若者に比べて動きが遅く、津波などの災害では逃げ遅れる事例が多い。データからは、高齢者に対して、行政による避難誘導のあり方を見直し、近所の若者による手助けが必要だという教訓が導き出される」(読売新聞 3月25日)
( 高齢者の死者が多いのには、もう一つの理由がある。早朝に発生した阪神・淡路大震災とは異なり、東日本大震災は平日の日中に発生した。勤務先へ出勤した大人、買い物に出かけた大人、学校へ登校した児童・生徒・学生、保育所へ預けられた幼児が多かったのだ。家庭にいたのはそれ以外の人なので、高齢者が多いのである。)
■ 宮城県女川町で中国人研修生助け、自らは津波に〜中国で感動広がる(朝日 3月18日)
中国から宮城県女川町へ働きに来ていた研修生に「津波が来るぞ」と警告し、高台の神社に避難させたあと、自らは津波にのまれた。ある日本人男性の自己犠牲が中国メディアで報じられ、静かな感動を呼んでいる。
その男性は、女川町にある水産加工会社、水産会社のSさん。地震発生時、津波の知識を持たず宿舎近くに逃れた研修生たちを、Sさんは「もっと高いところへ」と神社へ誘導した。そして再び宿舎に戻ったところを津波が襲った。
(再発防止策:避難をするのは一回だけに限るべきであり、一度避難した後に戻ってはいけない。海の方へ向かっては一歩でも進んではいけないのである。Sさんは亡くなってしまったが、生存してくれた方が喜ばしいのである。今回の業績を讃えることと、今後どうすべきかは明確に区別したい。)
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宮城県東松島市のAさん夫婦の懺悔(河北新報 5月12日)
Aさん夫婦が経営する会社と自宅とはすぐ近くにあった。二人は会社で地震に遭った。揺れが収まると、同居する両親を裏山へ逃がした。夫は船や機材の被害を確かめようと保管場所へ向かった。夫人は気持ちが落ち着かぬまま、近所のお年寄りの家を訪ね、安否を確かめた。
地震発生から約1時間。「逃げた方がいいんじゃないかな」。2人が迷っていた時、地鳴りのような低い音とともに、海ではなく歩いて数分の鳴瀬川から津波が押し寄せてきた。とっさに夫は会社に、夫人は自宅に駆け込んだ。建物が基礎から浮き上がり、周辺の住宅と共に鳴瀬川支流の吉田川を逆流した。途中で会社と自宅が接触し、夫人は思い切って夫の側へ渡った。
約7キロ上流で次第に流れが緩んできた。2人は流木の上を転がるようにして土手にたどり着いた。
夫人は小学生たちへ「大きな地震が来たら、すぐ高いところへ逃げるんだよ」と読み聞かせてきた。「そんな自分たちが逃げずに津波に巻き込まれてしまった。避難を呼び掛けて、津波が来るまでの1時間を生かすべきだったのに」。子どもたちに恥ずかしかった。
東松島市が住民に配った津波防災マップでは、浸水被害は「0.5メートル未満」と想定されていた。夫人は「6メートルの津波が来ます」という放送を聞いたが、「大変なことだとは思わなかった」。
夫婦は仙台市からの見学者に自宅跡地で説明した。「おじさんたちはたまたま助かった。津波が来る前にすぐ逃げるという約束を守らなかった。同じように逃げないで亡くなった人がたくさんいるんだ」
2人は、何があったかを伝えていこうと決めている。「二度と同じことが起きてほしくないから」
■ 宮城県南三陸町の農業Oさんの母の死(河北新報 5月16日)
農業のOさんは、自らを責め続けている。自宅は海抜10メートルより高い場所に建ち、津波が来ても安全だと信じていた。同居していた母と妻に自宅に残るよう指示したが、大津波は2人を自宅ごとのみ込んだ。母は亡くなり、妻は行方不明のままだ。
判断の根拠はあった。1960年のチリ地震津波で、周囲の家は津波にのまれたが、やや高台にある及川さんの自宅は被害を免れたからだ。
(再発防止策:生きるか死ぬかの問題については、安全係数を2倍にせよ。)
Oさんは母と妻を自宅に残し、約250メートル離れた海の様子を見るため、自転車で海へ向かった。真っ黒な津波が壮絶な勢いで岸壁を乗り越え、Oさんに迫った。身の危険を感じて高台に上がり、波から逃れた。
(再発防止策:監視と称して現場へ近づいて亡くなった人が多いのは、洪水の時にも後を絶たない。現場を監視に行って危険を発見しても、なすすべがないことがほとんどである。警報に従って行動すべきだ。)
■ 宮城県名取市「巨大津波 命をどう守るのか」衝撃的な映像と証言の数々。【NHKスペシャル】
宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)小学校では、一度校舎の3階に生徒達を上げました。津波警報の到達予定時刻の3時には沿岸部では津波が見えたのだが、内陸にある閖上小からは見えなかった。「津波は来ないんじゃないか」と思い、生徒達を1階の体育館へ移動させた。実際に巨大津波が来襲したのは、その30分後だった。保護者の一人、Kさんがたまたま2階にいて、津波が近づいてくることに気付いた。(NHK放送の航空録画では校庭にいた4、5人が津波を察知して、校舎へ向かって走っている)。Kさんは体育館へ走って「津波が来たので逃げろ」と知らせて、生徒達は屋上へ必死に避難した。直後に校庭から校舎1階や体育館へ津波が流れ込んだ。
(再発防止策:「津波は来ないかも知れない」と思うのは確率的に妥当であるが、意思決定としては確率よりも危険度を優先して「津波は来るかも知れない」を選ぶのが危機管理の原則である。仮に来なかったとしても非難は言いっこなし、という心構えが必要である。)(再発防止策:意思決定問題を大勢で議論してはならない。災害担当教員か教頭がどうするか原案を提示して、トップである校長が意思決定すべきである。)
(再発防止策:津波来襲を知らせたKさんは、生前に顕彰碑を建ててもよいぐらいである。そのことが「津波は来ない」と決めてしまった人たちの反省を促すことにもなるからだ。)
■ 指定避難所の小学校へ避難した住人を津波が襲う
東松島市の野蒜(のびる)小周辺はチリ地震津波でも被害がなかった。
(再発防止策:チリ地震は地球の反対側の地震。地元で発生した明治の三陸津波の被害を基準にすべきである。)
「津波が来ると分かっていれば、みんな逃げた。多くの人が『ここは安全』と思っていたはずだ」と住民Sさんは言う。体育館の中。「大丈夫、落ち着きましょう」。校長のKさんはステージ近くに立ち、ハンドマイクで子どもたちや住民を励ましていた。
「先生、津波が来るって」。携帯電話を持った保護者が駆け寄ってきた。既に市との連絡手段は絶たれ、指示もなかった。「現場で判断するしかない」。木島さんがそう思ったとき、体育館の入り口付近でワゴン車が浮いている光景が目に飛び込んできた。次の瞬間、体育館に水が流れ込んできた。
「ステージに上がって、上がって!」。Kさんが呼び掛けている間にも、水かさは増していった。野蒜小に津波が到達したのは地震の66分後ごろとみられる。水は木島さんの膝まで来た後、一瞬の間を置いて背丈を超えた。渦に巻き込まれた。2階の観覧席にいた人に引き上げられた。水の中でもがいたり、浮き沈みする人たちの姿があった。
Sさんは体育館の入り口付近にいた。「ゴゴゴゴゴ」という低い音とともに「津波だ」「逃げろ」という叫び声を聞いた。Sさんは体育館に飛び込んだ。とっさにバスケットゴールの鉄柱につかまった。2階は児童や住民ですし詰めだった。
K校長は校舎の壁には亀裂が入り、倒壊する危険性があったと判断し、校舎ではなく体育館に児童や住民を誘導したと、後で述べた。
(再発防止策:倒壊は確率は高くても、外傷で済むことがある。津波は確率は低くても、簡単に窒息死する。確率よりも損害が致命的な項目を避けるべき。)
午後10時半ごろ、ようやく水位が下がったのを見計らって脱出作業が始まった。この間、お年寄りらが低体温症で次々と息を引き取った。体育館の1階フロアで10人ぐらい、観覧席で8人ぐらいが亡くなったようだ。校庭にも遺体があった。
「最初から体育館を使わず、校舎に避難していればもっと多くの人が助かったのではないか」。犠牲者の遺族からは、そんな声が上がっている。「3階建ての校舎に避難していれば犠牲者が出なかったのではないか」と非難を受けたというK校長。「津波はここまで来ないだろうという過信があったのも事実だが、あの状況では最善の判断をしたと思っている」と話していた。
(再発防止策:「あの状況ではXXだった。今後はYYすべきだと思う」と整理するのが適切である。今回の責任追及も大切であるが、法律にも関わるので合意が得られにくい。今後の再発防止策だけを分けて議論する方が妥当である。)
■ 宮城県石巻市:津波から生還〜7割死亡・不明の大川小
北上川のほとりに立つ宮城県石巻市立大川小学校は、全校児童108人のうち、津波で74人が死亡・行方不明となった。北上川の堤防より低くて海抜0メートルに近かったが、河口から4kmほど上流にあったので、津波の危険は感じにくい土地だった。教職員も10人が不明となり、うち7人の死亡が確認された。学校にいて生還した教員は1人。
5時間目を終えたとき、大きな揺れが襲った。子供たちは机の下にもぐり、(揺れが収まると)校庭への避難が指示された。校庭には、離れた地域の児童を送るためのスクールバスが止まっていた。「いま校庭に並んだ子供の点呼を取っているところで、学校の指示待ちです」。男性運転手は運営会社に無線で連絡した。これが最後の通信。この運転手も津波で死亡した。市教委によると、「津波の際、どこに避難するかは特に決められていなかった」という。被害を免れた大半は、心配して車で迎えに来た保護者が連れ帰った子供だった。
男性教諭は、校舎内を確認しに向かった。子供たちは他の教員に誘導され、裏山脇の細い農道を、列を組んで歩き出していた。坂道を行くと校庭より7〜8メートル高い新北上大橋のたもとに出る。教諭は列の最後尾についた。
(再発防止策:大津波警報が出たら、倒壊の危険性よりも津波の危険性を優先して、即時に高い所へ逃げるべきである。男性教諭が校舎内を確認に行ったのも間違いであり、時間が少しずれれば津波で死亡していただろう。この場合、それがかえって幸いして、列の最後尾になり、生還することになったが。) 「ドンという地鳴りがあり、何がなんだか分からないうちに列の前から波が来た。逃げなきゃと思った」。教諭はその瞬間をこう証言したという。波は河口とは逆方向の橋のたもと側から児童の列の先頭めがけて襲いかかった。
気づくと、勝手に裏山を登ろうとする児童が見えた。生い茂る杉で周囲は暗いが、ゴーという音で足元まで水が迫っているのが分かった。「上に行け。上へ。死にものぐるいで上に行け!」と叫んでいた。追いつくと3年の男児だった。くぼ地で震えながら身を寄せ合ったが、お互いずぶぬれ。「このままでは寒くて危ない」と男児の手を引き、山を越えた。車のライトが見えた。助けられた。
■後日、娘のランドセルが見つかった男性は捜索中、裏山を指しながらK校長に疑問をぶつけた。「ここに登れば助かったんじゃないですか」。当日別件のために学校にいなかったK校長は「そうですね。現場にいたらそうしたかもしれません」と答えたという。
男性は、泥まみれの赤いランドセルを抱きかかえ、むせび泣いた。行方不明の小1だった長女のもの。小4だった次男も亡くした男性は強い思いを抱き、学校跡に通い続けている。 「あの日、本当に何があったのか、知りたい」。市教委は「想定外の津波だった。山が崩れる危険がある中、農道を行く以外に方法があったかは分からない」としている。(SANKEI EXPRESS)
保護者の頭をよぎるのは「学校はなぜ、子どもの命を守れなかったのか」との思い。日ごとに膨らむ疑問と説明不足への不満は、学校に対する不信感に変わりつつある。
■大川小学校が3月28日、地震後初めてとなる登校日を設け、全校集会を開いた。やりたくてもできない卒業式と修了式の代わりの登校日は、全員での黙とうと、K校長の話だけだった。
同校長は「6年生21人で、今日来られたのは3人。生徒さんを亡くされた保護者のお気持ちなども考えると、今すぐの卒業式は無理でした」。金庫に保管していた卒業証書が流されたことだけが、無期延期の理由ではなかった。無事だった34人のうち28人が登校。全員で黙とうし、死亡が確認された児童56人を悼み、不明の18人を案じた。
この日は、学校から保護者へ事故時の様子が説明された。学校によると、地震時は下校準備中で児童全員が校庭に避難。裏山は倒木で危険と判断し、校舎内への避難も検討した後、新北上大橋方面への避難を始めた途中で津波に襲われたという。(注:「隣の杉山は急勾配で登れない」と判断したとの報道もある。)
堤防を突き破ってきた津波に、一瞬で校舎の屋根までのみこまれた。(注:校舎の上階へ逃げるという選択肢はなかった。)
3姉妹の末娘の6年生愛さんが行方不明になっている会社員Kさん)も、毎日のように現場を歩く。なぜこれほどの犠牲が出たのか、裏山に避難できなかったのか―。足を運ぶたびに、次々と疑問が浮かぶ。
3年生の息子が行方不明になっている40代の父親は、市内の避難所から、各地の遺体安置所に通う日々が続く。学校からは、当時の状況について説明がない。「津波から逃げる時間は十分にあったはず。学校は子どもが犠牲になった親一人一人に説明すべきだ」と憤る。
6年生の息子を亡くした男性は、時間が過ぎ、冷静さを取り戻すにつれて悔しさが増す。「誰が悪いではなく、徹底的に検証してほしい。今後のために子どもたちの死を無駄にしてほしくない」
■大川小学校の校長らが4月9日夜、同市内の別の小学校で、被災当時の状況に関する保護者説明会を開催した。
保護者からは「助かる方法は他になかったのか」などと学校側の対応を批判する発言が相次いだといい、当初の予定時間を上回る1時間半に及んだ。説明会は、保護者から「当時の状況を知りたい」との要望が相次いだことを受け開かれた。報道陣には非公開で行われ、保護者ら97人が出席した。
市教委によると、K教育長代行が「安全であるはずの学校で多くの尊い命が失われたことに、心よりお悔やみ申し上げる」とあいさつ。その後、大川小のK校長や、現場にいた教職員で唯一生還した男性教諭が当時の状況を説明した。
3月11日の大地震発生直後、同校教諭は児童に校庭への避難を指示し、誘導点呼を行った。その後、迎えに来た保護者に児童を引き渡している途中、津波の危険があると判断。地域住民と教頭らが相談の上、高台となっている新北上大橋傍らの三角地帯に避難することを決めた。津波は三角地帯への移動中に児童や教職員を襲った。学校のすぐ裏に山があるが、地震による倒木の危険があったため、避難場所に適さないと判断されたという。
■ 大川小学校で4月24日午前、約1カ月遅れの卒業式が行われた。6年生21人のうち、亡くなった13人と今も行方が分からない3人の卒業証書は、保護者が代理で受け取った。遺族らは「子供を失った喪失感は地震のときから、何も変わっていない」保護者の一人は終了後、「納得のいく説明ではなかった」と肩を落とした。市教委は今後、児童らからの聞き取りも行った上で、改めて詳細について記者会見するとしている。(時事通信
2011/04/09)
(再発防止策:保護者が納得できなかった理由は、説明不足ではない。今回の責任追及と今後の再発防止策を区別すべきである。責任追及は別扱いにして、「地震発生直後に高地へ避難するか、または危険性があっても裏山へ登るべきである」という再発防止策を明確にすれば納得できるのである。)
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岩手県釜石市:3千人近い小中学生のほとんどが無事に避難
背景には、古くから津波に苦しめられてきた三陸地方の言い伝え「津波てんでんこ」(自分の責任で早く高台に逃げろの意味)に基づいた防災教育がある。
釜石市北部の大槌湾を望む釜石東中学校(生徒数222人)は、同湾に流れ出る鵜住居(うのすまい)川から数十メートルしか離れていない。地震発生時は、1階にいた3年生の栗沢正太君は避難口を確保しようと、とっさに窓を開け、机の下へ。揺れが一段落すると、担任教師が「逃げろ」と叫び、栗沢君が校庭に出ると、2、3階にいた1、2年生も非常階段を下りてきた。 校庭に出た生徒たちは教師の指示を待たず、高台に向かって走りだした。途中、同校に隣接した鵜住居小学校(児童数361人)の児童も合流。小学生の手を引く中学生の姿も目立ったという。
子供たちは普段の防災訓練で使っている高台に集まろうとしたが、だれかが「まだ危ない」と言いだし、さらに高い場所にある老人施設まで移動。学校から1キロも走っていた。
教師たちが点呼を取ったところ、登校していた両校の児童生徒計562人全員の無事が確認できた。その5分後、両校の校舎は津波にのみ込まれた。
津波は地震発生後、いつ来るか分からない。教師の指示が遅れると、逃げ遅れることになる。釜石市内の小中学校は指示されなくても「とにかく早く、自分の判断でできるだけ高いところ」に逃げるよう指導してきた。
「津波てんでんこ」は岩手県大船渡市の津波災害史研究家山下文男さん(87)が、幼少時に父母が語っていた言葉を講演で紹介したことなどがきっかけで広がったとされる。「てんでんこ」は「てんでんばらばらに」の意。もともとは自分だけでも高台に逃げろという考え方を示すが、現在の三陸地方では自分の命は自分の責任で守れという教訓として使われている。
「想像をはるかに超えていた。津波を甘く見ちゃいけない…」。(前述の)津波災害史研究者、山下文男さんは陸前高田市の県立高田病院に入院中に津波に遭い、首まで水に漬かりながらも奇跡的に助かった。これまで津波の恐ろしさを伝えてきた山下さんですら、その壮絶な威力を前に言葉を失った。「全世界の英知を結集して津波防災を検証してほしい」。声を振り絞るように訴えた。
「津波が来るぞー」。院内に叫び声が響く中、山下さんは「研究者として見届けたい」と4階の海側の病室でベッドに横になりながら海を見つめていた。これまでの歴史でも同市は比較的津波被害が少ない。「ここなら安全と思っていたのだが」家屋に車、そして人と全てをのみ込みながら迫る津波。映像で何度も見たインドネシアのスマトラ沖地震津波と同じだった。
ドドーン。ごう音とともに3階に波がぶつかると、ガラスをぶち破り一気に4階に駆け上がってきた。波にのまれ2メートル近く室内の水位が上がる中、カーテンに必死でしがみつき、首だけをやっと出した。10分以上しがみついていると、またもごう音とともに波が引き、何とか助かった。
(注:海面低下による引き波ではない。打ち寄せる勢いで上がった波が戻っただけである。)
海上自衛隊のヘリコプターに救出されたのは翌12日。衰弱はしているが、けがはなく、花巻市の県立東和病院に移送された。後で聞くと患者51人のうち15人は亡くなっていた。
「こう話していると生きている実感が湧いてくる」と山下さんは目に涙をためる。「津波は怖い。本当に『津波てんでんこ』だ」(岩手日報)
(注:海上自衛隊は11日18時の首相の救援派遣命令を待たずに、別な名目で全国各地の港から艦艇を即時に出港させた。横須賀港から出港した最初の艦艇が東北地方沖へ到着したのは、翌12日の夜明け前であった。)
■ 岩手県岩泉町:児童88人を救った「運命の避難階段」 (産経新聞 3.20)
東日本大震災による津波は、岩手県岩泉町小本(おもと)地区にある高さ12メートルの防潮堤を乗り越えて川をさかのぼり、家屋をのみ込みながら小学校まで迫った。間一髪で児童88人の危機を救ったのは、2年前に設置された130段の避難階段だった。
太平洋に臨む岩泉町小本地区は、小本川沿いに半農半漁の住民158世帯、428人が暮らしている。小本小学校は同地区の奥に位置し、背後には国道45号が横切っているが、高さ十数メートルの切り立ったがけに阻まれ、逃げ場がなかった。
同小の避難ルートは以前は別だった。数年前の避難訓練の際、伊達勝身町長が「児童が津波に向かって逃げるのはおかしい」と国土交通省三陸国道事務所に掛け合って変更。平成21年3月に国道45号に上がる130段、長さ約30メートルの避難階段が完成した。
今回の巨大津波は小本地区と川を挟んだ中野地区(175世帯、422人)を直撃。130棟の家屋をのみ込み、校舎手前の民家もなぎ倒した。児童は予想外のスピードで迫る津波から逃れるため、避難階段を必死に駆け上り、高台の広場に逃げ込んだ。校舎と体育館は水に浸かり、今も使えない。
高橋渉副校長(51)によれば、階段のおかげで避難時間が5〜7分短縮できたという。広場の倉庫には毛布やテントも用意してあった。児童88人を救った130段の階段、高橋副校長は「あと10分、避難が遅れていたらどうなっていたか分からない。少なくとも何人かはけがをしていたかもしれない」と胸をなで下ろした。
卒業式と入学式・始業式は延期した上で町役場近くの町民会館で実施する。校舎での授業にはめどがたっていないという。
■ 岩手県大船渡市:市議の「遺言」、非常通路が児童救う(朝日新聞 2011年3月29日)
海から約200メートルのところにある越喜来(おきらい)小学校。3階建ての校舎は津波に襲われ、無残な姿をさらしている。校舎の道路側は、高さ約5メートルのがけ。
従来の避難経路は、いったん1階から校舎外に出て、約70メートルの坂を駆け上がってがけの上に行き、さらに高台の三陸鉄道南リアス線三陸駅に向かうことになっていた。
「津波が来たとき一番危ないのは越喜来小学校ではないかと思うの。残った人に遺言みたいに頼んでいきたい。通路を一つ、橋かけてもらえばいい」。2008年3月の市議会の議事録に、地元の平田武市議(当時65)が非常通路の設置を求める発言が記録されている。親族によると、平田さんは数年前からこのことを話すようになったという。平田さんの強い要望をうけたかたちで、昨年12月、約400万円の予算で校舎2階とがけの上の道路をつなぐ津波避難用の非常通路が設置された。
地震直後、計71人の児童は非常通路からがけの上に出て、ただちに高台に向かうことができた。その後に押し寄せた津波で、長さ約10メートル、幅約1.5メートルの非常通路は壊され、がれきに覆いつくされた。遠藤耕生副校長(49)は「地震発生から津波が来るまではあっという間だった。非常通路のおかげで児童たちの避難時間が大幅に短縮された」と話す。
市教育委員会の山口清人次長は「こんな規模の津波が来ることは想定しておらず、本当に造っておいてよかった。平田さんは子供のことを大事に考える人でした」と話した。避難した児童の中には、平田さんの3人の孫もいた。平田さんの長男、大輔さん(38)は「人の役に立った最後の仕事に父も満足していると思う。小学3年の息子にも、大きくなったら話してやりたい」と語った。